フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2005年2月(前半)

2005-02-15 13:59:59 | Weblog

2.1(火)

 晴天だがこの冬一番の寒い朝。午前10時から、昨日と同じ長徳寺で、義父の葬儀。告別式、火葬、初七日法要と一通り終わって自宅に戻ってきたのが午後5時。それから深夜まで、明日の卒論口述試験の準備(全部の卒論の読み直し)と、実習の学生からメールで送られてくる原稿のチェック。肩が凝る。

 

2.2(水)

 今朝も寒かった。雨戸を開けると、飼い猫のはるがベランダに飛び出すのだが、今日のように寒い日はすぐに室内に戻ってくる。午前10時から一文の卒業論文口述試験。論文で使われているキーワードの意味や、読んでいて疑問を感じた箇所などについて質問してから評価を述べる。1人15分ペースで午後1時ごろ終了。暖房の効きの悪い教室で、体が冷え切ってしまった。「たかはし」に昼飯を食べに行く。肉豆腐定食。昔は卒論口述試験のときは大学から食券が出たものだが、経費削減で数年前からそれはなくなった。どんなにささやかなものであれ、それまであったものがなくなるというのは、侘びしいものである。悲哀を感じてしまう。午後、会議が2つ。夕方から二文の卒論口述試験。今回は担当学生が一人だけだったので、30分ほどで終了。「天や」で夕食(冬天丼)を食べてから帰宅。実習の学生の原稿の添削と明後日の読書会の下調べ。

 

2.3(木)

 義父の葬儀等があってしばらく脇に措かれていた諸々の雑用を片付けにかかる(雑用といえども締切というものが存在するのだ)。しかし簡単には片付かない。週末までかかりそうである。夜、実習の学生から次々にメールで原稿が送られてくる。今夜の12時が締切なのである。数日前の時点では、大半の学生はとても間に合いそうにない感じで、私としては期限の延長も考えていたのだが、みんななんとか辻褄を合わせてくるから大したものである。しかし、そう感心する一方で、だったらみんなもっと早く動けよとも思う。原稿に目を通すこっちの身にもなってくれと言いたい。どんなに守備に自信のある外野手だって、同時にたくさんの打球が飛んできたらお手上げである。もっともそういう私自身も締切間際にならないと(いや、締切を過ぎないとというべきか)、力が出ないタイプの人間なので、学生のことをとやかく言えた義理ではないのであるが。とにかく、世の中を動かしているものは締切(納期)なのだと実感した。

 

2.4(金)

 午前、今日の調査実習の集まりで配布する資料(対象者50人のインタビュー記録やライフストーリーを収録したCD-R、レポートの執筆要領など)の作成。

午後1時から、研究室でギデンズ『社会学』(第4版)をテキストにした読書会。メンバーは二文の3年生2人で、2人とも1年生のときに私の基礎演習のメンバーだった。毎回一章(30頁ほど)を読んできて、面白かったところ、難しかったところ、疑問に思ったところなどについておしゃべりをする。授業ではないので、学生が質問をして私がそれに答えるというスタイルに終始しないように気をつけている。学生に言っているのは、「おしゃべりのネタをもってきなさい」ということ。「おしゃべり」とはある程度まとまった話ということである。それができるためには、考えたり、調べたりしなくてはならない。ただ本の字面をサラッと読んできただけではおしゃべりはできない。読みながら、ときどき立ち止まっては、考えたことをメモしたり、気になることをインターネットなどで調べたりしなくてはならない。そのためには読書会の前日にテキストを読んでいるようでは駄目なのである。次の読書会の一週間前(つまり前回の読書会の終わった翌日)に指定された章に目を通し、読み込んだ内容が頭の中で発酵するのを待たなくてはならない。その上で、読書会の一日二日前にもう一度テキストを読むのである。同じ文章も一度目と二度目では理解の度合いが格段に違う。読んで「わかる」ことと、読んだ内容について人に「話せる」こととは理解の水準が違う。或る漢字が読めることと、その漢字が書けることは漢字の習得の水準が違うのと同じことだ。読書会で「おしゃべり」をすることの効用はそうした能動的な水準で本が読めるようになることにある。

