雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺の連続小説「江戸の辰吉旅鴉」 第四回 新三郎、辰吉の元へ

2015-02-27 | 長編小説
 辰吉(たつきち)は考えこんでしまった。三太郎先生は手紙をだしておこうと仰った。自分が三太郎先生のところに居ることが分かってしまう。そうなれば父亥之吉はまたしても信州に訪れるであろう。
   「正義感の強い父のことだ」
 おそらく自分に自訴をさせるだろう。
   「遠島か、斬首か、どちらも嫌だなぁ」
 暫く考えていた辰吉であったが、やはり熱りが覚めるまで股旅暮らしをしようと思った。ここを抜けて上方へ行き、道修町というところにある福島屋善兵衛のお店に寄り、何食わぬ顔で未だ見ぬ祖父に会って行こうと思い立った。

   「辰吉さん、辰吉さんは居ませんか?」
 三太郎の奥方、お澄が辰吉を探している。
   「辰吉さんに何かご用ですか?」
 尋ねたのは若先生の三四郎である。
   「いえね、旦那様が朝出掛けに『辰吉さんが早まったことをしないように気を付けて見守るように』と言っていたのですが、辰吉さんの姿が見えなくなったので心配しているのですよ」
   「辰吉さんなら、さっき『卯之吉さんのところへ行ってくる』と言って出掛けました」
   「場所は知っておいでなの?」
   「私が教えました」
   「旅支度をしていませんでしたか?」
   「そう言えば、そうでした」
   「あなたそれを私に、何故知らせてくれなかったの」
   「お知らせするべきでしたか?」
   「辰吉さんが早まったことをしないか、旦那様が心配なさっていたのです」
   「奥様は、何故そんな大切なことを我々に知らせてくれなかったのですか」
   「すみません」

 その頃は、辰吉はもう卯之吉の店にやってきていた。
   「いらっしゃいませ、今日は法蓮草がお買い得ですよ」
 こんな股旅姿の渡り鳥が、法蓮草など買いに来るだろうかと、店番の女に辰吉は一言いいたかった。
   「客じゃありません、卯之吉おじさんに会いに来ました」
   「うちの亭主のお知り合いですか、これは失礼を…」   
   「俺は江戸の辰吉、元の名を福島屋辰吉です」
   「これは福島屋亥之吉さんのご家族の方でしたか、お見逸れしました」
   「いえ、それで卯之吉おじさんは留守なのですか?」
   「はい、朝から野菜の仕入れに行っておりまして、まだ帰らないのですよ」
   「そうですか、では帰りましたら辰吉が会いに来たと伝えてください」
   「わかりました、それではご用のむきなど教えて頂けませんか?」
   「ただ懐かしくて寄っただけですので…」
   「それで辰吉さんはこれから何方へ?」
   「上方の祖父に会いに行きます」

 辰吉が帰って小半時(30分)ほどして、卯之吉が荷車を引いて戻ってきた。
   「えっ、辰吉が?」
 卯之吉は胸騒ぎがした。商家の若旦那が、さしたる用事もなく股旅姿で江戸から信州くんだりまで来る訳がない。何か余程の切羽詰まった用があったのだろう。
 恩ある亥之吉兄ぃの嫡男である。
   「このまま放っておいては、義理に背く」
 卯之吉は旅支度を始めた。
   「お仙、俺は辰吉を追いかけて見る」
   「お前さんごめんよ、あたいが留めなかったばっかりに…」
   「いや、いいのだ、店を頼むぜ」
   「あいよ」

 と言って出掛けてきたものの、若い辰吉の脚に追いつく自信はない。一昔の事とは言え、卯之吉とても脛に傷を持つ身、鵜沼までは行けない。夕暮れ時になると旅籠という旅籠を片っ端から覗いたものだから、ますます遅れて木曽の棧を越え、大田の渡津までは追いかけたが、卯之吉は諦めざるを得なかった。

 その頃には、辰吉は京の都は京極一家に草鞋を脱いでいた。
   「池田の亥之吉どんのご子息ですかい」
   「お控えなすって…」
   「いいから、いいから」
   「てめえ生国と発しますは…」   
   「江戸菊菱屋の政吉どんはお元気でしたかい?」
   「江戸と言いやしても、些か広うござんす」
   「そうですかい、今は菊菱屋の旦那に収まっているのでしょうね」
   「江戸は京橋銀座…」
   「もういいから、真面目に返答しておくんなせぇ」
   「俺は真面目です、ちっとは控えてくださいよ」
   「政吉どんは、あっしの弟のようなものでしてね」
   「もう、嫌だ」

 ここは皆、親分子分ではなく、親分と殆どが舎弟である。先代親分が亡くなった時に居た子分は、新しい親分の舎弟であるからだ。

 若い舎弟が、辰吉の面倒をみてくれた。
   「池田の辰吉どん、さ、さ、こちらへ」
   「俺は、江戸の辰吉です」
 親分さんが、辰吉を見て懐かしそうに言った。
   「お前さんも天秤棒を持ってなすったねぇ」
   「おれのは、天秤棒ではありません」
   「ふーん、似たような物やけど」
   「父の天秤棒を知っているのですか?」
   「知っていますとも、天秤棒を持った亥之吉どんは強かった、あんな強いのがうちの舎弟だったら、いつ殴り込みを掛けられても安心や」
   「へー、そうなのですか」
   「丁度、亥之吉どんがおいでなすった時に果たし状を持った男が来ましてな」
   「親父は逃げたのでしょ」
   「いいや、独りで相手の一家に出掛けて行って、脅して丸く納めてくれた」
   「脅してですか」
   「言い方が悪ければ、強さを見せつけてかな?」
   「あんまり変わりませんが…」
 親分は、当時を回想している様子であった。
   「辰吉どんが泊っているときに殴り込みがあったら、辰吉どんはどうする?」
   「そりゃあ、一宿一飯の恩義に報いて…」   
   「報いて?」
   「戸板に隠れて、声援します」
   「亥之吉どんと同じことを言った」
   「父子ですから」

 
 翌日の夕、辰吉は一家の親分と舎弟たちに挨拶をして、上方へ発った。伏見から三十石舟に乗って淀川を下り、翌朝淀屋橋に着いた。そこから歩いて道修町(どしょうまち)まで、少し迷ったが昼前には福島屋本店に着いた。

   「江戸から辰吉が来たと、お爺さんに伝えてください」
   「お爺さんですか?」
   「はい、善兵衛お爺さんです」
   「あ、はい、ご隠居さまですか、ちょっと待っておくなはれや」
 どうやら、使用人らしい。一旦奥に消えて、すぐに出てきた。
   「ご案内します、どうぞこちらへ」
 通されたのは奥座敷、ご隠居の寝所だった。   
   「辰吉か、よく来たなあ」
 病んでいるのか、ちょっと弱々しい声であった。
   「お爺さん、初めてお目にかかります」
   「そやなあ、亥之吉は独りで帰ってきても、辰吉を連れて帰ってはくれなかったからな」
   「親父は、急用のあるときしか上方へ来なかったので、俺を連れていては足手まといになるからです」
   「そうか、辰吉大きくなってたんやなあ、それで独りで帰ってきたんか?」
   「はい、独りです」
   「亥之吉のとこは、けったいやなあ、一人一人別々にパラパラと帰ってきよる」
   「え、誰か帰って来ているのですか?」
   「はいな、この前、三太が独りで帰ってきた」
   「本当ですか、三太兄貴に会いたい」
   「ほな、呼びに行かせましょうか?」
   「いや、俺が会いに行きます」

 嘗てチビ三太が奉公していた店、相模屋長兵衛の場所を教えて貰い、辰吉は喜び勇んで出掛けていった。
   「何や、辰吉はこの儂に会いに帰って来たのやないのかいな」
 善兵衛の長男、現福島屋の旦那圭太郎が辰吉と入れ違いに入ってきた。
   「お父っつぁん、今出て行った若いのは妹お絹の子だすか?」
   「そやねん、三太と聞いたとたんに、会いたい言うて飛び出して行きよった」

 相模屋のお店へ、辰吉は息せき切って入って行った。
   「三太兄い、お兄ちゃんいますか?」
   「何や? 三太の弟かいな」
   「そうです、会わしてください」
   「会わさないでもないが、三太に弟なんか居なかったと思うが…」
   「それが居たのです、江戸の辰吉と言います」
   「さよか、ほな今呼びますから、ちょっと待っとくなはれや」
 奥から、懐かしい声が聞こえて来た。
   「辰吉坊ちゃんが来たのですか、独りで?」
   「知りまへんがな、お兄ちゃん言うてまっせ」
 それ程も長いこと会っていなかった訳でもないのに、三太は無性に懐かしかった」
   「あ、ほんまや、辰吉坊っちゃんや」
 この店の主人、長兵衛が怪訝そうに三太に尋ねた。
   「誰や?」
   「福島屋善兵衛さんのお孫さんだすがな」
   「ほな、江戸のお絹さんの子だすか」
   「そうだす、若旦那、よくここへ訪ねてくれはりました、会いたかったのです」
   「わっ、兄ちゃんだ」
 大きな形(なり)をして、辰吉は三太に抱きついた。
   「ほんまによう来てくれはった、話したいことがおましたのや」
 辰吉が行方不明になって、三太は探しに行きたかったが、江戸十里四方所払いの刑を受けた身、持っている通行手形を見せたらそれを知られてしまい、一々詮索されて自由に動きがとれないのである。

 今夜は、三太が福島屋へ行き、ゆっくりと話しをするつもりである。
   「新さん、辰吉に憑いて、辰吉が早まったことをしないか見張っていてくれませんか」
 三太は守護霊の新三郎にお願いをした。むしろ、これからは辰吉を護ってやって欲しいのだ。
   『よし、分かった、任せてくだせぇ』
 辰吉は、今夜三太と話が出来ると、晴れ晴れとした笑顔で福島屋に帰って行った。

  第四回 新三郎、辰吉の元へ(終) -次回に続く- (原稿用紙13枚相当)

