日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

(追記・追加版) 私は一体どのような社会の実現を目指しているのか5

2024-03-10 | 日記
私は一体どのような社会の実現を目指しているのか5ーそのためには、先ずは私が一体どのような社会の中で生きているのか、それを確認する作業から始めなければならないだろう




 たとえばカントの『永遠平和のために』を、あるいはトルストイの『戦争と平和』を、
サルトルの「実存主義」やガンジーの「非暴力主義」に関する「ユーチューブ」での(解説・紹介)を念頭におきながら、パレスチナのガザ地区での筆舌に尽くしがたいと思われる凄惨な人殺し現場の前で、あるいは東京電力福島原発とそこでの処理済み原発汚染水の海洋放出の現場を目の当たりにしながら、あれこれと思案するとき、正直なところ、私には何も思い浮かぶことはないのだ。


 先の著作に関して詳しくいろいろと教えてくれるそれらの開設・紹介が悪いというのではない。むしろありがたいと感じているくらいだ。問題はそこにあるのではない。それらの内容が戦争現場や原発現場を端的に象徴している差別と排除の関係を前提として展開されてきた自己決定権の獲得とその実現を巡る暴力とその集約としての覇権システムとその抱える問題に対して、何も有効なメッセージを提示してはいないということである。


 もっとも、これは私はそう感じるとの独断であるに過ぎない。読者はおそらくはそんな風には思わないかもしれないし、また私のような上にある条件設定などはしないかもしれない。さらに誤解のないように付言すれば、これらの著作やそこでの主張は、それはそれだけで意味のある内容であるのは私も認めるというか、世間一般の評価は高いのだが、それにもかかわらず、先に取り上げた戦争や原発問題に対して、彼らの教えを手にしながら、なんとかアプローチを試みても、何も考えが出てこないのだ。それはどうしてなのか。




 私は議論の出発点として、いつも私の語る「システム」の「歴史的制約制」を前提としている。すなわち、私たちが哲学的思想的営為を試みるときに、私たちは〈「システム」とその関係の歩み〉のどの「地点」に位置していて、どのような「段階」の中で生きているのかを、議論の大前提としなければならない、と私はみている。すなわち、私たちはこの世に生を受けた時には、私の語る「システム」の差別と排除の関係の中に放り出されるのだが、その地点と段階は一様ではなく、それこそ差別と排除の関係を甘受せざるを得ない、と私は考える。


 私が拘泥するのは、哲学的・思想的営為には当然ながらこのような歴史的制約性を所与の前提とした論の展開が要請されるということだ。換言すれば、もしそうでない営為だとすれば、それは最初から「システム」の差別と排除の関係とそれがつくり出す宿痾に向き合う論の展開など不可能だということである。それゆえ、「システム」から見れば、それらの営為は痛くもかゆくもない、むしろ大歓迎される代物なのだ。つまりは、私たちの命と暮らしを守る安全保障に危害を加える「システム」に対する哲学・思想上の防波堤というか制御柵となることができないことを意味している。 


 勿論、だからと言ってそうした営為が無意味であるということでもあるまい。それが証拠に、今でも多くの読者がそれらの著作や主張に賛辞を贈るのを惜しまないのだから。だが、私はそうであるからこそ、「システム」は今後も、その維持とさらなる発展を約束されているというしかないのだ。それは「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウを不可避とする私たちの社会が今後も続いていくということを意味している。それは戦争や原発を金の成る木として組み込んできた「システム」の存続に手を貸すことを意味している。


 (追記)


 私がこれまで訴え続けてきたのは、たとえば近代について、自由主義について、民主主義について、社会主義や共産主義、権威主義や全体主義について、あるいは普遍的価値や普遍主義について、正義や善について、さらにはナショナリズムとか「民主と愛国」とか、三民主義や歴史等々について語るとき、私たちの社会を刻印付けている差別と排除の関係とそうした関係をつくり出す自己決定権の獲得と実現を巡る暴力を介した争奪戦とその集約である覇権システムを、所与の前提としてそれらの議論の内に組み込まない限りは、結局は何も語ってはいないとの私の主張であった。


 おそらく、それゆえ私からすれば、これまでの哲学・思想の多くの著作物は私たち人間社会における根源的関係としての差別や排除の関係とそれをつくり出す「親分ー子分」の暴力関係を、議論の最初から不問に付すような類のそれらであったようにしか私には思われないのだ。それゆえ、私たちが呻吟してやまない人間世界の暴力関係を介した先の諸問題に対する踏み込んだ議論ができないままにある、と私はみている。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 私は一体どのような社会の実... | トップ | 私は一体どのような社会の実... »
最新の画像もっと見る

日記」カテゴリの最新記事