The orthodox civilization is the festival politics of Japan

「安藤真の『世界文明の正統は』」の続き、祭政は人間中心を超え物質文明を越える、これを受け継いでいるのが日本の伝統と文化

The Birth of Catholic Zen 12

2015-01-01 03:16:53 | 世界経済
 
 日本には、すばらしいソフトウェアがあるのだが、それに気づいていない、そのひとつをアップルのジョブズに持っていかれた、上っ面の風潮がジャマをしている、今年は、どうなるのだろう。

         
 However.when one sees the stagnation of the present Japanese Buddhist order it seems this cannot be helped . Perhaps the people able to acquire this fine tradition and carry on with it are the Catholic monks,nuns,and priests who give their entire lives to God and discipline themselves in virtuous indigence and abstinence. Perhaps in the future people will be able to find this training method of zazen only in the Catholic order,
 「しかしながら、ニッポンの現在の仏教教団の停滞を見ると、どうにも救われない、だから、この素晴らしい伝統を継承し実行していくのは、全人生を神に奉げて、有徳の清貧と禁欲で自分たちを鍛えあげているカトリックの聖職者たちではあるまいか。
 あるいは、未来の人々は、この座禅をカトリックの教団においてのみ見るのかもしれない」

僧堂の接心で警策で打ったら、その僧侶の母親からクレーム、
 「なんてことをするんですか」
 「この子が 寺を継いでくれなかったら 私たちは寺を出ていかなけりゃあいけないんです」
 あきれてモノも言えない、このstagnationは停滞や不振の意味、orderは教団、ニッポンの仏教教団の停滞はひどいもので、仏教大学の仏教学部の入学試験にパスできない仏教寺院の跡継ぎたち、あるいは、この坐禅の修行は、カトリックの方にだけ残るのかもしれない。

       バラモンは宗教的天才
 翌朝のミサに5人の神父が参加したが、このインドの神父がダントツで、もうひとつ深いところから手足がうごいている、
 「なんと見事な所作(しょさ)であろうか」
 戦前、神田のロシア正教のミサにお茶の師匠たちが集まった、その教会の神父のお点前、おっと、ミサの動作を見学に来たのだ、すさまじい修行に耐え、何十年もの禁欲の生活を貫いた彼の動作には、なんとも言えない味があった、だから、インド人の神父の秘密は何か。

 彼のトナリに座り、本当はいけないんだが、目ん玉の黒いトコロで、それとなく観察、
 「キョロリ キョロリ」
 終に、タイヘンなことを発見しちまったんだね、坐禅には意識がある、当たり前だ、ところがである、インドから来たオトコ、それは見事な結跏趺坐(けっかふざ)、ヒンマーラヤみたいに坐っている、だが、ちょっとおかしいのだ、アタマの上の30センチぐらいのところがモヤモヤしている、
 「そうだ このオトコは意識を飛ばしているんだ」
 「だから 肉体はヌケガラでつかれない 足がしびれない」
 「いま こいつの首を切ったら コロコロのコローンだろう」    

 このことがよく分かっていたのが愛宮神父で、提唱(ていしょう)の時、
 「インド人は宗教的民族ですが なかでもバラモンは宗教的天才なのです」
 「バラモンは血族結婚で 何代何十代にわたって その宗教性を受け継いできた」
 「だから われわれヨーロッパ人が どんなにがんばってもかなわない およぶところではないのです」     

 さて、川田先生の講義の真っ最中、
 「ガタリ」
 青ゾリのアタマがドアの向こうに消えていく、次から次へ、たちまちクラスは3~4人、出席を取り終えたのでもう用はない、さっさとエスケープだ、
 「なんて失礼な連中なんだろう」
 「こんなのが 僧侶になって えらそうな顔で説教をするんだなあー」
 この間、テレビを見ていたら、そんなのが出ていた、人のことよりも自分のケツをしっかりと拭いたらいいのにね。

 川田先生は、なにごともなかったように講義を続ける、
 「だから 空海の天才よりも最澄の迷い・求道的彷徨の方が意味がある 空海の完成よりも最澄の未完成 ナミダのこぼれる求道的遍歴 そう狐疑逡巡(こぎしゅんじゅん)のほうがありがたい それによって この国の論理的整合性への畏敬の思いが育まれた だから こういう立場が必要であり もっと評価されてもいいのだと思います」
 11月の夕日が向かいの校舎を染める、
 「ああー 一高・三高の空気とは これだったのではなかろうか」
 「これこそが 近代日本の知性を育てたのだ それは あの中国や韓国に欠落しているもの」

 大学の脇の公園を雨傘を持って歩いておられた、かるく会釈すると、しみいるような微笑を浮かべられた、それは、
 「紫水晶を 香水であたためたよう」

 私は、なんと貴重な青春を過ごすことができたのだろう。