 午後3時から、調査実習の集まり。実習の報告書に各自が書くレポートのテーマと使用するケースについて申告してもらった。レポートの締切は2月末日。報告書の完成は3月22日(社会学の科目履修ガイダンスで全員が大学に来る日)の予定である。

 夜、高田馬場の居酒屋「だるま」で、二文の基礎演習の打ち上げコンパ。

 

2.5(土)

 ときどき賃貸マンションを購入しないかという電話がかかってくる。こちらに引っ越して来た当初は、自宅の電話番号が彼らに知られていなかったから(大学の教職員名簿には電話番号を載せていない)、そうした電話がかかってくることはなかったのだが、4年目ともなると、そうもいなかくなる。今日もそうした電話があって、一体なぜ私の自宅の電話番号を知っているのかと問い質したところ、日本社会学会の名簿が手元にあるとのことだった。では、その名簿はどうやって入手したのかと重ねて問い質すと、自分は営業担当なのでわからないが名簿図書館のようなところから入手したのでしょうと言う。じゃあ、そのデータの担当の人に詳しい入手経路を聞きたいので代わってくれないかといったら、開き直って、もしかしたらあなたの友人が名簿を売ったのかもしれませんねなどというので、会社名とあなたの名前をもう一度名乗りなさいとこちらも語気を強めて迫ったら、最初に言いましたからと、名乗ろうとしない。客が怒ったら会社名や氏名をくり返し言ってはいけないとマニュアルに書いてあるのかと皮肉を言ったら、いや自分で考えたシステムで、そうしないと会社に苦情の電話を掛けてくる人がいるからとのことだった。どこの誰とも分からない人間とこれ以上電話で話をするのはごめんだからと言って電話を切ったら、すぐにまたかかってきて、話の途中で電話を切らないでほしいと言う。どうも向こうも意地になっているようだ。詳しい説明を書いたパンフレットがあるのでそれをお渡ししたいというから、大学の方へ郵送するように言うと、どうしても直接会って渡したいと言う。会っても時間の無駄だから郵送してくれ、送られてきた資料を見て、話を聞く気になったらこちらから連絡するからと言っても、引き下がらない。きっとあなたは資料を郵送しても見てくれないでしょうと言う。図星なのだが、どこの誰とも分からない人間とは会うつもりはないと言って、再び電話を切り、電話線を引き抜いた。しばらくそのままにしておいて、再び電話線を繋いだところ、もうかかってこなかった。しかし、もしまたかかってきたら、今度は相手の声を録音しておこうと、ICレコーダーを手元に置いていつでも対応できるようにしておいたのだが、結局、かかってこなかった。彼の話の内容(投資)にはまったく関心がないが、彼のようなやり口には社会学者として関心がある。彼とのやりとりを録音しておけば、彼らに対する牽制材料となるばかりでなく、授業の教材としても使えるかも知れないと考えたのである。どういう不快な出来事も社会学のネタできるのが社会学者というものである。それから、教育者としては、ぜひ彼に一言、「自分の名前や会社名を堂々と名乗れないような仕事からは足を洗って、もっとまっとうな仕事に就きなさい」と言ってやりたかった。

 

2.6(日)

 午後、試験の採点を終わらせて、散歩に出る。このところ読書の時間を思うようにとれずにいた。卒論12本、修論3本、実習の学生の原稿(インタビュー対象者のライフストーリー)50本、そして答案180枚を読んでいたからである。もちろん面白いものもあるのだが、それらは基本的には「読まなくてはならないもの」である。しかし、読書の楽しみは「読みたいもの」を読むところにある。それに関しては禁欲をしてきたのである。「読まなくてはならないもの」から取り敢えず解放されたので、散歩の足は自然と書店に向かう。栄松堂、有隣堂、熊沢書店を回って以下の本を購入。

(1)       谷川俊太郎・吉村和敏『あさ/朝』、『ゆう/夕』(アリス館)

 詩人と写真家の共著。まず詩があってそれに写真が添えられた場合と、まず写真があってそれに文章が添えられた場合がある。ところで『あさ/朝』の方には朝焼けの写真が、『ゆう/夕』の方には夕焼けの写真が、それぞれ数点載っている。朝焼けと夕焼けは写真で見る限り区別がつかない。もちろん実際の朝焼けと夕焼けは簡単に区別がつく。なにしろ朝焼けを見ているときは刻々と空が明るくなってゆき、夕焼けを見ているときは刻々と空が暗くなっていくからである。しかし、一連の過程の切断面である写真からはそれはわからない。結局のところ、その写真が朝焼けを撮ったものなのか夕焼けを撮ったものなのかは、その写真に添えられた言葉(「夜明け」とか「夕暮れ」とか)によって知るしかない。われわれは言葉というフィルターを通して世界を見ているのである。はじめに言葉ありき。

