世界一健康長寿のニライの風来坊

豊饒を齎す理想郷は海の彼方の蓬莱島!ニライの島夢郷!!その桃源郷を求めて南の風来坊は今日も迷走する。

沖縄一の漁師の街「糸満」の男と女の風習・素顔

2005年02月13日 | Weblog
戦前戦後一貫して漁師の町を堅持し発展してきた糸満。漁から得た収入・金銭は男(夫)が所有・所持し女(妻)は夫から買って(魚介類)、それを那覇その他の界隈に売って収入を得ていた。糸満女の売り声は甲高く響き渡り夙に有名であった。<いゆぐぁー、こーん、ちょーれー>(新鮮な魚を買って下さい>という呼び声は沖縄芝居や演劇にも上演され馴染みの深い演目になっていた。巌として諸行事・祭祀・祭礼は旧暦で現在でも行っている。去る正月も“旧正月”で執り行った。漁師の街らしく大漁旗を高々と掲げ豊漁を祝った。<イイソーグヮチデービル>(良い正月ですね)と祝いあって賑やかに街頭を闊歩した。漁港では数多の所有船が各々、大漁旗を靡かせ船内では祝宴を披いて祝った。由緒ある鎮守の森に鎮座する拝所「白銀堂」では女達が豊漁を祈願し泡盛やお米の入った祈願用木箱<ビンシー>を備えウコー(線香)を焚いて大漁・豊漁と無病息災、航海の安全を祈った。戦前から出色で異色な街・集落の糸満の素顔はウチナーンチュ(沖縄人)の範疇に在りながら何故か傑出した一面があり異なった側面があった。伝説的出自に拠れば、遥か東方海上からやって来た“イースト・マン”<東方の人>が糸満の由来であると。即ちイースト・マン→イート・マン→イトマンとなり漢字の糸と満が当てられ“糸満”となったとの由来がある。そのせいか男は気骨があらく流石に海の男というに相応しい風貌風袋をしている。女は色白で美人の定評高く沖縄三代美女の誉が高い。糸満はその産地の一つに数えられている。因みに他の二つは中城村伊舎堂である。今帰仁村天底も美女の産地に数えられている。理由は水と関係が有る様だ。天然良質の水が湧き出る地域は得てして色が白く肌がきめ細やかである。末端の名も無き集落にも、それ相応の由来、伝説、出自がある。その一つ一つの発掘に意義を見出し今後とも精力的に調査していきたいと思っている。・・・

沖縄宮古 池間島の”神ニガイ(御願)”と女神官制度

2005年02月12日 | Weblog
沖縄では殆どの昔風の祭事は旧暦で行われる。新暦の2月9日は旧暦の正月に当たっていた。宮古の池間島でも例年に違わず“神ニガイ”が執り行われた。神に願をたて奉納する祭事を行う女神職を<ツカサ>といい20年ぶりの復活である。池間島では年間50余の祭祀を執り行い5人のツカサが受け持った(今年は5人制の20年ぶりの復活をみた)。大主神社には午前7時半頃、1人の最高ツカサ<フヅカサンマ>(大司母)と4人のツカサが厳かに紫の装束を纏い集った。第一鳥居の前で裸足になり約70メートルの参道を徒歩でウタキ(御嶽)へ着き、そこから第二鳥居を通り抜けカンヌジャウ(神の門)の前の砂山の香炉に線香を焚いて酒、米、塩、タバコ、現金等を備えた。主に生計を海に託している島々では殆どの祭祀・神事は航海の安全と大漁・豊漁の祈願を託して行われる。池間島から移住した人達の集落、佐良浜や平良市の西原でも神ニガイが同様に執り行われた。漁師達は船舶に大漁旗を掲げ、ありったけの海の幸を拵えて美酒に酔う。1年間の安全無事に感謝し来る年も大漁・豊漁を祈願するのである。類似の祭事は沖縄では各集落ごとに日常茶飯事に執り行われている。糸満市でも旧正月が盛会裏に終わった。農漁業は陰暦の月の満ち干と密接に関係しており機械文明が発達していなかった頃は専ら旧暦に頼よわざるをえなかった。糸満市は新暦の正月は殆ど行わず専ら旧正月のみが行われている。伝統を重んじる祖先の知恵が今日でも生かされている証左である。世の趨勢に反しても古来からの地域に密着した祭事・祭典・生業等は、その地域の気候風土、実態・実情にマッチした形態で挙行されるのが生活の態様である。・・・