「江戸の辰吉旅鴉」リンク
「第一回 坊っちゃん鴉」
「第二回 小諸馬子唄」
「第三回 父の尻拭い?」
「第四回 新三郎、辰吉の元へ」
「第五回 辰吉、北陸街道を行く」
「第六回 辰吉危うし」
「第七回 一宿一飯の義理」
「第八回 鳥追いの小万」
「第九回 辰吉大親分」
「第十回 越後獅子」
「第十一回 加賀のお俊」
「第十二回 辰吉に憑いた怨霊」
「第十三回 天秤棒の再会」
「第十四回 三太辰吉殴り込み」
「第十五回 ちゃっかり三太」
「第十六回 辰吉の妖術」
「第十七回 越中屋鹿衛門」
「第十八回 浪速へ帰ろう」
「第十九回 鷹塾の三吉先生」
「第二十回 師弟揃い踏み ...」
「第二十一回 上方の再会」
「第二十二回 幽霊の出る古店舗」
「第二十三回 よっ、後家殺し」
「第二十四回 見えてきた犯人像」
「第二十五回 足を洗った関の弥太八」
「第二十六回 辰吉、戻り旅」
「第二十七回 辰吉、旅のおわり」
「最終回 成仏」

猫爺の短編小説「高倉文太」 高校生編 (原稿用紙計50枚)

2015-02-25 | 短編小説
 蕾がめいっぱい膨らんだ桜の木の下を、文太と梨奈(りな)が黙って歩いていた。梨奈ときたら未だに小学生の時の習慣で文太のことを「お兄ちゃん」と呼ぶものだから、知らない人は完全に兄妹(けいまい)だと思っている。小学生時代は梨奈の方が高かった背丈が、今では文太の肩ほどしかない。 中学一年生の頃までは、クラスの中で一番小さくて「チビ」と呼ばれた文太だったが、すっかり追いついて、もう誰もそんな呼び方をするものは居なくなっていた。 

   「梨奈は高校を卒業したら、進路は決めているの?」 文太が口火を切った。
   「今日入学して、もう卒業後の話」
   「俺たちは立ち止まることは許されないし、ニートとか親の脛をかじるという選択肢はないだろ」
   「それって、選択肢じゃないでしょ」
   「まあ、そうだけど」
   「そうねぇ、18才になったら施設には居られないから、まず如何に生きて行くかよね」
   「それなりの理由があれば、20才までは置いてくれるそうだが、居辛いよな」

 梨奈は深刻そうなことを言う割には、文太と同じ学校に入れたことが嬉しくて浮き浮きしていた。二人が入学したのは、公立高校の普通科である。 

   「お兄ちゃんは、医者になると言っていたわね、東大の理3を受けるの?」
   「特待か、奨学金の給付が受けられる大学であればどこでもいい」
   「お兄ちゃんなら、東大も確実だと思うけどな」
   「俺は、研究者ではなく臨床外科医になるのだ」
 文太は独り言のように呟いて、梨奈の方に向き直り、優しい口調で言った。
   「梨奈は、まだ考えていないの?」
   「働きながら定時制の看護師学校に行くつもりだったけど、自分独りの力では無理だと思ったの。それに…」
   「それに何?」
   「動機が不純だし」
   「不純って?」
   「お兄ちゃんと一緒に働きたいなんて」
   「別に不純じゃないよ」

 梨奈は、告白のつもりだったが、文太はサラリと受け流した。梨奈はがっかりしたが、
   「二人は双子の姉弟なのだ」と、諦めた。
 文太のことを「お兄ちゃん]と呼んでいるが、本当は梨奈の方が半年ばかり早く生まれているのだ。

 夏休みが近付いたある日、梨奈がクラスメイトの彩恵里(さえり)を連れてきた。彩恵里は数学の授業が難しくて分からないという。文太も数学教師の教え方があまりにも下手くそだと常々思っていた。自分の教え方のまずさを棚に上げ、分からない生徒を阿呆呼ばわりする。これでは数学が嫌いになる生徒を増やしてしまう。文太は、自分が教えてやることにした。

 放課後、教室に残って一つ一つ丁寧に教えると、すぐに覚える。
   「それみろ!」
 文太は心の中で数学教師に言った。
   「阿呆はお前だよ」 
 それから暫くは復習と称して放課後に勉強を見てやったが、それを担任の教師にチクった奴がいたらしく、二人は担任に注意されてしまった。
   「家でやれ!」
 どうやら、文太に「下心あり」と痛くもない腹を探られたようだった。 それなら、私の家に来てほしいと彩恵里に頼まれ、一旦は断ったが、「どうしても」 と、言われ、「夏休みまで」と約束したうえ承知した。この時、文太の胸によからぬ予感が過ぎった。

 予感は当たった。彩恵里の母親に「家に押しかけるなんて非常識」と、追い返されたのだ。  ここでも「孤児!」と、冷ややかな嘲笑を浴びせられた。
 文太は何も反論せずに、黙って引き揚げた。玄関に背を向けたとき、彩恵里の泣き叫ぶ声が聞こえた。文太は自分の軽率さを反省しながら、帰途についた。 

 翌朝、彩恵里が走り寄ってきて「昨日はごめん」と、言った。
 文太は「いいよ」 と、流したが、彩恵里は申し訳なさそうに「本当にごめん」と、何度も頭を下げた。 

 夏休みに入ると、文太は施設の許可を取りアルバイトを始めた。某有名運送店の荷物の仕分けだが、単純作業で、自給750円と文太にとっては悪くない。中学を卒業した時点で、新聞配達がしたかったのだが、まだ原付の免許が取れる年齢ではなく、新聞販売店に尋ねてみたが、自転車または徒歩で配達できる区域は人気があって配達員の空きが無かった。文太にとってアルバイトは、何かを買いたいのではなく高校卒業後の生活資金として貯金するためである。

 バイトの帰り道、彩恵里(さえり)が待っていた。相談したいので喫茶店に入ろうと誘われた。文太は生まれて此の方、喫茶店に入ったことはない。丁重に断って、相談は学校が始まったら教室で聞こうと説得した。だが、勉強のことなら断ろうと思っている。親が拒絶していることを、無理に押し切るほどのものではない。彩恵里を恨んだりはしていないが、「俺がなんとかしてやろう」なんて、熱血心めいたものは失せている。彩恵里は裕福な家庭のお嬢さんだ。家庭教師を頼めば済むことじゃないか。文太はそう自分に言い聞かせた。

 夏休みが終わったが、彩恵里は文太の基へ相談に来なかった。教室で隣あっても、態度がよそよそしくツンとしていた。そればかりか、文太にこれ見よがしに他の男子生徒と仲良くして見せた。文太は「こいつ、何か勘違いをしているな」と思った。

 文太は彩恵里のことを好きでも恋をしている訳でもない。ただクラスメイトとして見ていただけだ。恋の駆け引きごっこなど、「笑止千万だ」と文太は苦笑した。
 梨奈もまた、文太のことを避けているようだ。考えるに、俺の草食男子的振る舞いが彼女達に取って気に入らないらしい。どうやら彩恵里が噂の源らしく、男子生徒の間では、「文太はゲイだ」と、真しやかに囁かれていた。
   「ゲイ、上等じゃねぇか」
 文太は、肯定も否定もしなかった。文太はもっと勉強もアルバイトもしたい。今は煩わしい恋愛沙汰よりも、時間が欲しいのだ。 

 放課後、文太が教室の掃除をしていたら、今まで話もしたことが無い隣のクラスの橋元翔平が声をかけて来た。
   「今日、一緒に帰りませんか?」
   「えっ、なになに、どうしたのだい?」 
 今まで一度も話をしていない生徒だったので、文太は訝しく思えた。
   「ちょっと、訊きたいことがあります」
 翔平は丁寧な言葉遣いで言った。
   「よし、わかった、掃除が終わるまで廊下で待っていてくれ」
   「うん」

 暫くはふたり肩を並べて黙って歩いていたが、思い切ったように、翔平が口を開いた。

   「クラスメイトが高倉君のことをゲイだと言っていました」
   「そうかい」 
 文太は興味なさげに言った。
   「本当ですか?」
   「えっ、いやそれは…」
 文太は言葉を濁したが、それが面倒な事になるとは気付かなかった。 
   「では、ボクと付き合ってください」
 文太の手を取って無理矢理に握手をした翔平は、目を輝かせて今きた道の方へ走り去った。残された文太は、走り去る彼の後姿を見ながら思った。
   「また厄介なことにならなければよいが…」

 次の日、学校の廊下で文太に翔平が声をかけて来た。

   「高倉さん、携帯の番号を教えて下さい」
   「俺は、携帯を持っていないのだ」
   「親が持たせてくれないのですか?」
   「いや、そうじゃない。俺は親も兄弟もいない孤児なのだ」
 児童養護施設で育てられたことも話した。
   「そうすか。施設では携帯を持たせて貰えないのですね」
   「うん」
   「では、ボクの親にもう一台買わせて、高倉さんに持って貰いましょう」
   「だめだ、そんなことしたらすぐにばれて、俺は詐取で警察に訴えられるよ」
   「いいっすよ。親は忙しくて、ボクのことなんか構っていないから」
   「俺は携帯なんか要らない。絶対にそんなことするなよ、俺は今少年院には入りたくない」
 少年院でも勉強はできるとしても、アルバイトが出来ないからだ。 
   「もし、携帯なんか持ってきたら、俺は君とは口を利かないからな」

 数日後、翔平は他の生徒に頼んで、文太の基へ携帯を届けた。文太は腹を立てていた。隣の教室へ行き、人前で翔平に携帯を返えした。
   「あれだけだめだと言ったのに、何故こんなことをする!」
 文太は声を荒立てた。
   「君とはもう口を利かない」
 聞いていたクラスメイトは、異様な雰囲気を感じたに違いない。翔平は悔し涙をひとつぶ零した。

 翌日、翔平の父親が職員室に怒鳴り込んで来た。高倉文太という生徒が、わしの息子から金を巻き上げた上に携帯電話まで買わせたと喚いた。
   「高倉文太を出せ!」
 えらい剣幕である。男の担任教師は、文太を教室へ連れに来た。担任から話を聞いた文太はきっぱり否定した。
   「そんなことはしていません」
 翔平の父親の目を見据えて言った。父親は文太に殴りかかろうとしたが、担任が中に入り止めた。
   「何かの間違いでしょう、高倉はそんな子ではありませんよ」
   「現に息子が泣いて打ち明けている」 
 これは翔平の復讐らしいなと、文太は思った。担任は、「それでは、こうしましょう」と言った。
   「翔平君にも来て貰いましょう」
 職員室を出て行こうとする担任に、翔太の父は声を掛けた。 
   「今日は学校をやすんでいる筈だ」 
   「念の為に見て来ましょう」
 担任は職員室を出て行った。翔平の父親は、憤懣やるかたない面もちではあったが、文太の毅然とした態度に圧倒されたのか、黙って担任を待った。文太は、担任の言葉が嬉しかった。今まで、学校の先生が自分を信じてくれたことはなかったからだ。

