気ままに日記

大好きな写真と思いつくままに綴る日記です

私の3丁目の夕日

2009-03-27 15:32:18 | Weblog
元号が平成になって、二〇年あまり経ち、昭和が遠くになりました。
昭和一桁生まれの我々が子供だった頃、生活の中に必ず出てくるもので今の子供達には全く知らないものが色々あります。子供の頃を振り返ってみました。
1.みかん箱
厚さ1センチたらずの杉板で作った縦50センチ位、横60センチ位、幅30センチ位の箱で、そんなにみかんを食べた記憶はないが、みかん箱と言う位だから、多分みかんが入っていたのだろ。何処の家にもみかん箱はあった。空き箱になった「みかん箱」は踏み台やおもちゃなどの物入れに重宝されていた。現代は勉強机で勉強するのが当たり前であるが、我々の子供の頃は勉強机を持っているのは、一部の裕福な家庭の子供に限られていた。勉強は食事の時使う「ちゃぶ台」と言う円いテーブルか、みかん箱を机に勉強したものだ。
家が貧しく苦学する様を「みかん箱を机に勉強した」と言われた位だ。
今ではみかんはダンボール箱に詰められ、かっての木製の「みかん箱」は見られなくなったが、子供の頃の情景にみかん箱はなくてはならないものであった。
2.かんてき
我々子供の頃は、かんてきで炊事、煮炊きしたものである。「かんてき」とは七輪の事で、現代ではご飯は電気炊飯器、煮炊きものはガスと我々子供時代の生活とは大きく変わった。
「かんてき」で煮炊きするには、まず新聞紙をまるめて、その上に細かく割った木材を乗せ新聞紙にマッチで火を付け、木材に火が燃え移れば木炭をその上に乗せ、下から団扇で扇ぎ、空気を送って火力を増すのである。この火起こし作業は概ね子供の仕事であった。
炭に火力がつくまでは、煙がでるので冬の寒い日でも外に出て火をおこしたものである。
いくら急いでいても炭に火が付くまで時間がかかり、電子レンジでチンーと瞬時で温めることが出来る現代とは隔世の感がある。
鰯や秋刀魚を焼くと煙が出るので、その様な場合は屋外で焼いたものだが、炭火で焼いた鰯は美味しかった。
「かんてき」には家族の暖かさ、ぬくもり、絆があつた。
3.練炭火鉢
  子供の頃の暖房は部屋の中に置かれた直径七〇センチ位の陶器製の火鉢一つだった。
  火鉢には石炭の粉を円筒形に固めた直径15センチ位の練炭と言う燃料を燃やし、暖房と煮炊きものもすべて練炭火鉢でやったものでした。
  練炭火鉢を囲んで餅を焼いたり、餅を薄く切ったおかきを焼いたり冬の季節には家族団らんの中心にいつも練炭火鉢があった。
  しかし現代の様に部屋全体を暖房するのでは無く、部分的な暖房の為、子供の頃は手の指や足の指などいつも霜焼けで赤く膨れてかゆかった。   

4.ちゃぶ台
  ちゃぶ台とは直径1メートル位の丸いテーブルで家族揃って円いちゃぶ台を囲んで食事をしたものです。ちゃぶ台の足は折り畳み式でいつもは足を折りたたんで壁際に置いてあるが、食事の時は畳んである足を拡げて部屋の真ん中に置きちゃぶ台を囲んで食事をした。ご飯は木製のおひつと言う入れ物からお母さんがお茶碗にご飯を盛りつけ、おかずはちゃぶ台の中心に置かれたお皿から各自とって食べた。現代では通常おかずは各自の皿に盛られているが、昔は一皿に盛られたものを自分の皿に取って食べたものである。食事の後ちゃぶ台は子供たちの勉強机に使用された。
5.リヤカー
  今日の様に車が無かった昔、ものを運ぶには、リアカーと言う手押し車が使われた。リアカーは自転車の車輪の様な車輪が付いた2輪の荷車だ。おおよそどんな家庭にもあった生活の必需品だったが、農作業には無くてはならない道具だった。
  米を始め農作物の運搬に重宝された。
  また急病人が出た時には患者をお医者さんへ運ぶ時も、リヤカーにふとんを敷いて病人を運んだ。
  自動車が普及し、リヤカーは姿を消したが子供の頃の情景にリアカーは欠かせないものの一つである。
6.大八車
  大八車もリアカーと同じくものを運搬する為の道具であるが、リアカーより一回り大きく、各家庭にあると言うものでは無かった。引っ越しなど大きな荷物を運ぶ時に使われていた。懐かしい道具である。