徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

漱石俳句と琴

2022-07-14 23:07:14 | 文芸
 夏目漱石の俳句には琴(の音)がよく登場する。全部調べたわけではないが、熊本時代に詠んだ琴の句のうち好きな三句を選び漱石の熊本時代をなぞってみた。

  紅梅にあはれ琴ひく妹もがな(明治29年)

 明治29年は熊本に来て間もない頃で、新妻の鏡子さんが気味悪がってすぐに引っ越したという光琳寺の家にいた頃か、移り住んだ合羽町にいた頃に詠んだことになる。光琳寺の家はあまりに短いので、合羽町に移ってからと考えた方が自然か。早春にしみじみとした趣の琴の音が聞こえてきて、それを奏でているのが愛しい人であればなぁと思ったのだろうか。

 漱石夫妻は合羽町の家で初めての正月を迎えるが、五高の同僚や学生が大挙して押しかけ散々な目にあう。そしてこの合羽町の家は家賃が高すぎたため1年で、白川を渡った大江村の家に移り住む。正月の騒動にこりて、この年の暮れ同僚の山川信二郎をさそって小天温泉に向かい、そこで明治31年の正月を迎える。この旅行が「草枕」の題材となった。

  春雨の隣の琴は六段か(明治31年)

 この句は大江村の家にいた頃に詠んだことは間違いないだろう。春雨がそぼ降る中、隣の家から「六段の調」が聞こえてくるという何とも風情を感じる句だ。
 しかし、この家の家主である落合東郭が東京から熊本へ帰ってくるというので明け渡さざるを得なくなり、藤崎八旛宮裏の井川渕の家へ移り住む。ところがここで鏡子夫人が慣れない環境や流産で精神不安定となり、白川で入水騒動を起こす。川のそばは危ないというので内坪井の家(現漱石記念館)へ移り住む。

  門前に琴弾く家や菊の寺(明治32年)

 井川渕の家では俳句どころではなかったと思われるので、この句は内坪井へ移ってからの作だろう。明治32年の5月には長女筆子が誕生する。「安々と海鼠の如き子を生めり」の句が残る。漱石が坪井町の見性禅寺で参禅していた可能性があるのもこの頃と思われるので、寺の門前に琴の音が聞こえてくる家があったのかもしれない。

 筆子が生まれ、熊本では最も長く約1年8カ月暮らした内坪井の家もなぜか越して、熊本最後の北千反畑の家に移り住むことになる。