   「翔平君は来ていませんが、クラスの子供達が来てくれました」
 翔太の父親は、担任が他の生徒を連れてきたのが腑に落ちなかった。 
   「何の為に?」
   「昨日、高倉が携帯を返したときの事を証言するためです」
 三人の生徒が頷いた。
   「高倉君が、あれだけだめだと言ったのに、何故こんなことをすると怒って翔平君に携帯を返していました」
   「高倉君は、もう君とは口を利かないとも言っていました」
 別の生徒も証言した。
   「お父さん、常日頃お金を巻き上げていた生徒が、口を利かないなんて言いますかね」
   「息子が金を出すのを断ったからだろう」
   「それでは、すぐに知れてしまう携帯電話を買わせるなんてことをするでしょうか」
   「なんでも良いから、警察を呼んでくれ、話はそれからだ」
   「高倉君の将来がかかっています」
 なんとか穏便にという担任を制して、文太が口を開いた。 
   「先生、僕は構いません。呼んで下さい」
   「しかし…」
 近くのビジネスフォンの受話器を取り、文太が110番に掛けて担任に受話器を渡した。 

 派出所の警察官が自転車で駆け付けてきた。文太は警官に財布を見せなさいと言われ、差し出した。中を調べていたが、財布の中にはポチ袋くらいの小さな封筒が入っているだけだった。
   「これは?」
 お巡りさんが訊いた。
   「多分、お金だと思います」
   「多分って?」
   「まだ開けたことがないからです」
   「どうして手に入れたのかな?」
   「小学生の時、お巡りさんにいただいたものです」
 文太は経緯を説明した。財布を拾って届けたが、6ヶ月以上が経っても落とし主が現れなかった。文太は権利放棄をしていたので、お巡りさんがポケットマネーから出してくれたのだ。
   「ご褒美と言って下さったものです」
   「中を見てもいいですか?」
   「どうぞ」
 お巡りさんは鋏を借りて封をきった。中から、1000円札と、二つに折った名刺が出てきた。疑われては可哀想と、当時のお巡りさんが気を使ってくれたものだ。
   「あれっ、この人は私の先輩だ」
 警察官はそう言い、電話を掛けてくれた。先輩警官は、「可哀想に、文太君また疑がわれているのか」と、笑いながらこうも言ったそうだ。
   「彼は、何が有っても恐喝なんかしないよ」
 文太は心の中で感謝した。
   「やっぱりあの人はお父さんだ」

 2年生になった文太は、生徒会長に選ばれた。選ばれたというよりも、少しの時間でも受験勉強に励みたい生徒たちに押し付けられた感があった。文太は生徒会長が為すべきことを真面目に果たした。アルバイトも受験勉強にも、粉骨砕身の努力をした。
 二年生の担任も、東大合格を保障してくれた。いや、文太にとって、大学に合格するだけではだめである。特待生か奨学金の給付が必須である。その為には、もう余計なことに構ってはいられないのだ。梨奈とも、施設で挨拶をする位なもので、じっくり話し合うことはなかった。一時は、お嫁にしたいと思った彼女だったが、姉弟で貫こうと思う文太であった。 

 最近、梨奈と付き合っている男がいると知ったときも、文太は寂しさを堪えて梨奈に言った。
   「しっかり繋ぎとめろよ」 
 それは、兄貴としての励ましの言葉だった。 

 3年生の文太は、何者も近寄りがたい鬼気さえ漂う努力の人であった。その努力の甲斐あって東大理科3類に合格した
   「さあ、これからが本当の苦労が始まるのだぞ!」
 両手で自分の頬を叩いた。

 梨奈は、採用されて2年目の警察官と婚約した。警察官と聞いて、文太はあのお父さんのような巡査部長のことを思い浮かべた。梨奈の結婚式には、何を置いても出席するぞと、心に決めていたが、梨奈からの招待状は来なかった。 

   ―終―  (原稿用紙18枚)

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猫爺の短編小説「高倉文太」 中学生編

2015-02-24 | 短編小説
 彼の名は「高倉文太」、乳児院の女院長が高倉健と菅原文太のファンだったことから、二人の有名俳優の名前を半分ずつとって付けたのだ。こう書けば、文太が棄児であったことが分かるだろう。
 生まれて間もない赤子が、駅のトイレにタオルに包れて捨てられているのを、用足しにきた中年の女性に見付けられた。救急車で大学病院の新生児科に運びこまれ、危うく命を取り留めたのが13年前である。元気になった彼は乳児院に移され、さらに児童養護施設で育てられ、今年は中学校に入学した。

 孤児であることを理由に、虐めを受けるのは慣れっこになっていたが、中学生になると覚えのない盗みの濡れ衣を着せられるようになった。特に校長の差別は酷かった。学校内で物が無くなったと聞けば、真っ先に文太を呼びつける。
   「盗んでいない」
 文太が突っぱねると、余計に意地になって「白状しろ」と迫る。そんな時、文太は「警察を呼んで調べて貰って下さい」という。学校の名誉を護る為か、証拠がない所為か、校長は「往生際の悪い奴だ」と、ブツブツ文句言いながら引き下がる。

 ところが、そうは言っていられない事態が起きた。同じクラスの女子生徒が、財布を盗まれて騒ぎになったのだ。しかも、その財布が、文太の机の中から見つかったというのだ。昼休み、弁当を食べ終わった時、放送室のアンプの調子が悪いと放送部員が機械ものに強い文太に助けを求めてきた。
 行ってみると、誰かが接続コードをいじったらしく、間違えて接続されていた。正規に戻してやって教室に戻ると、その騒ぎが起こっていたのだ。
   「俺は知らんよ」
 弁当を食べたあとは放送室へ行っていて、他人の財布を盗む機会は無かったと弁明しても、誰も聞き入れず、校長に告げ口されて文太が呼ばれた。
 文太が校長室に入ると、校長はニタッと笑みを浮かべた。
   「今度は証拠が挙がったな」と意地悪げに言った。
 放送部員の生徒が来て、「弁当を食べた後は、ずっと一緒でした」と証言したが、校長は、
   「盗んだのが昼休みの時間内とは言えん」と、突っぱねた。

 他の生徒であれば、穏便に治めたであろう校長の判断で、文太は警察に突き出されることになった。

 文太は取調室ではなく、警察の接客用のソファーに座らされて司法警察官に事情を聴かれた。日頃、万引きの噂をされていることも含めて何もかも話すと、警察官は文太を待たせてその場を一旦外したが、暫くして戻ってきた。
   「君には万引きも盗みの補導歴も無いな」と言った。
   「そんなことは一度足りともしていませんから」と、文太は少々膨れっ面で言い返した。 
 電話で施設の責任者と、中学校の校長が警察に呼ばれた。施設の責任者は、ろくに説明も聞かずに、ただ「申し訳ありません」と謝るばかり、校長は「証拠も有りますし」と、寧ろ「早く処分してくれ」と言わんばかりであった。
 警察官は「ムッ」とした顔をして、校長に向かって言った。
   「どれが証拠ですか?」
   「この子の机から盗まれた財布が見つかったことだし」
   「それが証拠になりますか? 誰か他の生徒が盗み、文太君の机に放り込んだとは考えられませんか?」
   「その可能性はありますが、うちの生徒に他人を陥れようとする子はいませんよ」
   「そうでしょうか?}
 警官が校長の目を見据えて言った。
   「実は、文太君の小学時代のことをよく知っている巡査長がいましたね」 
 巡査長は、文太のことを正直者で、小銭を拾ってもわざわざ交番まで届けに来ていたと話していたそうである。
   「万引きなんて、とんでもない、彼はしませんよ」とも言っていたそうである。
 現に補導歴を照会してみたが皆無だったことも話した。
   「分かるものですか、この子は要領の良い子ですから」と、校長。
   「そうですか。それでは警察は文太君をどうすれば校長先生はご満足ですか?」
   「それはそちらでお決めください」
   「そうですか。警察も、現行犯でもない文太君を、少年院に送りたくはないですが、家庭裁判所に送致の手続きを取りましょう」と、警察官は言った。
 校長は満足げに頭を下げた。児童養護施設の責任者まで終始異論を唱えることなく容認している様子だった。 
   「この人も、俺の味方ではないな」と文太は思った。

 警察は、あまりにも軽微な犯罪であり、しかも現行犯でもないとして、簡易送致を家庭裁判所に送った。文太は施設に戻され、今まで通り通学していた。
 ある日、下校中の文太に、同じクラスの板倉悠斗が近寄ってきて、こっそり打ち明けた。
   「俺、見たのだ。坂崎が財布を盗むところを…」
   「あの、俺の机に入っていた財布か?」
 そうだと悠斗が言った。しかも、文太の机に放り込むところも見たそうである。しかし、坂崎は金持ちの息子で、金魚の糞みたいな仲間が多く居るうえ、暴力団組員の若い衆が付いて居るそうで、目撃したことを口に出せなかったそうある。
   「わかった、打ち明けてくれて有難う、でもこのことは誰にも言うな」
 文太は悠斗に口止めした。
   「言えばお前が虐めを受ける、俺は大丈夫だ、少年院に入れば、少年院で勉強するまでだ」
 自分は両親も兄弟も居ない孤児だ。自分がどうなろうと、肩身が狭いと嘆く者は居ない。
   「気にするな」
 文太は悠斗の肩を叩いた。

 文太の家裁での審議はなく、審判不開始となった。もともと、家裁への簡易送致の場合は、審判不開始となるもので、少年院送りはまず無い。文太も何事も無かった様に勉学に勤しんでいる。
 文太は努力の甲斐か、顔も見たことがない両親のどちらかのDNAの賜物か、成績が飛びぬけて良く、学年成績は常にトップであった。
 顔立ちは男前というよりも童顔の方で、見た目は頼りなげではあるが虐めと差別に耐えてきた芯の強い小さな苦労人である。背は低く、同学年の男子生徒に囲まれると、小学生かと思われる程であった。相も変らぬ校長の孤児への差別と、虐めグループの嫌がらせをのらりくらりと交わしながら、それでも徐々に級友の信頼を得るようになってきた。 


