次は、阿久悠さんからプレゼントされた化粧バッグを挙げられた伊藤咲子さんなんですが
伊藤さんのお名前を聞くたび、奥さんが思い出すのは、やっぱり甲斐バンドらしい(笑)
伊藤さんのラジオ番組の公開収録に参加した際
甲斐さんが煽られても、他の歌手の方々のファンの皆さんもいらしたので
おいそれとは立ち上がることが出来なかったのに
収録の最後の最後に伊藤さんが歌っておられた時
ナゼか皆さんが、こぞってステージに駆け寄られたそうで
奥さん達もステージにかぶり付き、伊藤さんを見つめていたんだとか…(笑)
まあ、それは当時の甲斐バンドライブで鍛えられた「走り込み」の賜物かと…?(笑)
それはともかく…伊藤さんは、デビュー曲「ひまわり娘」のレコーディングのため
阿久さんとご一緒にロンドンへ行かれたものの
阿久さんは「サッコの感性の問題だから」と歌い方の指示を一切出されず…
って、当時中学3年生、15歳の新人歌手にはかなりのプレッシャーじゃ…?(汗)
また「食べ慣れない洋食が喉を通らなかった」みたいで
「『お前は金のかかる女だなあ』とボヤキながらも、朝昼晩と郊外の店に私を連れ出し
和食を食べさせたくれた」そうです(笑)
「その最中、テレビのドキュメンタリー番組で
ロンドンからパリに移動してロケをしていた時
合間に阿久先生から『どんな歌い手になりたいんだ?』」と訊ねられ
「憧れの歌手の名前が挙がると予想しておられたようですが
『化粧バッグを持ってスタジオからスタジオを回る歌手』」とお答えになったところ
「じゃあ、買いに行こう」と阿久先生(笑)
同じ「スター誕生」出身でも、やはり番組の企画立ち上げから関わっていらした阿久さんに
デビュー曲の歌詞を書いて貰える方と、そうでない方とでは
プロダクションやレコード会社の力の入れ方が違っていたんですねぇ(苦笑)
まあ、そのおかげで?「スタ誕」の予選からずっと
阿久さんの辛口コメントを受けておられた山口百恵さんは
セルフプロデュースや「交際宣言」からの人気絶頂期引退など
当時のアイドルとしては、かなり画期的なことを沢山行われましたけど…(笑)
続いては、マジシャンのマギー司郎さん
40年くらい前にお作りになったものも含め、20本くらいの眼鏡をお持ちだそうですが
「一番収入があった時、思い出に作っておきたいなあとデパートで特注した」という18金製の70万円のものや
「仕事の内容によって『違うのありますか』と言われて」お作りになったもの
「寄り目だったのをカバーしようと、左は円、右は三角にしたこともあった」らしい
「右目の視力はほとんどないけど、何の不自由もないんですよ
今、カードマジックで一番うまいのは全盲の方ですって。
ピアノの上手な方も目が見えなかったりするじゃないですか
こっちが不自由だと、こっちが優れるとか
人間はそういう風に出来てるような感じがします」とおっしゃっているのを拝見して
以前に甲斐さんが「ハッキリとモノが見えない、刻明に捉えられないってことは
どっかでイマジネーションを働かせてる訳でしょ?
