日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私は一体どのような社会の実現を目指しているのか6

2024-03-22 | 日記
 私は一体どのような社会の実現を目指しているのか6ーそのためには、先ずは私が一体どのような社会の中で生きているのか、それを確認する作業から始めなければならないだろう




 前回記事を書いてから、また気分は落ち込んでしまった。ロシアによる戦争とイスラエルによる「ホロコースト」を彷彿とさせる暴力行使を、誰も止められないという現実を前にして、これまで私たちが「常識」としてきた歴史教育の抜本的・根本的修正ないしは改変が求められているのではないか、と私は言わざるを得ない。それを一口で言うならば、ある特定の歴史の再認識や再解釈を前にしたとき、それらをこれまで「歴史修正主義」として批判する側に位置していた「あるべきとされる歴史像」の「修正」こそが先ずは必要だということに尽きる。


 私が何よりも危惧しているのは、たとえば私の語る「システム」論で問題提起してきたいわゆる市民革命時に発せられた「普遍的価値」とその実現の歴史である「普遍主義」を真っ向から批判する拙論それ自体も、歴史修正主義として批判される日が来るのではないかということなのだ。さらに、市民革命以降の近代憲法や国連憲章、日本国憲法等の一連の批判も厳禁とされるかもしれない。


 私からすれば、それこそまともな歴史研究なり解釈を伴わない歴史を神棚に祀り上げて、それを前提として「システム」に不都合な歴史研究や解釈を、歴史修正主義として一括りに批判されるとすれば、私にはどうしても許しがたい暴力であると言わざるを得ない。いわゆる歴史修正主義とされてきた主張や解釈の検討や検証は、これまであるべきとされてきた歴史像の検討なり検証作業を経た後に初めて行われるべきである、と私はみている。




 ところで、不謹慎な物言いであることを承知の上で言うならば、今のこの時点は、私たちが辿ってきた市民革命以降の「歴史」を捉え直すことのできる格好のチャンスとでもいえる時期なのではあるまいか。これまで私たちの常識とされてきた歴史認識とその解釈が、根底から揺らぎ始めている。ナチス・ドイツに代表される「全体主義」体制を打倒したとされる「自由民主主義」体制も、無慈悲な暴力行使によって多くの民間人の命を奪ってきたことを、私たちはイスラエルによる残虐非道な戦争を介して学び直している最中である。


 言うまでもなく、今のイスラエルによるパレスチナ人に対する虐殺行為を始め、冷戦崩壊以降の中東湾岸諸国での米国による無謀な戦争、さらには第二次世界大戦中における日本に対する原爆投下の歴史を、私たちは書き改めなければならないのではあるまいか。ところが、当のかつては西側先進諸国とされた欧米社会も日本社会も、それを引き受けることは絶望的と思われるほどに、「グチャグチャ」状態と化しているのである。


 誠に残念至極というしかあるまい。社会の混乱に加えて、私の語る「システム」の提供する「システム」ご用達のメディアとそこに加わる知識人は相も変わらぬ無責任な情報伝達を繰り返すのだから、どうしても格好というか絶好の機会を活かすことは難しいとなるのも仕方はないのだが、それにしても残念というか口惜しい限りだ。これほどまでにネット情報を利用できるにもかかわらず、そこから描かれる私たち庶民を主人公とする物語が、せいぜいなところ「陰謀論」談議に終始してしまい、そこから「歴史」の全体像を検討・検証する作業へと私たちを導く論の展開とはならないのである。


 それにしても、ここまで社会がグチャグチャ状態と化してしまうと、一体どこに眞實や事実とされるものがあるのかというコミュニケーションが最初から成立しない認知レベルにおける原始時代の中に私たちはおかれているということではあるまいか。だが、それにもかかわらず、私たちは今AIに象徴されるIT時代に生きている。このギャップ を埋め合わせる力を私は保持していない。残念ながら、時代のスピ-ドについていくことができないのだ。そこには目の不自由さや高齢者となってしまったことも与っているのは間違いないのだが、もはやコミュニケーションというか会話が成立しないことが大きな原因である、と私はみている。