 文太は、中学二年生になっていた。新しい担任教師に文太の実行力が買われて、生徒会長に推薦された。生徒による選挙でも文太が勝利したが、校長の猛烈な反対を受け辞退せざるを得なくなったが、文太にとってはそんなことはどうでも良かった。それよりも、最近気になることがあった。盗みの目撃を打ち明けてくれた悠斗の元気がないことである。二年生になって悠斗とは別のクラスになったが、廊下で悠斗が坂崎に押し倒されているところを見た。どうやら虐めを受けているらしい。文太は下校時、校門で悠斗を待って一緒に帰ろうと誘った。 
   「悠斗、お前何か思いつめてないか?」
   「いいや、何も」
   「そうか、それならいいのだが…」
 文太は悠斗の横顔に目を遣った。
   「両親を泣かせるようなことは絶対するなよ」
 文太は「自殺するなよ」言いたかったが、悠斗が動揺するのを恐れてその言葉を押し殺した。
   「悩みがあったら、俺に話してくれ」
 一年のときの財布盗難事件で、文太の無罪を知る唯一の人間だ。お互いをよく知り得ていないので親友とは言い難いが、文太は悠斗に自分の気持ちを伝えた。
   「迷惑かも知れないが、俺は悠斗を友達だと思っている」
 悠斗は黙って下を向いていたが、「うん」と、呻くように答えた。
 文太は続けて、
   「 死んだら楽になるってよく慣用的にいうだろ、あれは嘘だ」
 死ねば苦しみは無くなるが、楽でもなくなる。言うなればオール・オア・ナッシングだと文太は言いたかったのだ。

 二人が肩を並べて話しながら歩いていると、いきなり坂崎のグループに囲まれた。文太は思った。「案の定だ」坂崎は子分たちと言っていいだろう仲間に命じて、二人を人通りのない路地に引き入れた。 
   「金は持ってきたか?」
 坂崎が悠斗の胸倉を捉まえて言った。
   「俺の貯金は全部下ろしちゃってもう無いのだ。許してくれ」
   「それなら、親の金をくすねて来い」
   「出来ないよ」
悠斗は、ベソをかいている。
   「やめろ!親の金といえども盗めば犯罪じゃないか」 
 文太は悠斗と坂崎の間に割って入った。
   「悠斗を放せ!」
大声をだして文太は虚勢を張った。
   「おっ、このチビ生意気だな」
組員らしい男が言った。文太もここ一年で急激に背が伸びたが、まだ坂崎たちには及ばなかった。
   「ここは俺たちで片を付けます、賢さんは見ていてください」
 坂崎は捉まえていた悠斗を放すと、いきなり文太に殴りかかってきた。文太は顔面にパンチを受け鼻血を出したが、怯まず坂崎を睨みつけながら悠斗に逃げろと顎で合図をした。文太はこの後、殴られ、投げ飛ばされ、足蹴にされたが、抵抗せずに耐えていた。 
   「賢さん、あなたはどこの組の人ですか?」
 倒れたままの文太が、賢と呼ばれた男に問いかけたが、男は答えなかった。
   「この近くの組なら、松本組でしょう」 
 文太が言って男を睨みつけると、男はほんの少しばかり動揺している様子だった。 


 翌日の放課後、悠斗を家まで送り一旦施設に戻った文太は、施設の職員に外出の許可を得た。
   「松本組の事務所へ行ってきます」 
 もしものことを考えて告げたのである。
   「何の用があって…」
 不審がる職員を尻目に飛び出していった。松本組の事務所の前はよく通るし、黒いスーツの男が大勢出入りするところも幾度か目撃している。事務所は間口の狭い五階建てのビルの一階である。入り口は全開で、男が三人立っていた。
 文太はクリクリ頭をピョコンとさげると、
   「ここに、賢さんというお兄さんがいますか?」と、尋ねてみた。 
   「おう、賢の知り合いか?」
   「はい、ちょっと… 親分にお願いがあって来ました」
 男は、文太の体を舐めるように見て、刃物など持っていないのを確認した。
   「中へ入って待っていろ」
 言い残して男は階段を昇っていった。文太はその間事務所内を見回していたが、考えていたのと様子が違って、ただのオフィスだった。組の事務所といえば、入り口正面に神棚があり、神棚の両端に榊差しがあり、天上からズラッと提灯ぶら下がっている「ごくせん」の大江戸組を想像していたからだ。
 しばらくして、親分らしき男が下りてきた。
   「儂に逢いたいというのはこの兄ちゃんか?」 
 一緒に下りてきた男に尋ねた。
   「へえ、何でも賢の事で親分にお願いがあるとかで」
   「ほお、兄ちゃんどんなことだ、言ってみな」
   「僕は高倉文太と言います、賢さんに中学生を虐めるのを止めるように言って下さい」
   「賢が中学生をいじめているのか? かっこ悪い奴だな」
 親分は男に賢を呼びに行かせ、ソファーにどっかと座ると、文太にここへ来て座れとソファーを指さした。賢が下りてきた。
   「親分、何か?」
 言いかけて文太を見て足を止めた。
   「賢、お前中学生を虐めているのか?」
   「いえ、ただ虐めグループのガキに頼まれて、付き合ってやっているだけです」
   「そいつら、カツアゲもしているのか?」
   「まあ、それらしい事をやっているようです」
   「おまえ、こんなことが他の組に知れたら、儂は恥ずかしくて表を歩けないぞ」
   「へえ、すみません」
   「賢の小指を詰めるから許してやってくれ」
 親分は文太に言った。
   「やめて下さい、そんなこと」
 俺は素人でしかも子供じゃないか、掟かなんだか知らないけれど、俺の所為で賢さんが指を切られることになったら、俺も傷つく。もし、どうしてもというなら、俺の指も切り落としてくれ。文太は恐いというよりも腹が立って、つい捲し立ててしまった。
 親分は笑いながら言った。
   「 嘘だ、嘘だ、そんなことはしない、まして、中学生の指を詰める訳がないだろ」
   「いくら子供相手だからと言って、そんな酷い嘘をつかないで下さい」
   「賢、聞いたか、この兄ちゃん、賢の事を必死で庇っているじゃないか」
 賢も親分の言葉に騙されていた。一瞬、賢の顔が蒼白になったのが何よりの証拠である。
   「賢、お前のするべきことは判っているな」
   「はい、グループの奴らに、虐めを止めさせます」
   「それから、この度胸が据わった兄ちゃんたちを見守ってやってくれ」
   「へえ、わかりやした」
   「どうや、兄ちゃん、恐かったか?」
 親分が文太に言った。
   「恐かったです。でも、友達は虐めを受けて自殺もしかねない程悩んでいます」
 文太は、早く悠斗に知らせたかった。賢さんが、俺たちを護ってくれるぞと。

 悠斗の家のチャイムを鳴らすと、悠斗が玄関に出てきた。
   「悠斗、おれ賢さんの事務所へ行って来た」
   「松本組の?」
   「うん、賢さんが坂崎たちの虐めを止めさせてくれるそうだ、決して軽はずみなことはするなよ」
 そこへ、悠斗の母親が出てきて、悠斗に言った。
   「施設の子でしょ、帰って貰いなさい」
 悠斗の腕を引っ張って中に入れると、バタンと玄関ドア閉じ、カチャと鍵をかけた。
   「あの子は碌な大人にならないから、口をきいてはいけないとあれ程いったでしょ」
 母親の聞えよがしの声がした。文太はこうなることは判っていながら、つい早く悠斗に知らせたいばかり、勇み足をしてしまったことを後悔していた。

 その日から、悠斗と一緒に歩くことも、話すことも無くなった。ただ、学校でふたり目が合うと、お互いにニッと笑うだけだった。悠斗も悪びれていないし、もう悩みもしていないようだった。文太も玄関払いの仕打ちを根に持ってはいない。


 三学期の文太は、勉強に追われていた。
   「よし、俺は碌な大人になってやる」
 心に決めて、暇があれば一心不乱に勉強に打ち込んだ。この頃には、文太の背丈も急激に伸びて、チビとは言われなくなっていた。骨が伸びるスピードに、筋肉の成長が追い付かず、朝目覚めた時など身体の節々が痛むことがある。文太の場合、ちょっと遅い成長期だった。  

   「おい、文太」
 街を歩いていると、後で悠斗の声がした。振り向くと、悠斗が彼女を連れて歩いていた。なんだか悠斗が堂々としていて、むしろ文太が恥ずかしげであった。
   「悠斗、彼女か?」
 悠斗は首を縦に二度振った。彼女の方は、知らんふりだった。
   「やるな、お前も」
 悠斗は、「あははは」と笑って、「またな」と肩越しに手を振ってショッピングモールの中へ消えて行った。

   -続く-  (原稿用紙19枚)

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猫爺の短編小説「高倉文太」 小学生編

2015-02-24 | 短編小説

 住宅街にある交番の前に、5~6才の男の子が立っていた。目がクリッとしていて、如何にも賢明そうな顔立ちである。パトロールから戻ってきたお巡りさんに走り寄って、大切そうに固く握り締めていた手を開いて見せた。
   「お金拾いました」
 はきはきとした言葉で告げると、汗でぐっしょり濡れた10円玉を差し出した。公園で遊んでいて見つけたという。警察官は優しい笑顔で10円玉を受け取ると、
   「ありがとうね」
 と、男の子の頭を撫でて、
   「今、受取書を書くからちょっと待っていてよ」 
 文太を椅子に座らせると、奥の部屋に入っていった。

   「ボクの名前教えてくれる?」 
 それを皮きりに、書類の作成が始まった。
   「高倉文太、6才です」
   「お父さんの名前は言えるかな?」
   「居ません。お母さんも居ません。ボク捨て子です」 
 文太は「わかりません」ではなく、はっきりと「居ません」と躊躇せずに言った。
   「お家はどこ?」
   「朱鷺の里愛育園です」
   「児童養護施設だね」 

 警察官は「もしや?」と、6年前の「赤ん坊遺棄事件」を思い浮かべた。場所はこの地からさほど遠くないJR駅のトイレに遺棄された、生まれて間もない男の赤ん坊が見つかったのだ。赤ん坊は未熟児で、すでに鳴き声も上げられない程衰弱していたが、直ちに大学病院に搬送され、奇跡的に命が救われた。
 数ヵ月後、彼は乳児院に移され、そして児童養護施設で小学校の入学を迎えた。

