東北の町立考古館で質問すると、
「1回や2回来たぐらいのヒトに そんな質問には答えられないね」
「・・・」
「せめて 5回は通ってくれないとな」
司馬の『街道を行く』の最初も同じようで、
「そんなことも知らないのかい」
「それでよく物書きなんか やってられるな」
郷土史の連中の中には、意地の悪いのがいる、
「何十年の成果を 教えてなんかやるもんか」
どっちもどっちなのだが、この作家は、終に、そのコツをつかんだのだろう、
1、朝日新聞を利用
2、大学の関係と指令
3、行政機関からの圧力
4、地方のボスの協力・・・
これで、立場が逆転し、何十年の貴重な情報と成果を召し上げることが可能になる、あのシリーズ成功の秘密だろう、そうそう、あの考古館は、日本海側の都市と奥州・平泉の中間点にあったから、おそらく唐やペルシャだけではなくローマ帝国の資料もあったのではあるまいか、だが、あの津波できれいに無くなった、
「あの時 見ていれば」
複雑な、気持ちではある。
さて、松本清張の「砂の器」に出雲文化を解く貴重なヒントがあった、それは、出雲の方言が東北のズーズー弁に通じており、ここからこの国の国立大学によって封じ込められてきた真実の日本古代史がごっそりとあらわれる可能性があった。
容疑者はズーズー弁を話し、その会話の中に「カメダ」という単語、刑事は秋田県の「羽後亀田」に出かけて調査するが、まったく収穫が無い、ところがヒョンなことから、この列島にはズーズー弁を話す地域がもう一カ所、
「島根県出雲地方は 東北地方に似た方言を使用する」
出雲の神々は諏訪や武蔵野だけではなく、東日本全体に影響力を保有していたのか、大國魂神社の三之宮・氷川神社と東北の日高見神社は、どこかで繋(つな)がっているのかもしれない。
これに、あの「ツングース民族南下説」を当てはめると、東北美人と出雲美人の関連が証明されるかもしれない、人類学は東日本は縄文系で西日本は弥生系としているが,東日本、特に日本海側の色白・面長のヒトは、どう説明するのか、ヨコハマのサウナに秋田県出身の女性従業員がいた、丸顔・色黒で低身長、
「わたしのムラでは みんなこうなんです」
つまり、秋田県といっても「ばらつき}がある、色白はどれくらいか、意外と少ないかもしれない。
ちなみに司馬遼太郎の「韃靼疾風録」も同じテーマで日本海側の人々は大陸と関係が深いのではというもの、司馬は少年時代、白柳秀湖の作品を愛読しており、そこからヒントを得たのだろう。
司馬と清張、ここのところは一致している、いいところを突いている、対談していたら、きっとビックリするようなコメントが飛び出したことだろう。