(2)       佐藤正午『豚を盗む』(岩波書店)

 小説『ジャンプ』の作家が書いた『象を洗う』に続くエッセイ集。

(3)       鮎川信夫『近代詩から現代詩へ』(思想社)

(4)       辻征夫『私の現代詩入門』(思想社)

(5)       野村喜和夫『現代詩作マニュアル』(思想社)

(6)       天沢退二郎他『名詩渉猟』(思想社)

 1月に創刊された「詩の森文庫」10冊の中から4冊を買い求めた。本の形状は新書だが、書き下ろしではなく、評判の高い本の復刊ということで「文庫」としたのだろう。たまに詩が読みたくなるときがある。ふだんは散文ばかり読んでいるので、知らず知らずのうちに濁った言葉や無神経な言葉が皮膚に付着して、気分が悪くなるのだ。そんなときに研ぎ澄まされた言葉で書かれた詩を読むと、生き返る。

(7)       上田紀行『生きる意味』(岩波新書)

 「私たちがいま直面しているのは『生きる意味の不況』である。」という冒頭の一節に惹かれて購入。

(8)       本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波新書)

 「もし植民地主義がもたらした人間と人間との出会いの失敗が、いまだに自己と他者とのあいだの壁となっているようなら、まずその歴史を知ることで、壁のありかを確かめよう。」という帯の一節に惹かれて購入。

(9)       赤川学『子どもが減って何が悪い!』(ちくま新書)

 「『男女共同参画社会』は、少子化対策にはならない!」という帯の一節に惹かれて購入。

(10)  鹿野政直『兵士であること 動員と従軍の精神史』(朝日選書)

 来年度の大学院の演習のテーマは今年度と同じ「近・現代日本における人生の物語」なのだが、「兵士」という生き方についてまだちゃんと考えたことがなかったので、ひとつ考えてみようと購入。

(11)  門脇厚司『親と子の社会力 非社会化の時代の子育てと教育』(朝日選書)

 「非社会化の時代」という言葉に惹かれて購入。言葉の力はやはり大きい。

 無印良品で付箋紙、ACTでクレーヌフォンテーヌのノートを2冊、佃煮屋で角煮と浅蜊の浅煮とあみを買って帰る。夜、読書会の下調べ。

 

2.7(月)

 午前、文学部事務所に行って社会学研究10の成績を提出。文学部前の穴八幡神社に去年の一陽来復のお札を納めてから、「たかはし」で昼食。兼築先生や高橋世織先生と一緒になり、文学学術院の行く末について雑談。研究室には戻らず、丸善丸の内本店に行く。阿部和重『グランド・フィナーレ』(講談社)と角田光代『対岸の彼女』(文藝春秋)ほか本を数冊と、羊革を使った小型のショルダーバッグを購入。蒲田に帰って、しかしすぐに自宅には戻らず、地元の「シャノアール」でギデンズ『暴走する社会』(ダイアモンド社、2001年)を読む。グローバリゼーションについて論じた本だが、元々は講義録なのだろうか、勢いのある一筆書きのような文章で、途中で本を閉じることが難しく、結局、2時間半かけて最後まで読む。途中で珈琲のお代わりをした。喫茶店にもいろいろあるが、「シャノアール」は読書に最適である。静かでもないし、椅子も硬いのだが、私は静かで洒落た喫茶店よりもここの方が読書に集中できるのである。きっと店員や他の客の視線が弱いからであろう。その意味では、「シャノアール」での読書は電車のシートでの読書と似ている。夜、草彅剛主演の映画『黄泉がえり』(2003年)をレンタルビデオで観る。

 

2.8(火)