 文太に用意されたランドセルは、もう何代目なのだろうか、所々が擦り切れた黒くて大きなものだった。それでも文太は大喜びで、入学式の前日まで背負う練習をして、昨夜は枕元へ置いて遅くまで眠らずに、蒲団から顔を出して眺めていた。

 翌朝、施設の職員に連れられて文太は喜び勇んで学校へ向かったが、施設にもう一人新小学一年生が居た。泣き虫の女の子梨奈(りな)である。梨奈は学校へ行きたくないとグズっていたが、文太と職員に手を引かれて、ベソをかきながらの登校であった。 

   「梨奈、お兄ちゃんが付いて居るからな」
 妹に言うように偉そうに励ましていたが、実は文太の方が半年ほど年下である。

 少しずつ学校に慣れてきたようで、1ヶ月は機嫌よく学校に通っていた梨奈が、突然「学校に行きたくない」と、再びぐずるようになってしまった。
 文太が訳をきいてやると、どうやら虐めに遭っているようすだった。「施設の子は汚い」と雑巾で顔を拭かれたり、「親なしっ子」と蔑まれたり、「ゴミ」と称して梨奈の持ち物を屑入れに捨てられたりしたそうである。
 文太は虐めっこのリーダーの名を訊き出し、談判に行ったが、それが基で文太自身も虐めを受ける羽目になった。

 リーダーの名は木藤明菜、明菜は兄である五年生の拓真と、その悪仲間に告げ口をした為、文太は彼らに学校の倉庫に連れ込まれ「生意気だ」と、取り囲まれた。
 殴るの、蹴るのとボコボコにされた挙句、文太は倉庫の中へ置き去りにされた。それを震えながら見ていた梨奈が担任の教師に告げたが、「倉庫は鍵が掛かっているから、そんな訳がない」と、取り合わなかった。教師はあまりにも執こく梨奈が泣きながら訴えるので仕方なく倉庫へ行ってみること、鍵は何時からか壊されたままになっている。扉を開けてみると、文太が鼻血を流して倒れていた。 

   「文太君は、上級生と喧嘩をしたようです」
 学校から連絡を受けてやってきた施設の職員に、文太の担任はそう告げた。 
   「お手数をおかけしました」
 職員は理由も質さず、ただ頭を下げるだけであった。 
   「喧嘩じゃないやい」
 文太は心の中で叫んだが、決して口に出さなかった。事実を訴えても、言い訳と取られるだけであることを体得している文太であった。また、暴行を受けても、手出しをすれば必ず文太が悪いとされることも解かっていた。それは、健気(けなげ)で悲しい本能のようであったのだ。

 悲しいとき、辛い時、文太には話を聞いてくれる人がいた。先生でも施設の職員でもない。交番のお巡りさんである。お巡りさんは忙しい時間を割いて、文太の悩みを聞いてくれた。文太は思った。
   「お父さんって、こんな感じなのかな」 
 だが、 虐められていることは口に出さなかった。文太なりの自尊心があったからだ。

 お巡りさんは、
   「話しを聞いて欲しい時はいつでもおいで」 と、優しく言ってくれた。
 文太は相も変わらず、小銭を拾ったら交番に届けていた。その文太が、バス停のベンチに忘れられた布の下げ袋を見付けて届けたことがあった。袋の中には財布も入っているとのことだったが、文太は、「お礼も、半年以上落とし主が現れないときも、何もいらない」と答え、権利放棄という手続きをとってもらった。
 それよりも、文太は財布を持たずに買い物に出かけた人のことが「困っているだろう」と、気がかりであつた。お巡りさんにそのことをつげると、「君は優しい子だね」 と、文太の頭を撫でた。

 上級生にボコボコにされた翌日、文太は何事ともなかったように登校していた。梨奈を虐めたグループの子供達に、「梨奈を虐めたら俺が許さない」と、凄んでみせた。自分に暴力を振るった上級生たちには、
   「俺に何をしようが構わないし、誰にもチクらない、だが梨奈に手を出したら俺は何をするかわからない」 
 文太は釘を刺したつもりだったが、またしても「生意気なやつ」と、殴られた。文太は唇を切り、血を流したが拭おうともせず、教室に戻った。文太の脅しが多少効いているのか、梨奈への虐めは少なくなったが、文太への暴力は、相変わらず続いた。だが、文太は頑なに耐え忍んだ。 
   「また喧嘩をしたな」 と、担任が文太を叱った。
 文太はそれを無視したが、担任もまた血を流している文太を無視した。

 文太が3年生になったとき、交番のお巡りさんが交代した。巡査部長に昇格し、警察署へ戻ったのだ。文太は、ちょっと悲しかった。文太を虐めていた上級生が中学校に進んだこともあって文太への暴力は無くなったが、身に覚えのない陰口を叩かれるようになった。文太が万引きをしているというものである。生徒の父兄たちは、「あんな不良とは遊ぶな」と我が子に言い聞かせているらしく、クラスメイトは完全に文太を避けている。中には、ハッキリと「お前と遊んだらパパに叱られる」と、口にする者もいる。 
   「俺が何をしたって言うのだ」
 文太の憤懣が、時にはバクハツしそうになることもあるが、ぐっと耐え忍んでいる。文太8才、まだまだ幼い彼の何処に強靭な忍耐力が宿っているのであろうか。

 文太が5年生になって間もないある日、中学生のグループに取り囲まれ、公園に連れて行かれた。グループのメンバーは変わっていたが、リーダーは木藤拓真であった。 
   「こらぁ、人間のクズ!」
 罵られて文太はいきなり押し倒された。 文太は最近起きたホームレス襲撃事件を思い出した。やはりクズ野郎と叫び、ホームレスの老人を川へ突き落とし殺害してしまったのだ。ああいうことをするのは、こいつ等のような馬鹿野郎に違いないと文太は思った。立ち上がった文太の顔面にめがけて拓真の拳が迫った時、文太は反射的に屈み込んで避けた。拓真の腕が空を切り、もんどり打って横向きに倒れ込んだ。 折悪しく倒れたところに縁石があつたので、拓真は頭を打ち付けてしまった。
 ちょっと離れた位置で目撃した2人のサラリーマン風の男が駆け寄り、拓真の傷口に自分のハンカチを当てて学生たちに言った。
   「君らは何をボサッとしているのだ。 早く救急車を呼ばないか」
   「それなら、俺が掛けるよ」 
 もう一人のサラリーマン風の男が携帯を出して言った。
   「110番にも掛けるべきだろうか」 
 傷口を押えていた男が、
   「さっきの状況では、警察も呼ぶべきだろう」

 偶々(たまたま)近くをパトロール中の車があったのだろう。パトカーが先に到着した。救急車も続いて到着し、拓真を連れて行った。警官の取り調べに、中学生たちは口々に、
   「このチビに押し倒された」 と言ったので、サラリーマン風の男が否定した。
   「この子たちは、嘘をついています」
   「そうですよ、この小学生は手出しをしていません、手を出したのは怪我をした中学生です」 と、救急車の方を指さした。
 拓真以外の中学生達は「やばい!」と思ったのか、みんな散らばって逃げた。文太はパトカーに乗せられて警察署に連れていかれた。

   「おや、文太君じゃないか」
 小さい頃に、よく話しを聞いてもらったお巡りさんだった。
   「どうしたのかな?」
   「どうやら、中学生に虐められていたようで」
 文太を連れてきた警察官が口を挟んだ。彼が得た事情を、上司であるこの元お巡りさんに事細かく説明をした。
   「そうなのか?」 と、懐かしいお巡りさんに問われて、文太はつい「うん」 と、頷いてしまった。
 文太は、今ならこのお巡りさんに素直にありのままを話せる気がした。何だか父親に訊かれているような気がしたのだ。

   「多分、怪我をした子の親が、小学校へ乗り込んで来ると思うよ」
 パトカーの警察官が言った。 
   「きっと文太君が怪我をさせたことになるだろう、私が小学校へ行って、事情を話しておきましょう。いいね、文太君」
 お巡りさんの言葉に、また文太は思った。
   「お父さんみたいだ」  と。


 文太11才。六年生になり、思春期に差し掛かっていた。 泣き虫だった梨奈も強くなっていた。「将来の夢」というテーマで作文を書かされた文太は、こんなことを書いた。

 ぼくは、将来医者になります。これは夢ではありません。夢は、余命を宣告された患者の命を、ぼくの力で治すことです。 

 この後に続いて、梨奈をぼくのお嫁さんにしたいです。 と書いたが、思い直してこの部分を消しゴムで消した。文太のこの夢は叶わなかった。梨奈は高校を卒業すると、早々と結婚してしまったからだ。

   -続く-  (原稿用紙13枚)

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猫爺の短編小説「コレクター」

2015-02-22 | 短編小説
 世の中には変わった趣味を持つ男が居たもので、俺の親友に自称「幽霊蒐集家」と名乗る変わったヤツがいる。別に幽霊を見世物にする訳ではなく、水槽に入った幽霊を自分の部屋に並べているだけ。水槽には捕獲した場所を克明に記したタグが貼り付けられている。彼は自称霊能者で、彼の目には幽霊が見えているらしいが、俺にはさっぱり見えない。 

   「ほら、モヤモヤっとしたものが漂っているだろう」
 そう言われても、そのモヤモヤすら見えない。一言質問でもしようものなら、延々と薀蓄を傾ける。最初は、つっこみを入れてみるのだが、すぐに厭きしてしまう。 

