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存在否定の恐怖にあらがう ぬぐい去った負の烙印 「共生の実相」「旧優生保護法」

2018年06月04日 14時39分55秒 | 
存在否定の恐怖にあらがう ぬぐい去った負の烙印 「共生の実相」「旧優生保護法」
2018年6月1日 (金)配信共同通信社

 相模原の障害者施設殺傷事件は、差別的な理念を掲げた旧優生保護法の問題を改めて浮き彫りにした。子を授かる権利を強制的に奪われた障害者たち。「共生社会の実現」をうたう一方で、なお謝罪や補償に応じない政府。旧法を問い直す大きなうねりが今、起こっている。優生思想と対峙(たいじ)する運動の源流をたどり、現代の問題と捉えて危機感を抱く人々を追った。
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 体からすーっと血の気が引くのを感じた。2016年7月26日。骨や歯がもろく折れやすい「骨形成不全症」の安積遊歩(あさか・ゆうほ)さん(62)=札幌市=は、相模原市の障害者施設殺傷事件を知った時の感覚を振り返る。「恐怖の集合体のようなものが、ドボッと障害のある一人一人の上に落とされた」
 事件の被告は「障害者は不幸。抹殺することが救う方法」と供述していた。安積さんは「現代は『できる、できない』で選別する能力主義が強まっている。基準や役割からはみ出す人を追い落とす分断線が内面化し、優生思想が隅々にはびこっている」と語る。「せっかく旧優生保護法をなくしたのにね...」
 安積さんは、1994年、エジプト・カイロで開かれた国際人口開発会議で、障害がある女性の立場から、障害がある人への不妊手術を認めた旧法の撤廃を訴えた。国際世論の批判を喚起し、96年の法改正につなげたと評価されている。
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 福島県出身。生後40日で診断を受け幼い頃から骨折を繰り返した。1日に何本も注射を打たれ、浴び続けたエックス線検査時の光が脳裏にこびりついている。怒りと無力感、骨折の痛み、相次ぐ手術。いつも泣き叫んでいた。
 小学5年で施設に入り、併設の養護学校(当時)へ。「社会に迷惑をかけないよう健常者に少しでも近づけ」と言われた。ある時「重度の障害がある人は医学研究のモルモットになれば役に立つ」との文章を書き、慌てた教師に「そう思っているでしょ」と言い放った。追い詰められていた。
 施設を飛び出し、中学卒業後は自宅に引きこもるように。だが19歳の春、友達に誘われた花見で人生が変わった。障害がある男性と、障害がない男性が取っ組み合いのけんかを始めた。「おれたちを差別するな」「だったら街に出ろよ」。泣きながら殴り合っていた。脳性まひ当事者「青い芝の会」の集まりだった。
 障害者は親元か施設でひっそり暮らす他に選択肢がなかった70年代。ぶつかり合いながら、ありのままに生きようとする姿を見て「革命だ」と思った。
 幼少時からの病院通いで気になっていた看板がある。「優生保護法指定医」。中学時代に本で調べ「不良な子孫の出生防止」を掲げた旧法を知り衝撃を受けた。「子を産み育てる存在ではない」という烙印(らくいん)を押された気がした。
 「障害者をあってはならない存在として否定している」。花見で出会った青い芝の会の主張に共感し、旧法の撤廃が目標となった。
 安積さんの友人にも不妊手術を強いられた女性障害者が何人もいる。ある先輩は、施設入所時、生理の介助で迷惑をかけないよう手術を受けさせられた、と打ち明けてくれた。「赤ちゃん産みたいよ。産めないのかなぁ」。うろたえていた表情が目に焼き付いている。
 94年のカイロでの会議では、仲間の思いを背負って旧法の差別性を訴えた。96年5月、遺伝的に同じ障害がある長女宇宙(うみ)さんを出産。「19歳の花見の日のような衝撃、喜びとわくわくがあった」。旧法は翌月、改正によって姿を消した。(共同通信記者 宮城良平)
 ※旧優生保護法
 ナチス・ドイツの「断種法」の考えを取り入れた国民優生法が前身で、1948年に施行された。知的障害や精神疾患、遺伝性疾患などを理由に、本人同意がない場合でも都道府県の優生保護審査会が「適」と判断すれば不妊手術を容認。厚生労働省によると、不妊手術を施された障害者らは約2万5千人で、うち強制は約1万6500人。本人および配偶者に精神疾患などがある場合、人工妊娠中絶も認めていた。96年に障害者差別や強制不妊手術に関する条文を削除し「母体保護法」に改定。同様の法律により不妊手術が行われたスウェーデンやドイツは国が被害者に正式に謝罪し、補償している。
 ※相模原障害者施設殺傷事件
 2016年7月26日未明、相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が刃物で刺されて死亡、職員2人を含む26人が負傷した。元施設職員植松聖(うえまつ・さとし)被告(28)が17年2月、殺人や殺人未遂などの罪で起訴された。横浜地検は5カ月間の鑑定留置を行い、完全責任能力が問えると判断した。被告は事件前の16年2月、障害者殺害を示唆する言動を繰り返して措置入院となり、翌3月に退院したが、相模原市などが退院後の住所を把握しておらず対応が不十分との指摘も出た。逮捕後も「障害者なんていなくなればいい」などと供述したとされる。

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