20年以上前の話だが、キリスト教の研究者(プロテスタント系)で「一人で生きていくことが罪の本質だ」と言っていた人がいた。
「一人で生きていく」とは「独りで生きていく」とも言い換えられるが、要するに孤独で独善的で自己中心性の持ち主のことを指しているのだろう。
このような意見は一見もっともらしいが、裏を返せば危険である。
キリスト教、あるいは聖書における「罪」は、一般に言われる「犯罪」や「悪」とは違い、人間の本質を深く突いた概念である。
それを直接法で伝えることは難しく、隠喩や暗示や象徴に頼らざるをえない。
罪とは「自分は善人であり、他人に非難される筋合いはない」と野放図に思い込むことである。
孤独やエゴイズムとの関係で言うと、「自分は協調性と社交性(社会性)があり、孤独なエゴイストの要素がない」と自慢することである。
我々は基本的に快楽主義者であり、不快を避け、快を求める傾向をもっている。
多くの人にとって孤独と孤立は不快であり、社交と交遊は快ないし快楽となる。
罪とは自らが快楽主義者であることを顧慮せずに、孤独を非難し社交性を賛美することである。
たしかに20年前に比べると、近年はオタクが増え、前ほどは孤独は非難されなくなったように思われる。
しかし、イジメはむしろ増えている。
そして、いじめられるのはほとんどが孤独傾向の生徒である。
つまり「独りで生きていくことが罪だ」という独善的意見の犠牲になっているのである。
それゆえ、罪とは最初に挙げた「一人で生きていくことが罪の本質だ」という考え方そのものだということになる。
今、先月起こった岩手での中学生のいじめによる自殺が話題となっているが、この生徒もこうした考え方の犠牲になった、と言えなくもない。
親鸞は「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」と主張した。
これにならって「リア充なおもて往生をとぐ、いわんやオタクおや」と言いたくなる。
親鸞の悪人正機の説は誤解を招きやすい思想である。
それは太宰治の『人間失格』が誤解を招きやすいのと似ている。
自分を野放図に善人ないし人間合格と思い込むこと、その脳天気さが罪の本質なのである。
他人を攻撃する前に自分を攻撃せよ。
少しはオタクになって内省せよ。