天孫降臨の島「古宇利島」の“ウンジャミ”と旧正月神事

2005年02月11日 | Weblog
ウンジャミ(海神祭)に謡われている古宇利島の古謡“古宇利ぬ前ぬ黒潮 渡ららん黒潮 七ち橋かきてぃ 渡ちたぼり”<くいぬめーぬくるす わたららんくるす ななちはしかきてぃ わたちたぼり>・・・意訳すると「古宇利島の前方を流れる黒潮は流れが速く渡ることが出来ないよ、多くの橋を架けて向こうの島に渡して下さい」・・・昔の人々の切ない願いであった。去る2月8日に夢の架橋「古宇利大橋」が架かって大げさに言うと古代からの夢が、やっと実現したのだ。・・・海神祭(ウンジャミ)は海の幸や航海の安全を祈願する沖縄の代表的な神事である。神秘の島、古宇利島は古の昔から天孫降臨の島として数多の伝説に彩られた神の島である。沖縄本島の北部、本部(もとぶ)半島から北東に1.5キロ、直径2キロの小さな離島である。基幹産業は農漁業。主にサトウキビとイモを栽培している。漁業では珍味の“ウニ漁”が盛んである。最盛期は7月~10月頃である。天孫降臨の伝説の域を出ないが3千6百年前の遺跡「古宇利遺跡」が発見され環状集石遺構と土器が出土した。そういう形跡が伝説の流布に繋がったのではなかろうかと推察される。ウンジャミの他、白装束に身を纏った女神官が“ムシバレー(虫払い)”と称する農事も執り行われている。・・・沖縄本島遥か東方の海上に浮かぶ久高島(くだかじま)と双璧をなす古代沖縄・琉球の「神の島」である。信心深く信仰に厚い島の人々は祖先発祥の処とされるウタキ(御嶽)を崇拝し数々の神行事を行い伝承している。神の島「古宇利島」は人類発祥の地として今も全国津々浦々から観光客が訪れ賑わいを見せている。・・・


県内一最長の「古宇利大橋」の開通に地元湧く!!

2005年02月10日 | Weblog
村民悲願の「古宇利大橋」が一昨日2,005年2月8日遂に開通した。通行料無料の架橋では日本一最も長い橋になった。長年、喜怒哀楽を共にし苦楽を分かち合った運搬船「第八古宇利丸」とも別れを告げ名実共に村民の新たなる第一歩が踏み出された事になった。歓喜の声は島中に終日、鳴り止まなかったと言う。それ程、宿望・願望が達成されたと言う事だろう。恒例の県知事や村長、関係者の祝賀の辞が述べられ式典・祝賀会は大成功裏に終了したという。古宇利島は人口350人程の小さなである。離島の中の離島で沖縄本島の人に比べ生活の利便性は著しく劣っていた。全長1,960メートルの超近代的な架橋になったのを機に本島との交流が盛んになり生活の質・量ともに向上する事を県民は期待している。最も、その事を一番望んでいるのは古宇利島の人々であろう。・・・懸念される前例もある。平和な小集落が多勢の人間の往来・行き来に拠って乱される事を恐れる。今までは鍵も掛けずに外出でき安心して用件を済ませていのに此れからは施錠しないと出かけられない。大道や小道にも塵が落ちていない小奇麗な集落が、もろに悪しき塵芥の焦土と化したら何のための架橋だったのかと困惑する。これまでの事例で言える事は常識と良識で観光地や施設は利用する事である。心ある訪島者に御願いしたい。観光で自分達が楽しむのは大いに結構だが島の良さや平和な佇まいまでも破壊しない様に心掛けてもらいたい事である。将来、発展的に名実共に観光立県を目指すなら県民一人一人が内外の来訪者に対する良識あるマナーを率先して示すべきである。そういう小さな心遣いの集積が将来の観光立県沖縄を確たるものにする。我が沖縄県の更なる発展を願い此れを機に苦言を呈する次第である。次回は古宇利島や他の集落の旧正月の神事を記述する。・・・



