ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

甲斐よしひろ BEAT HARDWORK(5/6)2

2022-05-18 15:37:00 | メディア
続いては…かつて、甲斐さんもお見えになった、神戸の『さんちか』にある
ラジオ関西のサテライトスタジオが3月末で終了するとの投稿…
新しい音楽を聴く媒体が主にラジオだった当時、55年続いたこのサテライトスタジオには
「デビューして間もないミュージシャンがよく来ていた」…との一文に「そうですね」と甲斐さん

「今の若者は、ラジオよりYouTubeなどで音楽を聴くようになり」と読まれたトコで
「そうか、YouTubeとか、そういうのでね
あの…ダウンロードとかっていう風になっちゃったんで…」とおっしゃって
「サテライトスタジオは、若者を集めるためのものではなくなった」説に納得されたご様子?

そのサテライトスタジオ最後の特別番組には
アリスのべーやん(堀内孝雄さん)や、ばんばひろふみさん等がお見えになっていた
…といった内容を読み終えられると「…ということで、えー、まっ、僕も実は…
僕もデビューしたての年と、翌年も行ったんですよ、そこ…

で、僕らは、あのー…フツーはですね、そこはライブ絶対やらせないんですけど
まあ、ちっちゃな金魚鉢みたいな、あの…スタジオだったんで…
そこで、片耳イヤホンだけでですね、まっ、あの…モニターもなく生演奏…無理やりやらして貰って…

もう、とにかく、あのー、バンドは『上手くなりたい!』っていうことだけだったんで
もう絶対、生しかやらないと決めてたんで…
まあ、あの…それを飲ませた、ウチの武石さんっていうマネージャーもスゴイんですけど
それを飲んだラジ関もスゴイなあ!と…(笑)」と振り返っておられましたが

確かに、当時かなりの影響力があったラジオという媒体…たとえそれが地方の放送局だとしても
まだ無名に近い新人バンドとしては「出演させて頂きます!」って感じだったでしょうし
ラジオ局の方でも、平身低頭でオファーした訳じゃなかったと思われるし?
開局以来の異例なスタイルだったんじゃないかと…?(笑)

ともあれ…「今、考えたら、あんな狭いトコで、ええ…
だから、ドラムセットもギリギリ置いた感じだったと思うんですけど
そこでね、もうちゃんとやらして貰って…ホント、感慨深いですよ
あの…サテライトスタジオで、えー、生演奏やったの、僕、ここだけなんで…
『さんちか』ねぇ、神戸の…ハイ、えー、懐かしいです、残念ですね、ナンか…」と甲斐さん

ちなみに…このラジ関の番組は「ワイワイヤング」という番組で
甲斐バンドがゲスト出演され、生演奏を披露なさったのは、75年1月22日なんですが
これは、水曜日ということで、当時、中学1年生だった奥さんには
「遠い世界のこと」だったみたいです(苦笑)

ただ、甲斐バンドが生演奏なさったという、阪神淡路大震災前のサテライトスタジオは
今回閉鎖となったスタジオよりは、若干?広かったとはいえ
「あんなスペースによくドラムセットが入ったねぇ!?」とビックリするくらい狭かったし

「生演奏やったの、ここだけ」という甲斐さんの言葉は
武石マネージャーが、甲斐バンドのサテライトスタジオ出演の際には
いつも「生演奏を!」という条件を申し出られていたものの
それに応えてくれたのが、ラジ関だけだった…という風に受け取れますし
担当者の方と、何かしら通じるものがおありだったのかも…?

その後、奥さんが、甲斐バンドがゲストだというので参加した公録番組…
クラスメートのお父さんが、番組スポンサーの会社にお勤めで、招待券を戴いたらしい(笑)
…も、ラジ関の番組で、こちらは、局内の小ホールみたいな所で
各ゲストが3~4曲ずつ披露する形だったそうだけど

歌謡曲畑のゲストの皆さんが、カラオケをバックに歌われたのに対し
甲斐バンドは、もちろん生演奏で、しかもラジオ番組であるにも関わらず
照明に関しても、こだわっていらしたらしく(笑)
「『氷のくちびる』なんて、ちゃんと通常のライブと同じように
赤いライトがピカピカしてた(笑)」との証言もアリマス(笑)