 午前、病院に父の薬をもらいに行き、主治医と話をする。待ち時間に鹿野政直『兵士であること 動員と従軍の精神史』(朝日選書)を読む。午後、父のケアプランを立ててもらうため、いくつかの在宅介護支援センターに電話を入れ、結局、広域社会福祉会というところに依頼する。電話をしてから数時間後に担当者が家に来て、父母同席でケアプランを話し合う。とりあえず週2回のデイケアサービスを利用することにした。それにしても申込件数の多さにケアプランナーの人数が追いついていないようである。深夜、NHKスペシャル「巨大マネーが東京をねらう ~オフィスビル投資の舞台裏~」(再放送)を見た。外国の不動産ファンドが東京の不良債権ビルを買収し高利益を上げている現象を取材したもの。グローバリゼーションの一側面を理解するための生きた教材だ。

 

2.9(水)

 午前、来年度の大学院の演習で読もうかと考えている文献の一つ、Gary Kenyonたちが書いたNarrative Gerontology(2001)を読む。「物語論的老年学」・・・・。gerontologyは「老年学」とか「老人学」とか訳されることが多いが、老年期や老人のことだけを問題にしているわけではないから、「加齢研究」の方がいいんじゃなかろうか。家を出るとき、Amazonに注文しておいた野口裕二『ナラティヴの臨床社会学』(勁草書房、2005)が届いたので、電車の中で読む。「社会構成主義に基づくナラティヴ・アプローチを理論的基礎にして臨床社会学をする」というのが野口の目指すところだ。こちらは来年度の調査実習の授業で読むのにいいかもしれない。

 ナラティヴが噴出する現代には、三つの異なるナラティヴの形式があることがわかる。第一は、プラマーが論じた「モダニストの物語」で、「苦難を受け、切り抜け、克服した」というプロットによって特徴づけられるものである。第二は、フランクが論じナラティブ・セラピストが論じた「ポストモダニストの物語」で「克服」という結末を欠いた物語である。そして、第三に、島薗が論じた「スピリチュアリティの物語」で、「自己を越えた何か」との出会いによって困難を克服していく物語である。この第三の形式は、「克服」という結末だけを見ると第一の形式と同じだが、自分の意志や努力による克服ではないという点で「モダニストの物語」とは異なる特徴をもっている。見方を変えれば、それは、「モダニストの物語」が隆盛を誇るようになる以前、ひとびとのなかに埋め込まれて、スピリチュアリティを日々身近に感じながら暮らしていたと想像できる。その意味でこの形式は「プレモダニストの物語」と呼ぶことができる。それがいま形を変えて、同じ問題に苦しむひとびとの間で自発的に模索されるようなものになっている。・・・(中略)・・・いずれのナラティヴも社会全体を覆いうるような全体性や包括性をもっていない。あくまでも同じ問題を共有するひとびとにのみ妥当するものにすぎない。われわれはいまこのような物語的環境を生きている。(pp.230-231)

午後1時から、社会人間系専修の会議があって、2006年度に立ち上げる総合講座の内容について話し合う。ちょっと意見を述べたら、同意を得てしまい、提案書を書く役目を仰せつかる。とにかく会議で何か発言すると、新しい仕事が増える仕掛けになっている。だから要領のいい人は会議で新しい提案などしないのである。午後3時から、本日行われた文学研究科の博士課程の入試(一次)の採点作業。

帰宅の途中、本屋で『新潮』3月号を購入。巻頭に村上春樹の連作小説『東京奇譚集』の第一回「偶然の旅人」が載っていたからで、電車の中で読む。タイトルはウィリアム・ハート主演の映画『偶然の旅行者』(原題:アクシデンタル・ツーリスト)に似ているが、内容は実際にあったちょっと不思議な話で、ポール・オースターの『トゥルー・ストーリー』に似ている。

 「きっかけが何より大事だったんです。僕はそのときふとこう考えました。偶然の一致というのは、ひょっとして実はとてもありふれた現象なんじゃないだろうかって。つまりそういう類のものごとは僕らのまわりでしょっちゅう日常的に起こっているんです。でもその大半は僕らの目にとまることなく、そのまま見過ごされてしまいます。まるで真っ昼間に打ち上げられた花火のように、かすかに音はするんだけど、そらを見上げても何も見えません。しかしもし僕らの方に強く求める気持があれば、それはたぶん僕らの視界の中に、ひとつのメッセージとして浮かび上がってくるんです。その図形や意味合いが鮮やかに読み取れるようになる。そして僕らはそういうものを目にして、「ああ、こんなことも起こるんだ。不思議だなあ」と驚いたりします。本当はぜんぜん不思議なことでもないにもかかわらず。そういう気がしてらならないんです。どうでしょう。僕の考えは強引すぎるでしょうか?」