   「そんなことをして、祟りがあるのじゃないか?」
 俺は恐る恐る質問してみた。
   「わからないが、ここに居る幽霊は祟らない」
 彼は平然と言ってのけた。
   「なぜそんなことが言えるの?」
   「毎晩、話をしているからだ」
   「幽霊とかい?」
   「そうだ、愚痴や悩みを聞いてやってるのだ」
   「それで、どのように会話するの?」
   「霊磁波だ」
 電磁波は知っているが、霊磁波なんて聞いたことがない。
   「霊磁波って?」
   「テレパシーみたいなものだと思えばいい」
   「それで、お前には幽霊がどの様に見えているんだ」
   「様々な色や形をしているが、これなどは白色光を当てるとピンク色に輝く」
   「へえー、きっと若い女の幽霊だね」
   「爺さんだよ、孤独死の」
   「こちらの大きな水槽のは?」
 うっかり勝手に蓋を開けて気が付いた。彼が血相を変えて怒るのかと思ったが、彼は平然とした顔で答えた。
   「それは、平安時代の皇女(ひめみこ)の幽霊なんだ」
   「今、うっかり蓋を開けてしまったが、逃げなかったのか?」
   「逃げたさ」
   「すまん、許してくれ」
  彼「いいさ、あの幽霊は間もなく転活をする時期に来ている、記憶が殆ど消えかかっているんだ」
   「何? 転活って?」
   「転生輪廻(てんしょうりんね)のための活動だ」?
   「どんなことをするの?」
   「天上の神様にアピールするのだよ。後は神様が指示した妊婦のところで待つ」
   「そこの子供に生まれ変わるのだね」
   「しかし悲劇も起る、堕胎されたり死産の場合は、またそこから何百年も待たねばならない」
   「その頃は、お前も俺も幽霊になっているだろうね」
   「当然だよ、二人共蒐集家に捕らえられて水槽の中かも知れない」
   「その後、俺はどうなっているだろうか?」
 「しまった!」と思った時はもう遅い、こうなると蛇に狙われた蛙で、彼の薀蓄地獄から抜け出せなくなるのだ。後は我慢して付き合うしかない。 

   「幽霊は人の魂のことで、生きている人間は魂(たましい)と魄(肉体)から為っている」
   「以前に、猫爺のブログで読んだよ」
   「死ぬと、魂(たましい)と魄(からだ)に分離するんだ」
   「魂魄(こんぱく)この世に留まりて~ っていう四谷怪談のお岩のセリフがあるね」
   「そうそう、魂が亡骸の形を留めた状態のことなんだ」
   「もう、それ位でいいよ。だんだん恐くなってくるんだから」
   「じゃあ、幽霊の捉まえ方を話そうか」

 幽霊が出る空き家があると噂を聞きつけたら、シュラフを担いで出かける。まず一晩目は様子を見て、幽霊の出てくる場所を突き止める。壁からだとわかると、次の晩はそこにポリ袋を仕掛ける。幽霊が出てくると、袋の口を紐でギュッと閉めて捕獲成功だと彼は自慢げに話す。
   「そんな酷いことをして、幽霊はあの世に行けないじゃないか」
   「実は、あの世なんて無いんだよ。死ねば、ただ空間に漂って時をまっているだけなんだ」
   「その時とは?」
   「さっき言った転生輪廻だよ、六道即ち天道、人間道、修羅道、畜生道、飢餓道、地獄道のうち、どこかに生まれ変わるんだ」

 人間、普通の人生を送り、死んで生まれ変わるのは殆どがまた人間道だ。滅多なことで修羅道や畜生道に堕ちることはない。まして、地獄道などへ堕ちることはまず無いと言って良い程だ。 

 そんな話しを聞いていると、突然縦揺れの地震がドドド。全部の水槽の蓋が開いてしまった。 殆どの幽霊は逃げ出しもせず、水槽の中でおとなしくしていたのだが、1柱だけ逃げた幽霊が居た。

   「あれは、保険金目当てにたくさんの人を殺した凶悪犯で、警察に捕まったら直ぐに自殺した女なんだ」
   「酷い女だな」
   「死んでもなお、人を殺しかねない」
   「今夜あたり、お前を殺しに来るかも知れないぞ」
   「いや、俺は大丈夫だ。それより君が心配だ」
   「何で俺が?」
   「さっき、皇女の幽霊を逃がしただろ。嫉妬しているんだ。凶悪犯の女の幽霊は、既に地獄行きが決定していて、未来永劫人間に生まれ変われない」
   「それで、俺を恨んでいるのか。筋違いだろ」
   「凶悪犯の幽霊に、筋なんかある訳ないだろ」

 俺は彼の言うことが気にはなったが、「幽霊なんて無いさ」と嘯(うそぶ)いて独り暮らしのアパートに帰宅した。夜も更けて眠ろうとすればするほど目が冴えて眠れない。そのうち、窓の隙間から「すーっ」と何かが入ってくる気配がした。 
   「出たな、幽霊」
 身構えていると、何やら幽霊の意思が伝わってきた。 

   「お前の命を取ろうとしているのは、幽霊の私ではない。親友のあの男だよ」
   「ヤツは親友だぞ。俺の命を狙う訳がない」
   「私は生命保険に入っていない人間に興味はない」
   「ヤツにも俺の命を取る必要性がない、何の得もないじゃないか」
   「そんなことはない。水槽が二つ空になったじゃないか、その一つにお前の霊を入れたいのだ」

 その時、表の戸を叩く音がした。
   「おーい、起きてるか、眠れないだろうと思って酒を持って来たぞ」
 返事をしようとしても声が出ないので、黙って布団に潜っていると、
   「なんだ物騒だなぁ、鍵がかかっていないじゃないか、入るぞ」
   「どうした、こんな夜更けに」
 掠(かす)れてはいるが、やっと声が出せた。
   「先程の話が気になって眠れないのではないかと思ってさ」
 彼はカップ酒を2つ持ってきた。2つとも蓋を開けると、「ほれ、飲めや」と勧めてくれ、先に自分が飲んだ。幽霊の言う事を信じる訳ではないが、「もしや、毒」という思いが脳裏をかすめる。幽霊が俺を殺そうとしているのか、それとも彼が俺を殺そうとしているのか、一体どっちなんだ!
   「どうした、俺が持ってきた酒に毒でも入っていると思ったのか?」
   「そんなことは無いよ」
   「じゃあ飲めよ、眠れるよ」

 その後、何が起こったのか俺には判らない。気が付けば彼の部屋の大きな水槽の中でうずくまっている自分が居た。
   「俺は死んだのか?」
   「そうらしいな」
   「お前が殺したのだろう」
   「殺したなんて人聞きが悪い」
   「俺に何をしたのだ」
 彼は高笑いをして言った。
   「お前を魂と魄に分けてやったのさ」
   「お前を呪ってやる」
   「バカ、そんなことをしたら、修羅道に落ちるぞ、いや畜生道かも知れん」
 黙りこんでしまった俺を、あざ笑うように彼は言った。
   「念の為に、生命保険に入っておくよ」
 天井裏にとどまっていた逃げた幽霊が反応して、すーっと降りてきた。
   「ん? 生命保険?」
 
  
 (昔、書いたショートショートを添削して再投稿したものです) 

猫爺の連続小説「江戸の辰吉旅鴉」 第三回 父の尻拭い?

2015-02-20 | 長編小説

  信州小諸藩士山村堅太郎の屋敷はすぐには見つけられなかった。小諸の城下町で尋ね歩いても、知っている人が居なかったからだ。罪を犯して追われる身で小諸城へ足を運べず、武家屋敷の佇まいの中をうろつき、屋敷から出てきた使用人らしき男を見つけて尋ねた。
   「西村堅太郎様というお武家の屋敷を探しているのですが…」
   「西村さまなら、この道を真っ直ぐ行って、家並みが途絶える辺りにあります」
   「ありがとう御座いました」
 男に頭を下げると、辰吉(たつきち)は駈け出して行った。
 
 山村の屋敷は、質素な佇(たたず)まいであった。辰吉は門前に立ち、潜戸を叩いてみたが応答が無かった。潜戸を押してみると、「ぎーっ」と音を立てて開いた。
   「御免下さいまし、何方かお出(い)になりませんか」
 何度か声をかけて、漸(ようや)く応答がたった。
   「はい」
 堅太郎の奥様らしき女が、母屋から出てきた。彼女は堅太郎の妻お宇佐と名乗った。お宇佐は、鵜沼の卯之吉の妹である。一時は源蔵と名乗っていた卯之吉は、もとの卯之吉に戻り、今は八百屋文助の娘と夫婦となって、別の場所で八百屋の主人に収まっている。
   「山村堅太郎さまにお会いしたくて参りました」
   「主(あるじ)は登城しており留守ですが、どなた様でいらっしゃいますか?」
   「江戸から参りました福島屋辰吉と申します」
   「おや、福島屋さんとおっしゃいますと、福島屋亥之吉さんのご家族のかたですか」
   「はい、倅です」
   「それは残念です、亥之吉さんは昨日お帰りになりました」
   「そうですか、江戸へ帰ると言っておりましたか?」
   「さあ、それは…、そうそう、夫、堅太郎の弟、斗真がおります」
 話が聞こえたのか、見慣れた真吉(斗真)が七・八歳の男の子と一緒に出てきて、兄の子供だと紹介した。
   「若旦那、どうしてこちらへ?」
   「旅の途中で、天秤棒を担いだ男が居たと聞きましたので、もしや父ではないかと思い、やってきました。
   「そうです、旦那様ですよ、若旦那はどうして旅に出られたのですか?」
   「父の影響を受けたと言いますか、突然旅がしたくなって家出をして来ました」
   「女将さんはご存知なのですか?」
   「いいえ、家出ですから」
   「いけませんねぇ、女将さんが死ぬほど心配していらっしゃいますよ、きっと」
   「でしょうね、仕方がなかったのです」
   「突然旅がしたくなったというのは嘘ですね、何か訳がありそうですが、今はお聞きしないでおきましょう」
   「すみません」

 父、亥之吉が江戸へ向けて帰って行ったのなら、どこかで出会った筈である。
   「父は、どこへ行くとも言っていませんでしたか?」
   「帰るとしか聞いていません、てっきり江戸へお帰りなったものだと思っていましたが、出会わなかったのですね」
   「はい」
   「それでしたら、緒方先生のところへ行ったのではないでしょうか」
   「十年ぶりですから恐らくそうですね、今からそちらへ行ってみます」
   「私も付いて行きたいのですが、店を出す準備がありますのでここを出られません」
   「上田の城下で尋ねて行きますから独りで大丈夫です」
   「ところで辰吉坊っちゃん、路銀は十分お持ちですか?」
   「そちらも大丈夫です」
   「そうですか、亥之吉旦那様にお会いしましたら、お世話になりましたと真吉が言っていたとお伝えください」
   「わかりました」
   「もし、私にできることがありましたら、いつでも訪ねて来てください、くれぐれも軽はずみなことをしてはいけませんよ」
 