それはともかく…「だけど(閉鎖になったとはいえ)今の今まで続いたっていうのも
まあ、考えたらスゴイなあ!という…(笑)
もう、どこ(のサテライトスタジオ)も、20年くらい前に
もう、どこ…全国ほぼもうなくなってるからね」と甲斐さん

そして、いつもこのエピソードとセットで話される(笑)というエピソード…
「あと、あの…神戸…神戸っていえば、そう、思い出すのがですね
あの…流れるプール…流れるプールでやったの(笑)
えーと…2年目くらい…『裏切りの街角』もうやってたんで…

で、流れるんで、目の前をこう…お客が…お客っていうか
まあ、その(施設に訪れた)人たちが流れて行く訳ですよね?
だから『裏切りの街角』の『♪ラッタタタター♪』ってやって
イントロ聴いた人たちが、バーッて流れて行って
その人たちが戻って来たのが間奏の時だったんですよ

だから、つまり…『えっ!?ひょっとしたら、こ、この人たち、俺…俺たちのことを
インストゥルメンタル・グループって思ってる可能性あるよな』…とかって思いつつ
えー、流れる…流れるプールでやると…スゴイなあ!と思って…
えー、ねぇ?もう、ナンか…なかなか…
そのあともうネタにしてましたもんね、これ…面白いなと思って…」…を披露されてましたが(笑)

奥さんは、いつもこの話を聴くと「イントロ聴いて流れて行った人たちの中に
よっぽど印象に残る人がいないと、戻って来たって判んないよね?(笑)」とツッコんでおります(笑)
ちなみに…こちらは、75年7月29日「きよみづスポーツガーデン」のプールでのことかと…?

でも、そういうキャンペーンで全国を回っていらしたのは
やはり、例の「屈辱のデビューコンサート」以来
「たった何十人でもいいから、俺たち甲斐バンドを聴きに来てくれる
本当のファンを掴むために、必死で歌い始めた」からで

甲斐さんの著書「荒馬のように」の中でも…
「色々な所でやったよ。デパートの屋上でもやったし、ビルの駐車場の横でもやったし
レコード店の店頭で、客寄せのために歌ったりもした
忘れもしない宝塚(?)のプールサイドでも歌った
客が30人とか50人とかはザラだった。子供が鼻を垂らしながら
俺たちが歌ってる前を鬼ごっこしてたりさ。とにかく、どんな所でもやった

それでも俺が、いささかなりとも幸福に感じられたのは
そんな少ない人数であれ、俺たちを目当てに来てくれている人が必ずいるということだった
それは、ものすごい励ましだったし、支えだった
『裏切りの街角』が売れたその年は、俺たちはたったの1日も休んでいない
毎日、どんな所へでも出かけて行って
『裏切りの街角』をヒットさせようという意気込みで必死でやっていた

小さな地方都市のサテライトスタジオにゲストで出たこともあった
普通なら、カラオケのテープを回して、それに合わせて客の前で歌うんだよね
でも、俺たちは絶対に自分たちで演奏して歌うという基本を崩したくはなかった
だから、悪条件でも可能な限りは自分たちで演奏し歌った

それでも、どうしても自分たちで演奏することが出来ない場合は
レコードをかけて貰って、客に向かってお辞儀をしていたよ
でも、デビューコンサートの屈辱に比べたら
そんなことは少しも苦になんかならなかったね、ヘッチャラだったよ

それは、ホンの少しずつかも知れないけれど
確実に俺たちのことが浸透して行ってると思えたし
何人かずつでも理解者が増えて来ていることが伝わって来ていたからね
それがきっと『裏切りの街角』の70万枚に繋がったんだと思う」…と振り返っておられますが

奥さんが「オリジナル」の甲斐バンドにこだわりがあるのも
右も左も判らないまま、福岡から東京に出て来られ
「俺たちは、これからプロとしてやって行くんだ!おいそれとは福岡に帰れないんだ」という
不退転の覚悟を共になさったメンバーでいらしたからであり

また、自分がその過程の一部をリアルタイムで目にしたことと
微力ながら、その甲斐さん達の気持ちの「支え」の1人になっていたと思うことが
当時の自分の存在証明みたいに感じられるからじゃないかと…?
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