 これはあるゲイの男性が長らく仲違いの状態にあった姉と和解をしたときの話を村上にした、その後の語りだ。野口の分類を使うと、これは「プレモダニストの物語」のモダニスト的解釈だ。私が人生の転機という現象を分析した論文でも、これと同じよう論理を展開したことがある。これに対して村上はこう答えている。

 彼の行ったことについて考えてみた。そうだね、そうかもしれない、と返事をすることはできた。どもそんなに簡単に結論を出してしまえることなのことなのかどうか、もうひとつ自信がなかった。

 「僕としてはどちらかといえば、もう少しシンプルに、ジャズの神様説を信奉し続けたいけどね」と僕は行った。

 彼は笑った。「それもなかなか悪くはありませんね。ゲイの神様、なんてのもいるといいんだけど」

 村上の言う「ジャズの神様説」というのは、村上自身が経験したちょっと不思議な話に由来するもので、その話というのは、彼がある日の午後、バークレー音楽院の近くにある中古レコード屋でペパー・アダムスの『10 to 4 at 5 Spot』(ニューヨークのジャズクラブ「ファイブ・フポット」で明け方の4時10分前まで演奏したときのライブ版)というLPを見つけて購入し、店を出ようとしたとき、すれ違いに入ってきた若い男性から、「Hey, you have the time?(今何時?)」と聞かれて、腕時計に目をやり、「Yeah, it’s 10 to 4」と答えたというもの。

 そう答えた後で、そこにある偶然の一致に気づいて息を呑んだ。やれやれ、いったいこの世界で何が持ち上がっているのだろう? ジャズの神様―なんてものがボストンの上空にいればの話だがーが僕に向かって、片目をつぶって微笑みかけているのだろうか? よう、楽しんでいるかい(Yo, you dig it?)と。

 そういえば、村上春樹の小説というのは、全体として(あくまで「全体として」だが)、モダニスト的主人公が「プレモダニストの物語」の中に紛れ込んで悪戦苦闘するという話が多いのではなかろうか。

 『偶然の旅人』は巻頭小説で、その後には伊井直行の『青猫家族輾展録』という今号一番の長編(370枚!)が置かれているのだが、その冒頭の一節を見て、私は思わず笑ってしまった。

 初めに断っておいたほうがいいと思うのだけれど、僕は十七歳でも二十歳でも、また世の中ではまだ成人前だという説もある三十歳ですらなくて、だれも美しいとは言わないし、なりたくてなった人間は滅多にいないという五十歳の男なのである。

 五十歳の男が、自分のことを僕などと称し、一昔前の若者小説みたいな文体で小説を書くのは気持が悪いと苦言を呈する人がいるとしたら、そりゃもっともだと賛成する。賛成はするけれど、ここはどうしてもこのスタイルにしておきたい。

 この配列は偶然だろうか。それとも雑誌編集者のユーモア(少々棘のある)だろうか。私には、薄曇りの東京の上空で、小説の神様(志賀直哉のことじゃないからね)が片目をつぶっているような気がした。

 

2.10(木)

 午後、研究室でギデンズ『社会学』の読書会。1時から始めて終わったのが5時。本来は2時間の予定が4時間に及んだ。議論が白熱したというよりも、雑談が盛り上がったというべきだろう。読書会に雑談は必要なもので、決して夾雑物ではないが、今日はいささか雑談的部分が多過ぎたように思う。お隣の研究室で仕事をされていた先生にはご迷惑ではなかったか。迷惑といえば、研究室の天井に設置されているスピーカーから、「本日は晴天なり。ただいまマイクのテスト中」という声が頻繁に聞こえてきて、読書会には迷惑だった。もっとも、これ、入学試験用の事前点検で、それがうるさいならほかの場所で読書会をやれよって話なんですけどね。

