徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

漱石と能

2013-10-16 19:49:41 | 文芸
 津々堂さんのブログ「津々堂のたわごと日録」に、金春流肥後中村家の当主・中村勝氏が構成された「群読能劇--草枕賛歌」が、夏目漱石生誕150年を記念してのプレイベントとして公演されることが紹介されていた。漱石の俳句や小説などの創作の趣向には謡(能)が影響しているといわれる。そしてそれは熊本時代の4年間が原点となっているようだ。それについては金春流肥後中村家のサイトに詳しく書かれている。
 「草枕」については、東京帝大時代に漱石に師事した野上豊一郎が、法政大学総長を務めていた頃に創設した法政大学能楽研究所が新作能「草枕」として2002年に能劇化している。今回の肥後金春流の「群読能劇」というのはどういうものなのか興味深い。
 ところで、「草枕」の冒頭、「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」という有名な一節は、岳林寺から「鎌研坂(かまとぎざか)」を登る辺りで思いついたのではないかと、僕は勝手に思い込んでいる。先般、「舞踊団 花童」の「檜垣水汲みをどり」の映像に付ける導入部の映像として「鎌研坂」の映像を撮った。撮影しながら、116年前にこの山道を登った漱石の心情に想いを馳せた。


「金沢おどり」が羨ましい・・・

2013-10-15 17:46:47 | 音楽芸能
 先週金曜日のNHK・Eテレ「にっぽんの芸能」は、昨年に続き、今年度の「金沢おどり」が紹介された。金沢には江戸時代後期から明治にかけて出来た「ひがし」、「にし」、「主計町(かずえまち)」の3つの茶屋街が残っており、現在も芸妓たちが舞踊や囃子などの修練を積み、高い水準の芸をお座敷で披露している。その3つの茶屋街の芸妓たちが合同で行なうのが「金沢おどり」。今年は、鶴亀、さわぎ、羽衣三番叟、あやめ、夕顔棚、天馬の翔、江戸風流、金沢風雅などが披露された。今回もわれわれ熊本人にはおなじみ、三味線の大和久子(今藤珠美)先生が地方のサポートをしておられた。
 残念ながら、わが熊本には茶屋街は残っていないが、中村花誠先生など、多くの邦楽関係者が、熊本の伝統芸能の灯を絶やさないようにと頑張っておられる姿に敬意を表したい。


今年の金沢おどりから「お座敷太鼓 さわぎ」の演奏風景



「熊本さわぎ唄」 (アルバム 今藤珠美・大和久子作品集より)

熊本城 薪能(たきぎのう)

2013-10-14 22:20:46 | 音楽芸能
 「2013 秋のくまもとお城まつり」の中でも楽しみにしていたプログラム「薪能」を観に行く。今日の演目「熊坂」は生でもテレビでも観たことがない。平安時代の盗賊・熊坂長範が金売吉次を襲い、逆に一行の中の牛若丸(源義経)に討ち取られたという伝説の後日談。
 旅の僧(ワキ)が美濃の国赤坂の里を通りかかると、一人の僧(前シテ)が現れ、さる人を弔って欲しいと言う。弔いを済ませ、その僧の庵に案内されると様々な武具が並べられている。事情を尋ねると、この辺りは山賊が多く出没して旅人を襲うので、この武具を持って助けに行くのだと言う。夜も更けてその僧が寝室に入ると、姿は消えて庵もただの草むらになってしまう。僧が弔いをしていると、熊坂長範の霊(後シテ)が現れる。長範は金売吉次を襲って牛若に斬られた様子を語ると、夜明けとともに姿を消す。といった内容。熊坂長範の霊が薙刀を振るって舞う場面はなかなかの迫力。
 熊本には、金売吉次が盗賊に襲われて命を落としたという伝説がある吉次峠(西南戦争の激戦地)もあるのでちょっと身近な気もする。それにしても熊本城天守閣を借景にした舞台はぜいたくだ。


「能 熊坂」(後シテ:熊坂長範の霊)


「能 熊坂」(ワキ:旅の僧)


「狂言 隠狸」(太郎冠者と主)


