徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

二人の女流作家と「さいこどん節」

2013-10-23 17:19:32 | 音楽芸能
 明治前期生まれの二人の女流作家がいる。一人は山形県鶴岡に医家の娘として生まれ、第二の樋口一葉と嘱望されながら、23歳の若さでで夭折した田沢稲舟(たざわいなぶね)。そしてもう一人は、東京日本橋の弁護士の娘として生まれ、明治・大正・昭和前期にわたり、劇作家、小説家として、また女性地位向上の活動家としても活躍した長谷川時雨(はせがわしぐれ)である。下の写真の左が田沢稲舟(1874 - 1896)、右が長谷川時雨(1879 - 1941)。

  

 この二人については別の機会に譲るとして、先日、「青空文庫」で長谷川時雨が、田沢稲舟のことを書いた短編小説を読んだ。この中に面白い一節を発見した。それは、稲舟(錦子)が後に結婚することになる小説家の山田美妙斎に憧れ、絵画を学ぶため上京した後の話なのだが、神田猿楽町の叔父の家に下宿していた錦子が、神保町の下宿屋街の一角で、ヨカヨカ飴屋の一団から「さいこどん節」でからかわれる場面がある。ヨカヨカ飴屋というのは江戸時代から明治時代にかけて主に関東一円で流行した飴売りのことだ。派手な着物を着て、飴を入れた大盤台を頭に載せ、柄のついた太鼓をたたき、歌いながら売り歩いていたという。小説の時代背景は明治24年頃と思われる。

▼小説の一節-------------------------------------------------------

 錦子が神保町へおりてくると、広い間口をもった宿屋の表二階一ぱいに、書生たちが重なって町を見おろしていた。この附近は下宿屋が門並といっていいほどあって、手すりに手拭がどっさりぶらさがっていたり、寝具を干してある時もあるが、夕方などは、書生の顔が鈴なりになっているのだった。
 書生たちが見おろしていたのは、ヨカヨカ飴屋が来ているからだったが、飴屋は、錦子を見ると調子づいた。
 ヨカヨカ飴屋は二、三人連れで、一人が唄うと二人が囃した。手拭で鉢巻きをした頭の上へ、大きな盥のようなものを乗せて、太鼓を叩いているが、畳つきの下駄を穿いた、キザな着物を東からげにして、題目太鼓の柄にメリンスの赤いのや青いきれを、ふんだんに飾りにしている、ドギツい、田舎っぽいものだった。
 ドドンガ、ドドンガと太鼓を打って、サイコドンドン、サイコドンドンと囃した。錦子が通ると錦子に呼びかけるように、
 ――お竹さんもおいで、お松さんも椎茸さんも姐ちゃんも寄っといで。といやらしく言って、
 ――恋の痴話文ナ、鼠にひかれ猫をたのんで取りにやる。ズイとこきゃ――と一人が唄うと、サイコドンドン、サイコドンドンとやかましく囃したてた。
 二階から書生どもはワッと笑いたてた。
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 ここで僕が食いついたのは「さいこどん節」。以前にもこのブログに書いたことがあるが、明治時代に流行したという「さいこどん節」と「肥後の俵積出し唄」は元歌は同一のものと思われる。「肥後の俵積出し唄」は高瀬(現玉名市高瀬)の御蔵から米を積み出し、船へ積み込む様子を歌った民謡だ。僕はどちらが先かはさして重要とは思わない。ただ、どちらが先にせよ、どういう伝わり方をしたのか、民俗学的な興味がある。長谷川時雨は、おそらく自分自身が見聞きした情景を書いたと思われるので、明治24年頃の東京では普通に見られた風景なのだろう。また新たな手掛かりになりそうだ。

♪さいこどん節(サイコドンドン節)(唄:本條秀太郎)

▼♪肥後の俵積出し唄(唄:本條秀美)