ところで、この「本日は晴天なり」、無線の点検をやる場合には、それが点検放送であることを明らかにするために、「本日は晴天なり」という決まり文句を言うことが法令で定められている(無線局運用規則第十四条関連の別表4号、同規則第十八条および第三十九条)。なぜそれが「本日は晴天なり」なのかといえば、アメリカでそういう場合に使われていた決まり文句が「イツ・ファイン・トゥデイ」で、無線システムを輸入する際にそれが直訳されたからだ。では、なぜアメリカでは「イツ・ファイン・トゥデイ」なのか。これについては二説あって、第一は、そこには英語の発音のすべてが含まれているから(あるいは破裂音が多く含まれているから)無線の点検にもってこいだったとうい説、第二は、とくに意味なんかないという説(というほどのものじゃないけど)。第一の説は説明として出来すぎていて、いかにも後付の解釈という感じがしますね。かといって第二の説は「存在するものには何らかの意味がある」という社会学的(デュルケイム的)発想に慣れ親しんでいる人間には容認しがたいものがある。というか、それでは話として面白くない。で、ここでは第一の説に肩入れをする。すると、「本日は晴天なり」というのは誤訳ではないが誤用だということになる。「ホンジツワセイテンナリ」という発音はメリハリに欠けますから。しかも今日の点検は無線放送ではなくて、有線放送で行われていたわけだから、二重の誤用ということになる。結局、読書会の邪魔をされたことに文句を言っているわけです。やれやれ、学者ともなると文句一つ言うのも回りくどいよな。

 

2.11(金)

WOWWOWでやっていたのを録画しておいた廣木隆一監督作品『ヴァイブレータ』を観た。2003年度の数々の映画賞を受賞し、女優寺島しのぶがブレイクした映画だ。アルコール依存で頭の中の「声」に苦しむ31歳のフリーライター(寺島)が、雪の夜、コンビニで出会った長距離トラックの運転手(大森南朋)と行きずりの恋に落ちるロードサイド・ムービー。一般に、平穏な日常に綻びが生じたり、鬱屈した日常から脱出を図ったりするとき、そこにドラマが生まれる。われわれはそれを恐れ、同時に、それを欲している。その契機はさまざまであるが、代表的なものは病気と恋愛であろう(広い意味では恋愛を病気の一種の考えることもできる)。この映画では、恋愛に加えて旅が鬱屈した日常からの脱出を促している。男にとっては長距離トラックでの移動は仕事であって旅ではないが、助手席に女が乗っている状況は十分に非日常的である。鬱屈した日常からの脱出を図る女との道行きは男にとっても退屈な日常からの脱出なのである。旅の終わりは旅の始まりと同じコンビニであった。互いに相手への未練を残しながらも、男と女はそれぞれの日常に戻って行く。しかしそれは脱出を図る前の日常よりはいくらかましな日常である。A→B→Aではなく、A→B→A´である。A≠A´であるところに観客は「回復の物語」を見る。もちろんしばらくすればA´→Aになってしまう可能性はあるわけだが、そうなったらそうなったでまた新たな脱出を図ればいいだろう。人生は長いのだ、と観客は思う。夜、次回の読書会の下調べ。

 

2.12(土)

 大学に出る途中、大手町から東西線に乗ったら、座席に座って、前屈みになって、熱心に本を読んでいる男性がいた。どこかで見たことがあるなと思ったら、同僚の長谷先生だった。隣が空いていたので、黙って腰掛ける。彼、私に気づかずに本を読み耽っている。チラリとのぞくと社会学の本のようである。で、私、彼の耳元で、こうささやきました。「社会学者みたいですね」。いや~、そのときの彼の狼狽ぶりはすごかった。座席から30センチくらい飛びあがったんじゃないかな。ギョッとした表情で私の方に顔を向け、私が誰であるかがわかるまで0.1秒ほどを要し、わかった途端に、「あ~、びっくりした~」と言った。その声はかなり大きく、周りの乗客たちは一体何事かとわれわれに視線を向けてきた。地下鉄で隣の席の他人(と思っていた人)から突然話しかけられるというのは、練達の社会学者をもってしても、予想だにしなかった事態なのであろう。「地下鉄の車内で他人に話しかけない」というのは、われわれの社会における暗黙の規範であり、私のしたことはエスノメソドロジーにおける違背実験(暗黙の規範を意図的に破ってみせる)のようなものだった。下手をすると洒落にならない。テレビならば、画面の下に、「よい子はマネしないでください」というテロップが出るところだ。

 