 国会でのあれほどのウソの大洪水を前にして、それでも社会はそれなりに一日一日と過ぎていく。不思議なことに、あれだけのウソをつきながらも、またこれほどのホロコースト犯罪をしでかしながらも、社会は外見的には保たれている。おかしなことだが、そんな社会に生きていると、もう何でもありとなってくる。そんな中で、たとえ理不尽極まりない言動や行動であるにもかかわらず、ある者にはそれが罪とならないで許されてしまう。多くの者にはそれはオカシイと知りながら、そんな理不尽さがまかり通る社会の中で生き続けてしまう。本当におかしな社会である。


 そんな社会で暮らしている人間は、いつしか自分の判断基準というか物差しを使うことの愚かしさというかバカらしさを覚えてしまい、もうエエカッコウしながら生きていくことをやめてしまう。換言すれば、押し付けられてきた社会道徳規範に従って生きることのアホらしさを卒業しようとする。国会議員や総理大臣や官僚を筆頭に、彼ら自ら率先して自己保身の塊となって、自分とその身内だけの命と暮らしを守る安全保障を最優先課題として、金儲けに邁進している姿をいやというほど見せつけられる中で、庶民もまた自らの生活防衛に努めようとする。


 勿論、庶民の多くにとってそれは難しいことから、どうしても「寄らば大樹の陰」を目指すこととなる。これは相当に危険というか怖い傾向であるのだが、その流れは押しとどめられそうにもない。何か大きな力を持った人間集団の後についていく、そんな生き方をせざるを得なくなる。その力を得た後で、自分たちよりも弱い者を見つけては攻撃して、これまでの憂さ晴らしをしようと努めるのだ。これらの動きは、既に右や左のポピュリズムや移民排斥運動等々に示されている。


 私の語る〈「システム」とその関係の歩み〉によれば、先の自己破壊・破滅的運動は、1970年代以降から今日に続く{[B]→(×)[C]→×[A]}(なお、モデルは共時態型、省略形)の世界・セカイの中でのAのかつての先進諸国が引き受けている「システム」の「段階」における低度化の特徴であるⅡ’期の[経済発展→分厚い中間層の解体]を経て、Ⅲ’期の[分厚い中間層の解体→民主主義の発展(低度化)]へと社会の姿が変貌している真っただ中にあるのだ。


 これに対して、Bの先頭を走る中国やその他のブリックス諸国とCの諸国を含めたいわゆる「グローバル・サウス」を構成する国々は、「システム」の高度化の段階に位置している。Ⅰ期の特徴である[権威主義的性格の政治→経済発展]の段階から、Ⅱ期の[経済発展→分厚い中間層の形成]の段階に至る範疇に区分される中で、各国はしのぎを削りながら、来るべき社会の実現に向けて、悪戦苦闘しながらも邁進中である。


 こうした{[B]→(×)[C]→×[A]}の世界・セカイの中で、Aにおけるかつての先進諸国の庶民の多くは、面白くもない世の中で面白くない日々を生きているということになる。その現実はこれからも変わることなく続いていく、と私はみている。それゆえ、そんなAの低度化がますます深刻化する中で、私はたとえどれほど社会がグチャグチャ状態と化しているとしても、その低度化の中でも、なんとかして私たちが生き残れるための社会の条件を考えてみたいのである。


 そんな私の思いを踏まえるとき、今の国会に示される国内政治の惨状は、また国際政治における袋小路というか八方塞がり状態は、それこそ前途多難というか展望はあまり見えてこないというのが正直なところである。この状態から脱するのは、たとえば政権交代を実現したところで、どうにもならない話である。さらにはどこかの国の大統領が別の誰かに替わったとしても、何ら変わるところはないだろう。


 私たちが向き合うべき対象は、あくまでも{[B]→(×)[C]→×[A]}の世界・セカイであると同時に、その中のAの社会である。こうした〈「システム」とその関係の歩み〉をその視野の内に含む政権交代論でない限り、またそれは米中関係問題を巡る議論においてもそうなのだが、ほとんど何も意味を持たない、と私は言わざるを得ない。それゆえ、今一度、このあたりで自由な民主主義体制はどのようにして形成され発展してきたのかについて、私たち一人一人が真正面から格闘する時期に来ているのではあるまいか。何度も言うのだが、今まさにそうした作業をする上で、好都合な時期に私たちは位置しているのだ。


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