中高年フリーターの「哀歓日誌」

2005年02月09日 | Weblog
それ相応の地位や名誉を長年、継続して築いてきた自負と矜持が誰にでもあり習慣化している。一朝一夕に全てをご破算せよと言われても無理である。職業の貴賎を問わず、その道の専門技量を身につけて晴れて?退職したのである。さあ、これからは悠々自適に晴耕雨読でもして、のんびりと過ごそうか、あれこれと思案しながら希望に胸膨らませて第二の人生を設計し再出発する。昔、取った杵柄を発揮して同種の職業を選ぼうかと一週間から一ヶ月位は意気揚々と試案作りに勤しみ熱中した。ところが一月過ぎた頃から何となく気合が入らない。あれ程、希望に燃えてリタイアしたのに・・・。やる事は数多ある筈だ。どうしたのだろう。少々不安に駆られた。先輩諸氏にも思い当たる節があった筈だ。そこで某先輩・先達からアドバイスを乞うて見た。曰く、<過去の類似の仕事・業務は避けて未知の職業にチャレンジしてみたら、どんな仕事でもよい>との答弁。<気分も晴れて新鮮な気持ちでアタック出来る筈だ>と。・・・よーし、一丁やって見るか。最初に親戚の仕事を手伝った。一ヶ月もすると甘えがでたので、しかたなく止めた。次に中高年向きの仕事を紹介する職業紹介所を訪れ某業務に就いた。おもしろい。適職と感じた。継続した。ところが同僚とのいさかいに巻き込まれ数ヶ月で、そこも止める羽目になった。そうこうして転々と仕事を変えていった。今風に言えば「フリーター」になっていた。俺も、一角のその道の通になり年季が入ったのか、と我が身を振返り嘆息した。雑多な、しかも貴重な経験もした。某日の「個人業務日誌」には“過去の職業は伏せろ。地位も伏せろ。年齢も、まあまあで言え。トラブルは起こすな。偉ぶるな。仲間と上手く付き合え。世の常識を守れ。業界の常識に忠実になれ。リタイアしたのだ、我を伏せろ。我が儘を抑えろ。・・・”Etc。ページを捲りながら成る程、成る程と頷きながら俺も人間が丸くなったなあと、この頃、痛切に感じ、感慨し嘆息している日々である。・・・

ネット日記&ボケ防止と家族愛

2005年02月08日 | Weblog
「ペーパー日記」ではなくて何故「ネット日記」なのか。日記は本来、自分の思い(想い)想念を綴る日々の記録である。他所様に見せるものではない。自分の思いの丈を偽りなく綴る事に意義があり自己の表出あるいは捌け口である。では何故、公開するのか。個々人によって位置づけや考えの相違はあると思うが私は世相、世論、学説、事件、事故等の社会・学問等の諸相に対する私見を公開・開陳しフェアに意見交換して同感、異論を唱えあうツール、手段が「ネット日記」だと思っているからである。その事が、些かでも世論を喚起し良き方向に推進できればと密かに期待しているからでもある。もう一つの効用は、あくまで私個人の利益、効用の為である。本音・本旨は、そこにあるのだが・・・毎日、書くとなれば前日から明日の日記は何を書こうか、といろいろと思案する。つまり取材活動である。テーマが決まったら材料は何を持ってくるか。それを、どう調理し、どういう順序で配列するか、相互に多忙な日々だから短時間に効率よくスピーディーに決定し書かなければならない。(その技術・技量も身に付く様になる)だから前日から当日の記述する時まで脳細胞は活発に活動するのである。(前提として“毎日、書く”事を自分に強烈に義務づける事が中高年にとっては全ての事に良好な結果を齎す。詳細な理由は後日)社会時評や社会諸相、世論、世相、事件、事故、学説、発見・発明等・・・あらゆるジャンルに関心を抱きマスコミの動向や瑣末な事項から大は世界の事まで眼が向く様になる。ボケる暇なんかない。自他・世相共に一挙両得である。そこが公開の最大の狙いである。以前にも某日の日記で開陳したのであるがボケない秘訣や手段が「ネット日記」の公開であり最大の武器である、と私は考え利用させて貰っている。“ボケない”事に収斂すれば他に方法は数多あると思うのだが私にとってはベストな手段だと思っている。あまつさえ家族に対する最大の家族愛でもある、と思っている。実の老母の介護・老健・特養での体験から切実に、そう思う様になった。・・・