2.13(日)

 ここしばらくの疲れが溜まっていたのだろう、昼食の後、ひどく眠くなり、そのまま夕方まで眠ってしまった。おかげで頭はすっきりし、夕食後は集中して本も読めたし原稿も書けた。ただし、こういう場合の問題は、就寝時刻が遅くなることだ。いま、午前3時。明日、いつもの時間(午前8時前後)に起きるとすると、寝不足気味で一日を送ることになるだろう。いや、今日と同じように再び長い昼寝をすることになるかもしれない。生活のリズムは一旦乱れると回復するのが一苦労なのだ。

 

2.14(月)

 終日、原稿書き。夕方、定期券を買いにちょっとだけ外出。ここ1ヵ月は、入試関連の業務や会議、学部再編関連の会議、読書会、調査実習の報告書の編集作業などで週に4日ペースで大学に出ることになりそうなので、定期券を継続購入することにしたのである。授業が終わっても大学に出る日数は変わらない。おかしいな・・・。本屋に立ち寄って、加藤周一『テロリズムと日常性』(青木書店)、ブルーノ・S・フライ、アイロス・スタッツァー『幸福の政治経済学』(ダイヤモンド社)、北山修・黒木秀俊編『語り・物語・精神療法』(日本評論社)、森岡正博『感じない男』(ちくま新書)、斎藤孝『コミュニケーション力』(岩波新書)を購入。街はバレンタインデー一色である。ちなみにバレンタインデーの日に女性が男性にチョコレートを贈る習慣は、私の家の近所に本社があるメリーチョコレート・カンパニーが1958年に新宿伊勢丹の売り場で呼びかけたのが始まりであるとされているが、そのときは板チョコ5枚しか売れなかったらしい。いまでは年間のチョコレート消費量の25%がこの日に消費されるまでになった。娘は昨日手作りチョコの製作に励んでいた。息子は今日同級生の女の子からチョコをもらったらしい(義理チョコのようだが)。私は妻から頂戴した。平和な情景というべきだろう。

 

2.15(火)

 午前、大学院博士課程入試の二次試験(面接)と、お弁当(「たかはし」の二重弁当)を食べながらの社会学専修の会議。午後、シャノアールで読書。注文を取りに来たウェイトレスさんが私と同じ苗字だった(名札を付けている)。「同じ苗字ですね」と言おうかどうしようか迷ったが言わずにおいた。社交的会話というのはそれに乗ってくれる人とそうでない人がいて、初対面の人の場合、その見定めはなかなか難しいのだ。

夕方から大学院の会議。1時間ほどで終わり、さて帰るとしようと、研究室から自宅に「いまから帰ります」コールをかけようとして思いとどまった。研究室から自宅の玄関まではほぼ1時間なのだが、妻はそれを見越して夕食を作る。ステーキとかでも、私が玄関のチャイムを鳴らす前に焼き始めたりしますからね。ちょっと寄り道などしようものなら、帰宅したらステーキが冷めていたなんてことになる。文句を言うと、寄り道したのが悪いと反論される。小学生じゃないんだから、学校の帰りに寄り道くらいしますよね。何も愛人宅に立ち寄るとかじゃあないんです。本屋とかレンタルビデオ屋とか、健全かつかわいいもんです。それなのに叱られる。それでもみんなが食事を始めずに私の帰宅を待っているなら悪かったかなと思うが、そうじゃない。さっさと先に食べ始めてる。それでこっちも考えた。研究室を出るときに「いまから帰ります」コールをしないようにしよう。地下鉄の駅からしよう。そうすれば地下鉄の駅までの間の本屋でゆっくり立ち読みができる。あるいは途中の東京駅からしよう(「いま東京駅」ではなく、「いまから大学を出ます」と)。そうすれば蒲田に着いてからの寄り道の時間を確保することができる。今日は東京駅からかけた。そして蒲田に着いてから、有隣堂で20分ほど立ち読みをしてから帰宅。作戦成功である。「ただいま」と玄関を入って、しかし、すぐには二階には上がらず、一階の両親と話をしていたら、息子が下りてきて、「いつまでたっても上がってこないからお母さんが見て来なさいって」と言った。う~ん、家の中での寄り道も許されないのか。次は玄関を入るとき、「ただいま」と言わないようにしなければなるまい。