動けなくとも動かせばいいのである。物語を作ってそこで影武者を動かせばいいのである。ほんものは動かなくたっていい。アンドロイドでいいのである。ほんものは醜男でもアンドロイドはイケメン色男にすることもできる。そうすればあまたの美女に引っ張りだことなる。めでたしめでたしではないか。醜男のさぶろうにはうってつけだ。ほんものは極貧に甘んじていても影男を富豪にしてラスベガスで豪遊ということも可能だ。隠居老人がいきなり国会議事堂で世界平和の大演説をぶつなんてのもかっこよさそう。ほんものと自称していてもどこまでほんものなのかは分からない。偽物とかわるところがない。いっそ仮面舞踏会のおもしろさを満喫するか。小説家、脚本家、詩人、歌人、いずれもこの芸の芸達者である。空想と現実に境目なんてない。行き来は自由だ。だったら往来しないという手はない。昼間のA氏は夜のB氏。漲る若さの二十歳の次は、威風堂々まみどり色の正装をした五十歳。今日のジャガーのX夫人は明日の雌鹿Y淑女。性別も役どころも問われない。そうなれば鬱をかこって顰めっ面なんかしてなくてすむ。こうもなれるああもなれる。おお、この世は常時かがやいて夢の殿堂だ。ジキルとハイドだけを楽しませて、こっちは指をくわえているなんて慎ましさは遠くへ放り投げたらいいのである。
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