X氏の憂鬱Y氏の歓喜Z氏の達観

2005年02月07日 | Weblog
若年の特権――奔放にある程度自由で我が儘の利く未来バラ色で人生を謳歌する。青春とは・・・と互いに語り合いエンジョイした日々。昨今の若人は時代の潮流・奔流に呑まれ身動きできない堅苦しささえおぼえているのだろうか。X氏は嘆き、挙句の果ては憂鬱になる。もう歳か!否応なく肌身に染みた様に自己と長男とを比肩して嘆く。・・・Y氏は歓喜満面、能動的でポジティブでパワフルに振舞う。今流行のプラス思考が身に付いた典型的な御仁である。曰く、<人生は楽しまなくちゃ。くよくよするのも人生、暢気で陽気で前向きに生きるのも人生さ!>と社交ダンスや太極拳に余念がない程、活動的で人生賛歌の肯定的な論者である。Z氏はクールで冷静で緻密に事を運ぶタイプ。歳に違わず大人風で燻し銀の光背さえ放つ。人生を“生きる”とは、“人間とは”・・・とシビアに考え論理的に哲学的に考察する。兎に角よく勉強している。博学で探究心の塊(かたまり)見たいな人である。三人三様で、面白い組み合わせである。三人は幼馴染であり大の親友でもある。異様な寄り合いと言えば、まさに異様で異質である。・・・小生は三人の長短を三で割った平均的な人間だと自負し、そう思い込んでいる。だから人生は摩訶不思議で堪らなく魅惑的で、この世の限り有る人生を肯定的に謳歌・賛歌して生きたいものだと、つくづく思う。生き方は、人それぞれであるからこそ面白い。X、Y、Zのそれぞれのロング(ラン)・ライフの歩みは、大方の中高年の生き様の典型的な例ではなかろうか。自分の生や生き方との整合性で取捨選択していきたいものだと、つくづく思う昨今である。・・・