「仕舞 鶴亀」

えびす様と花童

2013-10-12 23:30:22 | 歴史
 七福神の一つとして、商売繁盛や豊漁の神様として日本各地で祀られる「えびす様」。かつて熊本市内でも旧暦もしくは新暦の10月20日に「えびす講」という祭りが各町内で行われていた。なかでも熊本市中央区坪井の「坪井恵比須神社」は城下町で最も古い歴史を持つ「恵比須神社」。しかし、現在は駐車場の奥に押し込められた状態でお気の毒な有様。ここの「えびす講」は、地元の呉服屋が「えびすぎれ」といって反物の安売りを始めたのが起源だという。今日も行われている「上通並木坂えびす祭」はその流れを汲むものなのだろうが、祭りを見ていて「えびす様」の影はどこにも見当たらない。しかし、そんな中でも「舞踊団 花童」の子たちが繰り広げた和楽の調べと日本舞踊は、かつての広丁や通町の賑わいを髣髴とさせ、きっと「えびす様」もニンマリとされていたにちがいない。






世界140カ国の人々の前で踊った「花の猩々」 ~ ザ・わらべ ~

2013-10-11 21:28:55 | 音楽芸能
 熊本で開かれた国連の水俣条約会議は今日無事に閉幕した。この会議そのものについてはいろいろ言いたいこともあるが、それはまた別の機会にして、昨夜、熊本城奉行丸で行われたレセプションにおいて、われらの誇り「少女舞踊団ザ・わらべ」 が世界140カ国の参加者の前で日本舞踊を披露した。会議参加者のみのクローズのイベントだったので、われわれ一般市民は見ることが出来なかったが、複数の関係者から聞いた話では、みんな彼女たちの踊りにくぎ付けになっていたという。日本の伝統文化を世界に向けて発信するという中村花誠さん率いる「舞踊団 花童」の大きな目標の一つが、またその記念すべき一歩を記したことはとても喜ばしい。

▼会場の雰囲気(HIROさん撮影)


 昨夜披露した演目は「花の猩々(はなのしょうじょう)」という14分を超える大曲。日本の横笛の第一人者である二世藤舎名生さんの創作で、能「猩々」をモチーフとしている。中村花誠さんの、「能」を思わせる振付も見どころの一つ。下の映像は9月14日、熊本城本丸御殿で行われた「秋夜の宴」の時のもので、まだ未公開だったが、昨夜、世界各国の人々が見たとあっては公開しないわけにはいかなくなった。


♪お江戸日本橋

2013-10-09 20:40:14 | 音楽芸能
 東京に勤務していた頃は、会社が東京駅八重洲口からほど近い京橋にあったので、昼飯の後、よく日本橋まで散歩したものだ。日本橋まで行くと反射的に「お江戸日本橋」のメロディが口をついて出る。しかし、1964年の東京オリンピックの時に、日本橋の上を首都高速が通るようになって景観は損なわれてしまい、風情などあったものじゃない。今度、首都高速を造りかえる時はぜひ昔の景観を取り戻してほしいものだ。
 それはさておき、この歌に「お江戸日本橋 七つ立ち」とあるように、昔の人は「あけ七つ」つまり午前4時に江戸を立って東海道への旅へ出て行ったらしい。一日に九里(36km)から十里(40km)は歩いたというから、昔の人は足腰が強い。日本橋を出発すると最初の宿が、保土ヶ谷宿か、もしくは次の戸塚宿だったそうだ。そう言えば13年前に他界した父は遠い距離を歩くことを全然苦にしなかった。車などなかった時代の人々の「歩く」という感覚は現代人とは全く異なっていたのだろう。


新町の阿国歌舞伎

2013-10-08 20:13:30 | 音楽芸能
 今から10年前の2003年8月2日、京都でこんなイベントが行われた。


≪2003.8.3 読売新聞の記事≫

 これは歌舞伎発祥の年と伝えられる慶長8年(1603)からちょうど400年を記念し、関西楽劇フェスティバル協議会が主体となって、京都四条の鴨川河川敷において「阿国歌舞伎」の復元上演を行ったもので、NHKの実況放送も行われた。
 出雲阿国が京の四条河原で初めて「歌舞伎おどり」を披露してから6年後、「阿国歌舞伎」は熊本にもやって来た。江戸時代前期に書かれた加藤清正の伝記である「続撰清正記」によれば、「塩屋町三丁目の武者溜りで八幡の国という女歌舞伎が興行をした」ことが書かれている。この「八幡の国」が「出雲阿国」その人であったかどうかを示す史料は今のところ見つかっていない。しかし、「出雲阿国」という名前が一般的になったのはだいぶ時代が下ってからだという文献もある。北野天満宮に定舞台を設けて興行していた頃は、「男装の麗人」よろしく「北野対馬守」を名乗っていたといわれるし、加藤清正が初めて「阿国歌舞伎」を見たのは邸を構えていた洛南の八幡(石清水八幡)だという。ひょっとしたら阿国が八幡で興行を打つ時は「八幡の国」と名乗っていた可能性もありうるのだ。
 下の写真は、以前にも紹介した熊本中央郵便局前の道路を挟んで向かい側の博栄堂印房のシャッターである。ここら辺りが「続撰清正記」に書かれた「塩屋町三丁目の武者溜り」があった場所のようだ。ここは熊本の芸能史の中でも記念すべき史蹟と言える。そういう意味では、そのことを後世に伝えるモニュメントやお祭りが新町にあってもいいのかもしれない。


