日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

太田竜氏と広瀬隆氏と護憲派との関係について考えるとき

2021-02-21 | 日記

太田竜氏と広瀬隆氏と護憲派との関係について考えるとき

昨日の〈阿修羅〉のぺリマリさんの太田竜氏に関する記事に刺激され、同時に忘れていたことを、気が付かないままにあった点を気づかされて、今回も私の気になっていたことを書き留めておきたい。

「反原発」あるいは「脱原発」は、「護憲」の立場では決して実現できない。昨日のブログ記事で紹介していたぺリマリさんの太田竜氏の記事の中にあった国際連合の人権云々に関して、私はそれと結び付けて日本国憲法の人権の問題点を考えることも大切だと述べていた。

国連の推奨する人権は、近代憲法の、また市民革命時のそれである。同じものだ。太田氏は、国連の人権の背後にユダヤ・フリーメーソン・イルミナティの存在を見ていた。彼らが原発を推進してきたのだ。

護憲派の人たちが推奨する人権は、その関連から言えば、ユダヤ勢力が提唱する人権に他ならず、その人権を保持、護持したままで「(反・脱)・原発」など不可能なのだ。

学術会議問題で話題となった「立憲主義デモクラシー」を訴える研究者も、結局はユダヤ勢力と手を結んでいる、手を貸しているということなのだ。

ただし、誤解のないように申し添えておきたい。私は、太田氏と異なる観点から、市民革命から今日に至るまで存続してきた「人権」の問題を批判的に考察・論評してきたが、それでも、太田氏が言わんとすることに少なからず、共感している。

広瀬隆氏も、反原発を熱心に訴えてきた闘士の一人であり、ユダヤ勢力に関連した著作も多いのだが、太田氏とは異なり、護憲派に属する、と私はみている。付言すれば、小出裕章氏も日本国憲法を礼賛していた。

もとより、反原発、脱原発を思考する人々も一枚岩ではないのだが、一枚岩とならないような布石が打たれていたことを、つくづく最近になって気が付くのだ。

〈阿修羅〉に掲載されている記事をみても、まさしくそうである。それはそれで構わないことだが、私は、上で述べていたように、反原発・脱原発を実現するためには、ユダヤ勢力が推奨する「人権」を守り続けていては、到底不可能だと言いたいのだ。つまり、護憲の立場を標榜する限り、それは無理だということを。

ここで、また誤解のないように一言付言すれば、私はユダヤ勢力が後押しした、彼らが背後に控えているから、私たちがいま享受している人権を駄目だと批判しているのではない。私たちが後生大事にしてきた人権が、先述の小出氏の言葉を借りれば、「人を人として扱わない」、換言すれば、差別と排除の関係を前提としてつくり出されてきた人権であるからに他ならない。

なお、小出氏にとっては、「人を人として扱わない」のが「原発」だったのだが、私からすれば、近代的人権も、まさにそうだということだ。そのような人権を絶対不可侵の如く取り扱ってきた私たちの世界は、絶えず第2、第3の「原発」を作り続けるであろう。

それに関連して付言すれば、「持続可能なーーー」とか、「グローバルーーー」とか、最近、特に怪しく響く動きが目立っている。

 

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