私は今年の誕生日で満九二歳になる超高齢者です。身体が弱り歩くのに身体に負担を感じる様になり、少ししか歩けなくなりました。自然とダイニングの椅子に一日中座り勝ちのの生活をしています。しかし最近デジタル機器の発達により特にスマホが手元にあるとこの狭い空間で、ロシアとウクライナの戦争を初め、世界のニュースや経済の動向、スポーツの情報、更に身近なニュースまで動画付でライブで見られる時代となりました。子供は二人いるが遠く離れているので、毎日スタンプの遣り取りして高齢の両親の健康の確認をしている
ダイニングに閉じこもりかちでも世界に目が開いている訳だ。テレビとスマホがあれば新聞が無くとも最低限必要な情報取得に困ることは無いが、書き物の新聞は貴重な情報源だ。物事に対する見方や論評はテレビやインターネットでも見られるが活字の新聞は読者にとって大いに参考になり、格別の価値がある。従って新聞はほぼ一字一句残さず隅から隅まで目を通す。新聞の論調が自分に合っていれば合ってるで、違えば違うで短いレポートに纏めてブログに投稿する。極一部の友人から時々論評を貰うが、その外反応は殆ど無い。しかし発言する事に意義を感じてブログを書いている。
高齢で体力が弱り毎日座り放しの生活ではあるが、失ったものを追いかけても仕方が無い。親から授かった大切なものを労りながら静かに老いて行く日々である。
ダイニングに閉じこもりかちでも世界に目が開いている訳だ。テレビとスマホがあれば新聞が無くとも最低限必要な情報取得に困ることは無いが、書き物の新聞は貴重な情報源だ。物事に対する見方や論評はテレビやインターネットでも見られるが活字の新聞は読者にとって大いに参考になり、格別の価値がある。従って新聞はほぼ一字一句残さず隅から隅まで目を通す。新聞の論調が自分に合っていれば合ってるで、違えば違うで短いレポートに纏めてブログに投稿する。極一部の友人から時々論評を貰うが、その外反応は殆ど無い。しかし発言する事に意義を感じてブログを書いている。
高齢で体力が弱り毎日座り放しの生活ではあるが、失ったものを追いかけても仕方が無い。親から授かった大切なものを労りながら静かに老いて行く日々である。