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”ハルウララ”にオーバーラップした人生いろいろ

2005年02月06日 | Weblog
直向な疾走!!一途な無私の力走!!忘れかけた人族(ひとぞく)の私心のない魂が今、彷彿と蘇って来る。「ハルウララ」は、あらゆる意味で人様(ひとさま)に忘却の思念・情念を抱かせ、勇気を与え続けて来た。中国紙の署名記事を要約すると―――ハルウララ→「日本人に人生教えた」とあり<多くの日本人がハルウララに人生の価値を見出したことが原因>、<生きる意味を教えてくれた春麗(ハルウララ)>とか<「努力を続けながらも不景気から抜け出せない日本人」が連敗を繰り返すハルウララに感銘>、<努力しても、能力的な限界から結局は失敗すると考えてしまう。「自分の能力に限界があろうとも、何事にも全力で取り組む素晴らしさ」を想起させる事が爆発的な人気につながる>、<気性は荒いが丈夫で、何度負けても果敢に勝負に挑むレースで見せたひた向きな姿は人々の脳裏にいつまでも残るだろう>―――と絶賛し紹介している。・・・ある日、忽然と河川に出没した動物に一喜一憂し大々的にマスコミは報じる。遠方からも見物・見学に参上する。ペットブームの昨今、幾多の種類の大中小、色とりどりの動物が売買され市場を賑わせている。その業界紙も爆発的に売れているし関連グッズ類も、これ又飛ぶように売れている。あの世行きのお墓さえあるし念仏まで添えている。・・・世界を見渡すと貧富の差、貧困、飢餓、セレブ、超高級贅沢品、ありあまる富、貧富の格差等々と紛争の遠因は、なへんにあるのか考えさせられる。かかる現象は、その世相を反映し如実に物語っていると思う。私見を大胆に述べると――“自分さがし”――に東奔西走し全ジャンルを対象にして狂奔している。価値観の喪失、“生きる意味”が確として持てない。自他共に自信が持てないし国家でさえも指針を示してくれない。人間形成の根幹、憲法から敷衍される「教育基本法」の改正云々が論議されている昨今だが曲がりなりにも戦前は“教育勅語”が在ったし国家の大計・体系があって統一、徹底していた。価値観の良し悪しは問わない。兎に角、国家目標があって末端まで浸透していた。・・・かかる世相だから延々として“自分さがし”と“生きる意味“の模索の旅は続くであろう。・・・嘆息。でも希望・明るい展望を!!

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”冬のソナタ”韓流ブームの考現学的考察

2005年02月05日 | Weblog
“冬のソナタ”が火付け役となり、あれよあれよと瞬く間に日本中を席捲した。特に中(高)年のおばさま族を虜にした。次第に波紋を広げ若い人にも浸透し男性族にまで波及した。熱しやすく醒めやすい日本人の習性・性に終わらなければ良いのにと心底、思った。過去の歴史的因縁を清算し対等・平等の正常化する又とない良いチャンスだと考えたからである。ブームの底流には、色々な要因が在ると思う。・・・因みに“韓流”とは<中国語で“韓国大衆文化の熱風”>という意味だそうである。米国や西欧諸国に眼が向き戦後このかた自由・人権・民主主義、経済発展、国益等・・・の名の基に突っ走ってきた日本。もう、そろそろ、この辺で近隣諸国に眼を転じ近くて遠かった韓国や中国とも親密な外交を展開する時機に来ているのではなかろうか。その韓流ブームを考現学的に観てみよう。「冬ソナ」の人気の底流には日本人に忘れられた郷愁の原風景が蘇って来たのではなかろうか。かつての良い意味での戦前が彷彿として蘇ってくるのではないのか。儒教思想に支えられた一家の大黒柱、父親の威厳と家族の纏まり――家族を大事にする情愛の思念――家族愛、兄弟愛、父性愛、母性愛、転じて友情、礼儀正しさ(沖縄的守礼の心)不変の自他への思いやりの諸々の情念が忘れかけた、かつての日本の原風景を、そこに観たのではなかろうか。・・・若い人にとっては父親を頂点とする封建的思想として儒教の影響が古い悪しき慣習として憎悪・嫌悪の対象となり拒否される感情が何故、湧いてこないのだろうか・・・日本の男性にない甘いマスクと優しい眼差し、相手を思いやる情愛の深さ、汚濁にまみれた日常を、しばし忘れさせる非日常に逃避し本来の人間性を回復する(無意識的に)ドラマの世界に圧倒されメロメロに無条件に陶酔していく。本姿は、そのへんに有る様な気がするのだが。・・・日本と韓国の歴史、文化の諸相を考える基点になり相互の理解と平和・繁栄を構築する礎石になれば「冬ソナ」も最良のチャンスを提供した事になった、と思うのだが。・・・

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クジラに逢いにロマンの海へ行こう!!

