昨日、湧々座での花童の公演の時、配られた演目表を見て「二人三番叟」の「三番叟」を読めない中年夫婦がいた。この様子を見て、まず読めないのが普通だろうなぁと思った。もし、ザ・わらべに出会わず、昔の、日本舞踊に無関心のままの僕だったら、きっと読めなかったにちがいない。
日本舞踊の演目である一連の「三番叟もの」は、五穀豊穣を寿ぐ舞といわれ、能の「翁(式三番)」から派生したもの。能を大成させたといわれる世阿弥(ぜあみ)はその伝書「風姿花伝(ふうしかでん)」の中で次のように述べている。
まず「序」では
「推古天皇の御代に、聖徳太子、秦河勝に仰せて、かつは天下安全のため、かつは諸人快楽のため、六十六番の遊宴をなして、申楽(さるがく)と号せしよりこのかた、代々の人、風月の景を仮って、この遊びのなかだちとせり。」
さらに、「第四」の「神儀に云ふ」では
「村上天皇、申楽をもて、天下の御祈祷たるべきとして、そのころ、かの河勝、この申楽の芸を伝ふる子孫、秦氏安なり。六十六番の申楽を紫宸殿にてつかまつる。そのころ、紀の権の守と申す人、才智の人なりけり。これは、かの氏安が、妹聟なり。これをもあひともなひて申楽をす。
その後、六十六番までは、一日に勤めがたしとて、そのうちを選びて、稲積の翁 翁面・代継翁 三番申楽・父尉、これ三つをさだむ。今の代の式三番、これなり。」
つまり、能楽の前身である申楽は、今から千四百年ほど前の推古天皇の時代に六十六の演目が確立し、時代が下って千年ほど前の村上天皇の頃に三つに絞られて「式三番」となり、その一つが「三番叟」だというわけだ。
そんな歴史を知ったうえで、ザ・わらべの「三番叟」を見ていると、えも言われぬ趣きを感じずにはいられない。
日本舞踊の演目である一連の「三番叟もの」は、五穀豊穣を寿ぐ舞といわれ、能の「翁(式三番)」から派生したもの。能を大成させたといわれる世阿弥(ぜあみ)はその伝書「風姿花伝(ふうしかでん)」の中で次のように述べている。
まず「序」では
「推古天皇の御代に、聖徳太子、秦河勝に仰せて、かつは天下安全のため、かつは諸人快楽のため、六十六番の遊宴をなして、申楽(さるがく)と号せしよりこのかた、代々の人、風月の景を仮って、この遊びのなかだちとせり。」
さらに、「第四」の「神儀に云ふ」では
「村上天皇、申楽をもて、天下の御祈祷たるべきとして、そのころ、かの河勝、この申楽の芸を伝ふる子孫、秦氏安なり。六十六番の申楽を紫宸殿にてつかまつる。そのころ、紀の権の守と申す人、才智の人なりけり。これは、かの氏安が、妹聟なり。これをもあひともなひて申楽をす。
その後、六十六番までは、一日に勤めがたしとて、そのうちを選びて、稲積の翁 翁面・代継翁 三番申楽・父尉、これ三つをさだむ。今の代の式三番、これなり。」
つまり、能楽の前身である申楽は、今から千四百年ほど前の推古天皇の時代に六十六の演目が確立し、時代が下って千年ほど前の村上天皇の頃に三つに絞られて「式三番」となり、その一つが「三番叟」だというわけだ。
そんな歴史を知ったうえで、ザ・わらべの「三番叟」を見ていると、えも言われぬ趣きを感じずにはいられない。