今年も「八月十五日」が近づいて来た。日本が戦争に負けた六十七年前のあの日は夏の太陽が照りつける暑い日だった。当時中学生で勤労奉仕に駆り出されていたが、あの日は水曜日であるにも係わらず何故か家にいた。父は勤めで家におらず二歳年上の兄は勤労奉仕で出かけており、母と二人きりであった。あの日の記憶の情景の中に二人の妹の姿は当時の記憶の中には出てこない。
何時も食事をする玄関の奥の隣あわせの部屋の棚に置かれていたラジオからその声が聞こえて来た。天皇陛下が直々に日本が太平洋戦争に負けた事を知らせる放送を母と共に聞いた。ピーピーガアガアーと雑音がある放送であり、それが戦争に負けた事を知らせる放送とははっきり分からなかったが一諸に聞いた母が戦争に負けたんや!とぽつんと呟いた。戦争に負けた!と言う事はどんな事か。その時母が呟いた事が妙に耳に残っている。「これで弾丸証券も紙くずになってしもたな!」と。弾丸証券とは政府が戦争を遂行する資金を調達する為に発行した国債で父と母は相当持っていたらしい。戦争に負けて日本はこれから先どうなるのか。どんな暮らしになるか、全く分からない不安な状況の中で父や母はそんな状況をどの様に受け止めたのか。その時の父や母の気持ちを聞く事は無かったが、一度は聞いておきたかった事の一つである。私はと言うとこれまでお互いに殺しあったアメリカ兵が上陸して来る。どんな酷い残虐な事をされるか分からない。婦女子は軒並みに暴行されるし男はどんな暴行を受けるか不安一杯だった。様々な憶測が飛び交ったが、夜毎一トン爆弾や焼夷弾をあたり構わず落として行くB-二十九や、搭乗しているアメリカ兵の顔まで見える位低空で襲って来るカーチス戦闘機がもう来なくなるのかと思うとやれやれと思った微かな記憶がある。
戦争に負けた日にはこんな事があった。裏の庭に空襲に備えて畳半畳位の広さの防空壕が掘ってあった。八月十五日の朝起きて庭に出ると一人の日本兵が立っていた。防空壕で寝ていたらしく、声を掛けると返事もせず立ち去った。八尾には南の方にかなり離れていたが飛行場があり多分そこの兵隊が脱走して来たらしい。軍隊も戦争に負けるとなると規律も大分緩んでいたもの思われる。六十七年前のあの日の記憶も大分薄らいできたが、我が生涯で忘れられない大変な一日だった。
何時も食事をする玄関の奥の隣あわせの部屋の棚に置かれていたラジオからその声が聞こえて来た。天皇陛下が直々に日本が太平洋戦争に負けた事を知らせる放送を母と共に聞いた。ピーピーガアガアーと雑音がある放送であり、それが戦争に負けた事を知らせる放送とははっきり分からなかったが一諸に聞いた母が戦争に負けたんや!とぽつんと呟いた。戦争に負けた!と言う事はどんな事か。その時母が呟いた事が妙に耳に残っている。「これで弾丸証券も紙くずになってしもたな!」と。弾丸証券とは政府が戦争を遂行する資金を調達する為に発行した国債で父と母は相当持っていたらしい。戦争に負けて日本はこれから先どうなるのか。どんな暮らしになるか、全く分からない不安な状況の中で父や母はそんな状況をどの様に受け止めたのか。その時の父や母の気持ちを聞く事は無かったが、一度は聞いておきたかった事の一つである。私はと言うとこれまでお互いに殺しあったアメリカ兵が上陸して来る。どんな酷い残虐な事をされるか分からない。婦女子は軒並みに暴行されるし男はどんな暴行を受けるか不安一杯だった。様々な憶測が飛び交ったが、夜毎一トン爆弾や焼夷弾をあたり構わず落として行くB-二十九や、搭乗しているアメリカ兵の顔まで見える位低空で襲って来るカーチス戦闘機がもう来なくなるのかと思うとやれやれと思った微かな記憶がある。
戦争に負けた日にはこんな事があった。裏の庭に空襲に備えて畳半畳位の広さの防空壕が掘ってあった。八月十五日の朝起きて庭に出ると一人の日本兵が立っていた。防空壕で寝ていたらしく、声を掛けると返事もせず立ち去った。八尾には南の方にかなり離れていたが飛行場があり多分そこの兵隊が脱走して来たらしい。軍隊も戦争に負けるとなると規律も大分緩んでいたもの思われる。六十七年前のあの日の記憶も大分薄らいできたが、我が生涯で忘れられない大変な一日だった。