野林祐実さんの3年

2013-10-07 19:29:40 | スポーツ一般
 今日の4×100mリレー準決勝において熊本県チームが敗退したことにより、野林祐実さん(九州学院)の東京国体が終わった。この大会には高校3年間の集大成と意気込んで臨んだそうだが、100mで準決勝敗退という残念な結果に終わった。来週、愛知で行われる「日本ジュニア・ユース選手権」に出場するかどうかわからないが、これで彼女の高校時代の競技生活はほぼ終わったと言える。しかし、彼女の競技生活はまだ始まったばかり。大学へ進むか、あるいは実業団に入るかわからないが、リオや東京のオリンピックを目指すに違いない。
 この3年間、よく頑張ったし、僕らを楽しませてくれた。ひとまず、ねぎらいと感謝の言葉を捧げたい。
 「お疲れさま! そして ありがとう!」
 このブログに書いた野林さん関連の記事の中から主なものを抜粋してみた。彼女の3年間を振り返ってみたい。

期待のスプリンター! ~ 野林祐実 ~(2010-10-03)
楽しみな陸上競技、2011シーズン到来!(2011-03-21)
段違いの強さ! ~ 江里口 & 野林 ~(2011-04-16)
野林祐実がちょっと心配・・・(2011-06-04)
野林祐実、覚醒するか!(2011-06-22)
野林祐実4位! ~ 北東北高校総体女子100m ~(2011-08-04)
野林祐実 久々の会心のレース!(2011-09-17)
野林祐実2位! ~ 山口国体・陸上少年女子B100m ~(2011-10-08)
野林祐実 全九州高校新人陸上100mで優勝!(2011-10-15)
野林祐実 またも2位!~ 2011年日本ユース選手権 ~(2011-10-22)
トラック&フィールドのシーズン近し!(2012-03-02)
野林祐実 新シーズンを好スタート!(2012-04-01)
江里口快走! 野林キレを欠く!(2012-04-14)
北川愛菜、野林へ二度目の挑戦!(2012-05-06)
野林祐実と土井杏南の差はどこに・・・(2012-05-08)
小雨の中、野林祐実 圧勝も・・・(2012-06-02)
土井杏南 ロンドン五輪へ!(2012-07-04)
野林祐実 高校総体100mを制する!(2012-07-30)
野林祐実 高校総体で2冠達成!(2012-08-01)
野林祐実 インターハイ2冠の貫禄!(2012-09-15)
野林祐実 自己新! ~ ぎふ清流国体 ~(2012-10-05)
2012年熊本県短距離ベスト10!(2012-11-03)
野林祐実のシーズンイン! ~ 2013春季陸協記録会 ~(2013-03-30)
江里口・野林ともに4連覇!(2013-04-13)
よく決勝に残った 野林! ~ 織田記念陸上 ~(2013-05-01)
雨中の激走! ~ 2013熊本県高校総体陸上!~(2013-06-01)
熊本から南九州 そして全国の舞台へ!(2013-06-03)
野林祐実 のこと。(2013-06-07)
野林4冠! ~ 2013高校総体陸上南九州大会 ~(2013-06-16)
野林祐実 高校最後の挑戦!(2013-07-30)
陸上インターハイ2日目(2013-07-31)
野林祐実のいない高校陸上(2013-09-13)