 斗真とお宇佐に見送られて、辰吉は山村の屋敷を後にし、同じ信州の上田藩に向かった。


   「おい、其処行く杖をついたガキ、ちょっと待ちやがれ」
 辰吉は、人相の悪い遊び人風の男に呼び止められた。見れば右手首に晒しを巻いている。
   「お前、天秤棒を担いだ男の身内じゃないのか?」
   「そうかも知れまへん」
   「確か、池田の亥之吉とか名乗っておった」
   「へえへえ、俺の親分だす」
   「やっぱりそうか、あいつも上方言葉だった」
 どうやら、親父の尻拭いをさせられそうな気配になってきた。
   「この腕を見ろ、お前の親分にやられたのだ」
   「へー、さよか、あんさんたち、わいの親分に何か悪さをしたのでっしゃろ」
   「お前の親分は賭場荒らしだ」
   「嘘つきなはれ、親分は立派な侠客だす」
   「それが、沓掛の時造とつるんで、いかさまをしやがった」
   「親分はいかさまどころか、博打は一切やりません、おおかたその時蔵さんがおっさん達に襲われていたのを、俺の親分が助けたのやろ」
   「喧しい、憂さ晴らしにお前の右腕を斬り落としてやる、覚悟しやがれ」
 男は、いきなり長ドスを抜いて両手で持ち、辰吉の右腕に斬りかかった。牛若丸程ではないが、辰吉も身が軽い。ぴょんと後ろへ飛び退くと、ドスは空振りした。その手首を辰吉が六尺棒で思い切り打ち据えた。
   「ぎゃっ」
 男の手首に巻いた晒に血が滲んできた。
   「おっさん、顔ほどでもないなぁ、親分は歳をとっているさかいに手心を加えたのやろが、わいは若いからそうはいきまへんのや、手首折れたかも知れんが堪忍してや」
 男は悔しいのか、痛みの所為か涙を堪えて顔をしかめている。

 
 上田藩城下に入り、商家で緒方三太郎の診療所を尋ねると、親切にも手代と思しき若い男が先に立って案内してくれた。建物は辰吉が思っていたよりも大きくて、名前は「緒方養生所」と変わっていた。
   「先生にお会いしたいのですが…」
 女が出てきたので伝えると、ちょっと首を傾げた。
   「先生は三太郎、佐助、三四郎と三人おりますが、どの先生でしょうか?」
   「緒方三太郎先生です、江戸の福島屋辰吉が来ましたと、お伝えてください」
   「あの、福島屋亥之吉さんのご子息ですか?」
 親父は、やっぱりここへ来ていたのだ。
   「はい、そうです」
   「ご案内いたします、どうぞお上がりください」

 先生は、親父や三太の兄貴が言っていたように、優しそうで親父と同年代と聞いていたが、親父より可成り若く見えた。この先生が甲賀流剣道の達人かと思うと、辰吉は「ぶるっ」と身震いをする思いだった。
   「亥之吉さんは、今朝早くお発ちになりましたが、上方へ寄って帰るのだとおっしゃっていました」
   「そうですか、一足違いだったのですね」
   「辰吉さんが強くなったと、お父さんがよく自慢をしていましたよ」
   「お恥ずかしゅうございます」
   「私は、あなたがまだ小さいときに一度お会いしていますよ」
   「はい、父とお手合わせしているところを薄っすらと憶えております」
   「そうでしたね、昨日もやったのですよ、お陰で腰が痛くて…」
   「父も、今頃腰を擦りながら歩いていることでしょう」
   「そうかも知れません、ところで辰吉さん、亥之吉さんの後を追うのが目的の旅ではないでしょう」
   「はい」
   「何か訳がありそうですね、今夜から暫くここへ泊まって行きなさい、話はじっくりお聞きしましょう」
   「ありがとう御座います、お察しの通りです」

 その夜遅くまで、三太郎は辰吉に付き合った。
   「辰吉さん、どうやら何か仕出かしたようですね」
   「はい、喧嘩をしてドスで刺されそうになったのですが、揉み合っているうちに相手を刺してしまいました」
   「そんなことだろうと思いましたよ、その相手の男は死んだのですか?」
   「はい、多分」
   「それで…?」
   「父の迷惑にならないようにと、その脚で旅にでました、もう店に戻ることは出来ません」
   「そうですか、実は私も人を刺したことがあるのですよ」
   「お侍のときに悪人を刺したのでしょ」
   「いいえ、私の実の父親です」 
   「えっ」
 辰吉は驚いた。
   「父の暴力から母を護るために、自分の意志で刺したのです、まだ子供でしたがね」
   「今でも心の傷になっているのですか」
   「なっていないと言えば嘘になりますが、止むを得ないこともあるのだと自分に言い聞かせています」
   「お強いですね」
   「反対です、弱いから強く居ようと思うのです」
 辰吉には、父を殺すなどということは有り得ないことだが、先生にはそうしなくてはならなかったのだろう。
   「辰吉さんもそうだろうと思いますよ、やってしまったことは有耶無耶には出来ません、悪人であれ人の命を奪ったのです、その罪意識を供養として強く生きて行ってください」

 父を追いかけて上方へ行こうかと思った辰吉だったが、先生のお言葉に甘えてここで心を鍛えようと思った。先生も、「そうしなさい」と、快く辰吉を受け入れてくれることになった。
   「お絹さんと三太さんが心配しているでしょう、私が手紙で知らせておきます」

  第三回 父の尻拭い?(終)-次回に続く- (原稿用紙12枚相当)

「江戸の辰吉旅鴉」リンク
「第一回 坊っちゃん鴉」
「第二回 小諸馬子唄」
「第三回 父の尻拭い?」
「第四回 新三郎、辰吉の元へ」
「第五回 辰吉、北陸街道を行く」
「第六回 辰吉危うし」
「第七回 一宿一飯の義理」
「第八回 鳥追いの小万」
「第九回 辰吉大親分」
「第十回 越後獅子」
「第十一回 加賀のお俊」
「第十二回 辰吉に憑いた怨霊」
「第十三回 天秤棒の再会」
「第十四回 三太辰吉殴り込み」
「第十五回 ちゃっかり三太」
「第十六回 辰吉の妖術」
「第十七回 越中屋鹿衛門」
「第十八回 浪速へ帰ろう」
「第十九回 鷹塾の三吉先生」
「第二十回 師弟揃い踏み ...」
「第二十一回 上方の再会」
「第二十二回 幽霊の出る古店舗」
「第二十三回 よっ、後家殺し」
「第二十四回 見えてきた犯人像」
「第二十五回 足を洗った関の弥太八」
「第二十六回 辰吉、戻り旅」
「第二十七回 辰吉、旅のおわり」
「最終回 成仏」

猫爺の連続小説「江戸の辰吉旅鴉」 第二回 小諸馬子唄

2015-02-18 | 長編小説
 今夜は旅籠のふわふわ布団でゆっくり眠れるぞ、世の中どうにかなるものだと辰吉(たつきち)の足取りは軽かった。 
   「真吉兄ぃどうしているかな、親父は今頃何をしているのかな」
 考えながら歩いていると、道の傍(かたわ)らにいた十二・三の女の子が辰吉の前に出てきて立ち塞がった。
   「兄さん、あたいを買っておくれよ」
 まだ年端もいかない小娘が、何をやっているのだと辰吉は驚いた。
   「明るいうちから、ガキが何のつもりだ」
   「だからー、あたいは体を売っているのだ」
   「お前、自分の言っていることが分かっているのか?」
   「あたいはもう子供じゃない、近所のガキに押さえつけられてやられた時は痛くて大泣きしたけど、もう大丈夫さ」
   「どう大丈夫なのだ」
   「相当でかいものでも、するりと入る」
   「お前、いやらし過ぎ」
   「だからさあ、あたいを今夜一晩抱いてお金をおくれよ、おっ母の医者代が無くて困っているのだ」
   「おっ母が病気なのか、幾らいるのだ」
   「二両さ」
 娘は、俯(うつむ)いて呟いた。
   「二両か、それでおっ母は医者にかかれるのか?」
   「うん」
   「その後は」
   「また、辻に立って客を探すさ」
   「よし、二両出そう」
   「出会茶屋かい?」
   「お前の家に行こう」   
 辰吉はまだ女知らずである。この娘を抱く意志はない。病気の母を見舞ってやるつもりだったのだ。
   「やめとくれ、おっ母は病気なのだ」
   「おっ母の前で何もするものか、お見舞いするだけだ」
   「お見舞いなんか要らないよ、体を売っていることをおっ母に勘ぐられるじゃないか」
 娘は、先に金をくれないかと言った。医者に金を払って、今夜自分が留守の間に母を医者に診てもらうのだそうである。辰吉は、娘に二両渡してやった。
   「ありがとうね、この路地の奥に薮井宗竹先生の診療所があるの、ちょっと行って頼んでくるから待っていてね」
   「うん、わかった」
 辰吉は、返事をしたものの、到底娘が戻って来るとは思えなかった。どうせこの路地は抜け道があって、娘はそこからとんずらする積りであろう。

 案の定、待っても娘は戻って来なかった。辰吉は路地に入ってみると、薮井なんたらと言う診療所なぞ無かった。奥で老婆が溝掃除をしていたので、「今娘がここへ来たと思うが」と、尋ねてみた。
   「あはは、あんたあの娘に金を払ったのかね」
   「二両はらった」
   「おっ母が病気で、医者に払う金が要るといわれたのじゃろう」
   「言われた」
   「嘘じゃよ、あの娘に親兄弟は居ない、スケベの旅人を掴まえては嘘を言って金をせびり、贅沢三昧をしているのさ」
   「そうか、よかった、不幸せじゃなかったのだ」
   「あんたも金持ちの爺さんみたいに、お人好しでスケベじゃな」
   「放っといてください」
 江戸生まれの江戸育ち、江戸っ子辰吉、うっかりすると親の影響を受けていて、ベタベタの上方言葉が出るのである。