2005年02月04日 | Weblog
エメラルドグリーンに輝く大海原!東支那海を黒潮が横断する海域!そこがクジラの遊び場、避寒海の寝床ケラマ諸島の海域である。親子が戯れる無塵の海溝に大寒を過ぎた頃、南国沖縄の渡嘉敷島、座間味島には、はるか遠方の太平洋からザトウクジラがやって来る。2月のケラマ諸島は絶好の鯨の遊泳海、数ヶ月を過ごすのに最適の寝床海であり戯れ遊泳の海原である。ピークは2月で4月までがクジラ海原のウォッチング期間である。渡嘉敷島は2月1日~3月31日までを「鯨海峡ホエールウォッチング」の開催期間としている。地球最大の哺乳動物で、その巨体から吹き出る水飛沫は壮観そのものである。ザトウ親子がケラマ海域に出現し出したのは20年前からである。今では日本本土は勿論、世界から、どっと観光客がやって来て賑わいを見せている。ホエールウォッチング協会では海上に多数の船舶の群れの出入りではクジラの避寒・遊泳・生育に支障をきたすとあって陸上の小高い丘陵に展望台を築き、そのから情報の指令を出す事にしている。協会の綿密な観察と記録とで、その生態が、だんだん明らかに成りつつある。およそ400頭が遥か南方海域からやって来て数ヶ月を過ごし又、北方のベーリング海へと回遊・遠泳して行く。数多在る世界の海の宝庫の内、何故ケラマ諸島海域の渡嘉敷島、座間味島なのか。・・・気候、温暖で小さな島の多い静かな海域で餌も豊富でザトウクジラにとっては恰好の“出産・子育”の場所の(発見)海域であったからだ。慶良間諸島は那覇泊埠頭トマリンから西へ40キロメートルの位置に在る。・・・和名:ザトウクジラ。 学名:Megaptera novaeangliae  英名:Humpback whale・・自然保護団体から公認されるのも間近だろう。

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「琉球王国のグスク及び関連遺産群」パート7(終章)

2005年02月03日 | Weblog
八、「玉陵」(たまうどぅん)・・・沖縄最大の破風墓(はーふーばか)で尚家歴代の王族を祀ってある墓である。ここは守礼門から西へ下る、かつての綾門大道(あやじょううふみち)の左側、現首里高等学校の南隣にある。第二尚氏王統三代の尚真王が父の尚円王の遺骨を葬るために1,501年に見上森(みあげむい)から此処へ移したといわれている。高さ2メートルの石垣に囲まれた広さ2,400平方メートルの墓域である。戦前は、うっそうと茂った小森になっていた。第一門と第二門の間に琉球石灰岩の切石で組み立てられた台の上に閃緑岩の碑が建っている。これには「尚真王以下九人の子孫以外は、この墓に葬ってはいけない」と書かれている。又「玉陵石彫獅子」も在り沖縄の代表的な破風墓になっている。沖縄の埋葬の歴史は古く風葬から崖葬、火葬へと変遷してきた。「玉陵」は掘込墓で、その上に屋根を付けた破風墓の代表的な墓になっている。かつて柳 宗悦氏は「琉球最大の墓であるばかりか、その幽玄さに於いても世界で稀でいる。」と賛美し感嘆している。・・・

九、「「園比屋武御嶽石門」(すぬふぁんうたきいしもん)・・・守礼門から円覚寺へ向かって20メートル下った左手に在る。石門は中国風で琉球王家の拝所である。琉球王が外遊する時、旅の無事を祈って祈願し旅立った処である。扉以外は全て石造りの木造建築である。尚真王時代の1519年の建造で当時は中国との交易が盛んであった為、その影響を多く受け日本と中国の優れた技術を取り入れた琉球の代表的な石門の一つになっている。(八重山竹富島の石工“西塘”の代表作である)。アーチ門は2個以上で組み立てられるのが普通であるが1個で造られているのも当時としては稀代の作であった。恒例として“東廻り”(あがりうまーい)の時は必ず、ここ「「園比屋武御嶽石門」に祈願して旅の無事を祈って旅立ったのである。・・・
付記:“東廻り”(あがりうまーい)とは国王はじめ<聞得大君>(きこえおおぎみ――国王の姉妹――)が神聖な拝所を廻って旅の安全を祈願する為の儀式である。