秋雨の夜は日本舞踊で・・・

2013-10-05 22:11:20 | 音楽芸能
 10月に入り「熊本城本丸御殿 ~秋夜の宴~」の花童の出番も今夜を含めあと2回。秋雨そぼ降る中を登城する。雨の日は大概そうだが観客の出足は鈍い。しかし、そんな日はこれまでも良い席でゆっくり見れることが多いので思わずほくそ笑む。20曲近い演目の中には初めて見る演目も6曲ほど含まれており、約1時間半をいつものように“わらべ”の文乃ちゃんのお爺ちゃんとよもやま話をしながら楽しんだ。帰り道におなかがすいたので、文乃ちゃんのお爺ちゃんからもらったチクワを食べながら歩いていたら、匂いを嗅ぎつけたのか野良猫がず~っと付いてきたので半分やった。




お伊勢参らば お多賀へ参れ ・・・

2013-10-03 19:54:27 | 歴史
 式年遷宮を機に「平成のお伊勢参りブーム」がやってきたと言われているが、伊勢神宮の御祭神である「天照大神」の両親にあたる「イザナギノミコト」と「イザナミノミコト」を祀った神社として、神代の時代から全国に知られていたのが滋賀県多賀町にある「多賀大社」。「古事記」にもその名が登場する由緒ある神社であり、近世には「伊勢にゃ七度、熊野へ三度、お多賀さまへは月まいり」、「お伊勢参らば お多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」などと俗謡にも唄われ、地元では「お多賀さん」と呼ばれて愛されている。
 車で近江八幡から彦根に向かって8号線(あるいは中山道)を進み、犬上川を越えるとかつての宿場町である高宮で琵琶湖の方から来る県道と交差する。そこを右折すると県道224号線、かつての多賀大社の参道である。多賀大社の方へ向うとすぐに左側にブリヂストン彦根工場が見えてくる。かつて僕が勤務していた工場だ。さらに10分ほど車を走らせるともうそこはお多賀さんの門前町である。彦根にいる頃は初詣に訪れたり、来客を案内したりして度々お多賀さんにお詣りした。
 柳田國男の「日本の伝説」には次のような話が書かれている。 
 この地方(近江)では今一つ、更に驚くべき御箸の杉が、犬上郡の杉阪という所にあります。大昔天照大神が、多賀神社の地に御降りなされた時に、杉の箸をもって昼飯を召し上り、それをお棄てなされたのが栄えたと伝えて、境の山に大木になって今でもあります。(老樹名木誌。滋賀県犬上郡脇ヶ畑村杉)


天照大神(アマテラスオオミカミ)

2013-10-02 19:46:00 | 歴史
 いよいよ今夜「遷御の儀」を迎えた伊勢神宮では御祭神の「天照大神」の御神体が旧正殿から新正殿へ移される。1300年の間、連綿と続けられる厳かな行事のクライマックスだ。
 「天照大神」と聞くと、僕は中学生の時に見た映画「日本誕生(1959)」で「天照大神」に扮した原節子さんのイメージが定着している。日本映画史上、おそらくトップに位置づけられるであろう大女優であるとともに、その私生活がミステリアスであったことも影響していると思う。
 それはさておき、伊勢神宮にはまだ参ったことがないので、一度は行きたいと思っているが、とりあえず、わが家からすぐにでも行けそうなところでは熊本大神宮や新開大神宮、弊立神社などが「天照大神」を御祭神としているので近いうちに行ってみよう。

6年の歳月は・・・ ~ 長唄 うさぎ団子 ~

2013-10-01 17:51:45 | 音楽芸能
 昨年4月23日のブログ記事を引用して再編集。

◇首振り三年 ~ ザ・わらべの成長 ~

 日本舞踊を見ていて一番惹かれる動きが「三つ振り」という首の振りだ。右を向いたら次は左に傾いで次に右に傾ぐ、というお馴染みのアレだ。もともと歌舞伎の見得のような一種のきめポーズだったのかもしれないが、「三つ振り」によって女性の艶っぽさや女児の可愛らしさをも表現している。もし、日本舞踊に「三つ振り」がなかったら何としまりのない味気ないものになっただろう。子どもは大きくハッキリと首を振るが、年齢が上がるにしたがって徐々に軽く小さくゆっくりとした首の振りに変わって行くという。日舞の世界では「首振り三年」という言葉があるそうだ。首の振り一つでもマスターするのには3年はかかるので、毎日コツコツと稽古を積み重ねなさいという意味らしい。ザ・わらべの二人はいずれも10年を超える踊りの経歴を持っているが、僕が彼女らの踊りを初めて見たのがちょうど4年前だった。その頃と比べると「三つ振り」の仕方も随分大人っぽくなったものだと思う。