物がよく見えないってことで、小さい頃からそういう訓練してる訳だし…
全てがハッキリとクリアに見えないっていうのは
イマジネーションを得るには最大の武器かも知れないと思うもの
で、坂本龍一と、お前は見える・お前は見えないという話をやってね
つまり、刻明に見える坂本龍一は、メロディメーカーとして
見えない俺は、歌詞を書くっていうのがあるかも知れないねって…」
…と話されていたことを思い出しました
そして…T-BOLANのボーカル・森友嵐士さんは
「バンドを結成して30年近く。解散や活動休止を経て
僕たち自身もバンドも大きく変化した
元々、僕たち『仲間』ではなかったんです
音楽的な繋がりで集まったミュージシャンだった
1994年から心因性発声障害で、僕の声が出なくなって、99年にバンドは解散
2009年に声を取り戻した時も、メンバーみんなそれぞれ違う人生を歩んでいたし
再結成には至らなかった
その後、東日本大震災が起きて『いつかこれやろう』と思っていても
ある日突然、人生がなくなるかも知れない
そう考えた時、僕の『いつか』はT-BOLANだって判った
みんなを集めて、気持ちを確認して、12年に再結成しました
ツアーを経て、99年に出来なかった解散ライブをして
やっとやりきった、これでゼロに戻れたって思って、活動休止を宣言したんです」
…と、バンドとしても、お気持ちの上でも、区切りをつけられたようだけど
「15年にベースの上野博文が、くも膜下出血で倒れた
集中治療室に1ヶ月入院し、意識不明の状態から回復したのは奇跡
俺もリハビリを続けた14年間があったから、彼の気持ちがすごく判る
人間、一番やりたいことがある方が頑張れる
16年の大晦日に再始動を宣言しました
音楽性で集まったメンバーが、仲間として再び音楽を始めた
そんなT-BOLANこそが、僕の人生の中で大きな存在『THE BEST』です」と話されてます
甲斐さんが、KAIFIVEを結成なさった際に
「甲斐バンドみたいに、昔からの仲間が集まって出来たバンドじゃない
そんなバンドは、一生に一つだけだから…」とおっしゃって
KAIFIVEは、それまでのソロ活動のように
曲ごと、ツアーごとにメンバーを変えるのではなく
固定したメンバーの中から生まれる音を追求する
いわば「ユニット」だという認識でいらしたんですよね?
そういう意味では「ユニット」だったと思われるT-BOLANが
30年近い年月を経て「バンド」になったんだとしたら
KAIFIVEもその後の展開次第では、もう1つの「バンド」になっていたんじゃないかと…?
最後は、カンニング竹山さんの「THE BEST!」
10年ほど前、焼肉屋さんでお食事中に
「『あっちの筋』かなっていう強面の人が
『受け取って下さい』と小さなポチ袋」を差し出され
「『お金はマズイなあ』と思って」お断りになったものの
「最後には『どうしても受け取って下さい』と後輩に押しつけて」帰ってしまわれたらしい
でも、そのポチ袋には、その男性が事業に失敗して死のうとしていた時に
竹山さんが出演された番組を見て、自殺を思いとどまったこと
今は家族と一緒に焼き肉を食べに来られるようになったことに対する
感謝の言葉が綴られた手紙が入っていたそうです
「2006年に相方が病死しました
僕の心には、どこかすっぽりと穴が空いていたのかも知れません
手紙を貰った時は、自分の芸に自信もありませんでした
でも『一生懸命やっていれば、見ている人に何かしら伝わるんだ』と
手紙から勇気を貰った気がします」と竹山さん
甲斐さんは、函館のバーで酔っ払ったサラリーマンの男性が
「安奈」を口ずさんでいるのをご覧になり
「音楽ってそういうものなんだよね、俺にとっても…」と
ミュージシャンになられて「一番嬉しかったこと」に挙げられてましたが
竹山さんも同じ演者としての喜びをお感じになったんでしょうね?
そのお手紙は「いつも財布に入れて」お守りになさっているみたいで
甲斐さんが「自分の最初を忘れないため」に
お母様からのお手紙を財布に入れておられることを思い出し
竹山さんへの好感度が爆上がりしました(笑)
余談ですが…奥さんの「THE BEST!」は
たぶん?アレかコレか、2択まで絞れるんだけど(笑)
もし、甲斐さんがこのコラムに登場なさることがあれば、何をお選びになるのか?
このブログでご紹介したものは、お仕事に直接関係するツールやこだわりの品
ご自身の支えになっているもの…といったものですが
他の著名人の皆さんの「THE BEST!」には
憧れのスターに会った時の思い出やサイン入りの品
尊敬する師匠や先輩から譲り受けたられたもの
アマチュア時代にコンサートを開いた会場や
当時の気持ちを忘れないようにするため、自らに課されたブログ等、様々なベストがあり
例のビートルズのアルバムのようなレア物か?
進むべき道を示唆してくれた映画や書籍か?
それとも、どなたかからかけられた言葉なのか?
はたまた、もっとプライベートな思い出や、それにまつわる品か?…と絶賛妄想中(笑)
ホントに取材のオファーして欲しいなあ♪