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「琉球王国のグスク及び関連遺産群」パート6

2005年02月02日 | Weblog
六、「斎場御嶽」(せーふぁーうたき)・・・知念村役場から東へ徒歩10分、北の山道を5分歩いた処にある。正面から観ると直角三角形で岩が岩にもたれ掛かった恰好になっている。国王は多彩な国事を、この聖地で催したが毎年旧暦2月と8月頃になると国王自ら“天の神”と“地の神”を祀ったとの事である。琉球王国第一の聖地である久高島への遥拝所になっている。ここは神聖なる処故、男子禁制、女性のみの立ち入りが許可されていた。琉球最高の女神官<聞得大君>(きこえおおぎみ)――国王の姉妹――が女神官になる時の儀式「御新下る」(うあらうり)もここ斎場御嶽で執り行なわれた。その時は臣民、農民にいたるまで沿道ぞいに多数、参列したという。今でも拝所の敷石下から勾玉(まがたま)、青磁器等が発見されている。平成13年6月に国の重要文化財に指定されている。・・・

七、「識名園」(しきなえん)・・・真地公民館横の十字路の信号灯を南に行くと左側に熱帯植物園の生い茂った処がある。そこが“識名園”であり“王家の別荘”である。1,800年の尚温王の築園で東苑の“崎山御殿”(さきやまうどぅん)に対し首里の南に位置するので南苑と呼ばれていた。広大な識名園は室町時代の心字方式の造りになっており中心には池を配し東西には二つの中島がある造りになっていた。中島と陸には中国風の橋も架かっていた。池の周辺には石灯篭や建物が在ったが去る第二次世界大戦の沖縄戦で灰燼に帰した。現今の「識名園」は教育委員界や関係者の渾身の努力で復元され当時の面影を今に伝えている。此処にある“育徳泉”は天然記念物のシマチスジノリの発生地でもあり碑も建立されている。・・・昭和51年1月30日に国の名勝に指定されている。・・・

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「琉球王国のグスク及び関連遺産群」パート5

2005年02月01日 | Weblog
四、「座喜味城跡」・・・読谷村座喜味城原の遠望のよい高台にある。県都那覇から約30km北上し国道58号線に沿って残波岬を目指して左折する途中に在る。西暦1,420年代読谷山按司、護佐丸が築いた城で約6,800㎡もある。城壁は中城城壁と同じ造りで石と石の間を隙間なく埋める<亀甲乱れ積み>、一名“あいかた積み”と<布積み>、一名“とうふ積み”から成っている。城門はアーチ型をした<アーチ門>である。30人~50人位が住んでいたと推察されている。良港の長浜港を有し中国はじめ東南アジアとの貿易を盛んにし一大富を築いたと言われている。尚巴志が北山を討伐した後に護佐丸は山田城から、この座喜味城へ移って来たと言われている。戦前は旧日本軍が高射砲陣地として戦後はアメリカ軍がレーダー基地として使用していた。現在は城跡広場でオペラやコンサートが開かれ“子ども芸術劇場”等が上演されている。平和の砦としての機能を今後も継続していきたいものである。昭和47年5月15日に国の史跡に指定されている。・・・
五、「今帰仁城跡」・・・北部の今帰仁村字今泊のハンタ原に在る。築城年代は不明だが西暦1,200年代末頃から1,300年代~1,400年代に完成したと推察されている。城壁は八つの城郭から成る多郭式の平山城である。城壁は全部、自然・天然のままの古生期石灰岩を積み上げて造られている。高さは5m~10mもあり城郭はほぼ完全に残っている。一部破損したところも修復され古い城の面影を今に伝えている。他府県の城郭・城壁の角は角ばっているが沖縄・琉球の城壁は丸みを帯び恰も平和の象徴でもあるかの様に屹立している。台風銀座、沖縄・琉球ならではの先人の知恵の結晶、象徴の具現であろう。昭和47年5月15日に国の史跡に指定されている。

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