 向こうから、花売りの女が来る。まさか自分に声が掛かるとは思っていなかったが、意に反して辰吉の傍に寄ってきた。
   「お兄さん、花いりませんか?」
   「なんでやねん、旅の男が花を買ってどうするのだ」
   「女の子にあげたら喜ばれますよ」
   「アホかと思われるわい」
   「そんなことおへん、粋なお兄さんに花貰ったら、私やったらお腰の一枚でも脱いであげようかと思います」
   「やらしー、お腰の一枚やなんて、お姉さんお腰何枚はいていますのや」
   「五枚どすえ」
   「あほらし、ところで姉さん京の人だすか?」
   「いいえーな、京の大原女の真似どす、兄さんは上方どすのか?」
   「いいえーな、江戸でおます」
 こんなところで、花が売れるのかと聞けば、主に旅籠が買うらしい。
   「床の間に、花が活けておますやろ」
   「ほんなら、旅籠へ行かんかい」
   「ここらで売れたら、はよ帰れますがな」
 横着な花売りである。

   「金魚ーぇ、金魚」
 人通りも疎らな田舎道で、金魚売りとは…
   「おっさん、売れますか?」
   「ときたまな」
   「そやろなぁ、そこら辺の川を網で掬ったら金魚くらい子供でもとれるやろ」
   「それは、鮒だ」
   「おっさん、金魚一匹何ぼや」
   「へい、大坂(おおざか)の兄ちゃん、一匹十文からです」
   「ほんなら一匹、尾頭(おかしら)外して、三枚におろしてもらうのやが」
   「へーい、毎度ありー」
   「その黒いのと赤いの、どっちが旨い?」
   「それは黒い方ですが、黒はちょっと高いですよ」
   「黒いのはなんぼや?」
   「黒いのは、出目金ですから一両です」
   「たかっ、ほんなら赤い十文の方でええわ」
   「へーい、赤いのを一匹、三枚おろし」
   「ほんまにおろす気かいな」  
   「へい、何でもさせて頂きますぜ、おいら、元は大坂商人ですから」
   「わさびも付けてや」
   「へい、お付けします」
   「持っとるのかいな、わさび」
   「醤油かけときます」
 辰吉、金魚屋をからかったつもりが、一匹買う羽目になった。それで、辰吉その金魚どうしたかと言えば、小川の土手に埋めて、お墓を立ててやったりして。

峠の茶屋で休憩をとった。お茶と安倍川を頼むと、婆さんが持って出てきて辰吉の六尺棒をジロジロみている。
   「当世の旅人は棍棒を持ち歩くのがはやっているかい」
   「他の人も持っていたかい?」
   「大坂の商人風の人が、天秤棒を担いで持っていたよ」
   「ここで一服したのかい?」
   「そうだよ、六人のやくざに絡まれてどうなるかとハラハラしていたら、あっと言う間にその天秤棒でやっつけてしまった、強かったねえ」
   「それ、多分俺の知り合いだよ」
   「そうかい、顔が似ている、兄弟だろう」
   「えっ、そんなに若かったのかい」
   「年の頃なら、二十四・五ってところだったねぇ」
   「親父、喜ぶよ」
   「なんだ、お父っつぁんかい、すると、あんた親不孝者だろう」
   「どうして?」
   「どうしてはないだろ、そんなやくざの形(なり)をして」
   「うん」
 辰吉は、胸にズンときた。

 茶店から離れると、悪そうなガキに囲まれた。
   「おい旅鴉、長ドスも持ってねぇのかよ」
   「これが俺の長ドスだ」
 辰吉は、六尺棒を振って見せた。
   「ただの棍棒じゃねえか、それとも杖か?」
   「馬鹿にするな、それにしてもこの辺は何なのだ、次々と変なやつが現れて…」
   「弱そうな男が独り旅では、狙われるのはあたりめえじゃねぇか」
   「お前らも、俺の懐が目当てか?」
   「そうさ、たんまりもっているのだろう、怪我をしないうちに渡しな」
   「それはこっちの言うセリフだ、江戸の辰吉、ガキどもに怪我を負わされるほど軟(やわ)じゃねぇぜ」
   「よし、やってやろうじゃねぇか」
   「この俺をやるのは、とてもお前らには無理だぜ」
   「何を言いやがる、やっちまえ!」
 一見、軟弱そうな辰吉だが、動きが素早くて、まるで鋼(はがね)がブンブン暴れまわるようである。三太譲りの強さで、忽ちガキどもを捩じ伏せてしまった。
   「どうだ、まだやるか?」
   「やらねえ、勘弁してくれ、おいら辰吉兄ぃの子分にしてくだせぇ」
   「鬼ヶ島へ鬼退治に行くのだが、付いてくるか?」
   「えっ?」
   「嘘だよ」

 初めて通る道なのに、やけに懐かしい。
   「そっかー、親父と真吉兄がここで休んだのか」

 辰吉の草鞋は、小諸に向いた。

  ◇小諸出てみろ浅間の山に 今朝も煙が三筋立つ

  第二回 小諸馬子唄(終)-次回に続く- (原稿用紙11枚)

「江戸の辰吉旅鴉」リンク
「第一回 坊っちゃん鴉」
「第二回 小諸馬子唄」
「第三回 父の尻拭い?」
「第四回 新三郎、辰吉の元へ」
「第五回 辰吉、北陸街道を行く」
「第六回 辰吉危うし」
「第七回 一宿一飯の義理」
「第八回 鳥追いの小万」
「第九回 辰吉大親分」
「第十回 越後獅子」
「第十一回 加賀のお俊」
「第十二回 辰吉に憑いた怨霊」
「第十三回 天秤棒の再会」
「第十四回 三太辰吉殴り込み」
「第十五回 ちゃっかり三太」
「第十六回 辰吉の妖術」
「第十七回 越中屋鹿衛門」
「第十八回 浪速へ帰ろう」
「第十九回 鷹塾の三吉先生」
「第二十回 師弟揃い踏み ...」
「第二十一回 上方の再会」
「第二十二回 幽霊の出る古店舗」
「第二十三回 よっ、後家殺し」
「第二十四回 見えてきた犯人像」
「第二十五回 足を洗った関の弥太八」
「第二十六回 辰吉、戻り旅」
「第二十七回 辰吉、旅のおわり」
「最終回 成仏」

猫爺の連続小説「江戸の辰吉旅鴉」 第一回 坊っちゃん鴉

2015-02-17 | 長編小説
 主人亥之吉が旅に出て不在の江戸京橋銀座の雑貨商福島屋に何者かが忍び込んだ。誰も居ない筈の旦那様の座敷から、「ガタン」と音がしたのを一番番頭の勝蔵が聞きつけて、様子を見に行った時は、もう賊は逃げたようであった。
   「何か盗られたものはおまへんか?」
 女将のお絹が番頭に問うたが、旦那様の座敷からは、何も盗られたものは無かった。手文庫も持ち去られておらず、どこからも金を盗まれた形跡はなかった。
 子供たちは皆寺子屋に行っている時間帯なので、拐かされた気配もない。一体何が目的で押し込んだのか不明であった。
   「もしや…」
 お絹は、喧嘩で相手を刺して姿を暗ました長男の辰吉(たつきち)ではなかったのかと、慌てて手代たちに表を探させたが、そこらに辰吉の姿はなかった。
   「辰吉の武具はありきすか?」
 亥之吉の天秤棒とは違って、丸棒を少し平らに削った六尺棒が辰吉の武具である。父親の亥之吉から伝授された武芸なのだが、主に手をとって教え込んだのは小僧の時からの番頭三太であった。
   「ありません、賊だと思ったのは、若旦那だったようですね」
   「旦那さんが若いころに使っていた道中合羽や三度笠が無くなっとります」
   「若旦那様は、旅に出られたのでしょうか」
   「三太が身代わりになって罪を被ってくれたと言うのに、辰吉は何も知らずにどこへ行ってしまったのやろか」

 急遽店を閉めて、店の者に日本橋方面など心当たりを探しに行かせたが、夕刻になって何らの手がかりはなく、みんなが手ぶらで帰ってきた。
   「居りまへんだしたか、こんなとき旅好きのだんさんか三太が居てくれたら心丈夫やのに…」
 お絹は、勝蔵を呼び寄せて言った。
   「勝蔵はん、旦那さんから訊いたと思うがこの店はあんさんに総てお任せをする積りだす、お店(たな)とお店の衆の面倒はよろしく頼みまっせ」
   「へい、よく心得ております」
 お絹は辰吉が居なくなり気力をなくして、子供たちの世話だけで精一杯、お店の切り盛りが手薄になっていたのだ。
 

 江戸の生まれで江戸育ち、江戸の辰吉十七歳、二度と再び江戸の地に草鞋の先を向けまいと、心に誓って旅に出た。親父のお古の旅支度、縞の合羽に三度笠、手には武具の六尺棒、懐には母親がくれた小遣いの二両ぽっきり、「何とかなるさ」と、風の吹くまま、気の向くまま、当てのない旅に出たものの、小諸生まれの真吉に店を持たすべく親父が歩いたであろう小諸への街道を、知らず知らずに辿っている辰吉であった。

 辰吉にとって、生まれて初めての道標(みちしるべ)を頼りの独り旅である。不安は無いと言えば嘘になる。後から江戸の役人が追ってくるのではないか、辰吉が刺した男の仲間が待ち伏せしているのではないかと、きょときょとしながらの街道旅である。

 しばらく歩くと川の岸に佇(たたず)んでいる女と、その傍(かたわら)で泣いている四歳位の女の子を見つけた。
   「どうしました」
 放っておけずに、辰吉は声を掛けた。
   「路銀(ろぎん)を使い果たして、三日前から野宿で何も食べていません、行く当てもないので川へ飛び込もうと思ったのですが、この子が不憫でどうしても道連れに出来ません」
   「死んではいけません、この先に食物屋がありそうです、とにかく何かを食べてから考えましょう」
 辰吉は女を背負い、女の子の手を引いて次の宿場まで行くことにした。途中、女が「気持ちが悪い」と言い、辰吉と女の子を残して脇道に入っていった。嘔吐か尿意を催したのであろうと、辰吉は街道で女が戻って来るのを待っていたが、一向に戻る様子は無かった。
 そのうち、五人の男たちに取り囲まれた。
   「此奴、ふてえ野郎だ、お千代坊を拐(さら)って売りとばす積りだったのだろう」
   「いえ、拐ってなんかいません、女の人から預かったのです」
 男たちは、お千代に聞いてみた。
   「お千代坊を拐ったのは、この男か?」
 お千代はしっかりと答えた。
   「ううん、女の人」
 男たちは、辰吉から事情を訊いた。
   「そうか、それは済まないことを言った」
   「いえ」
 他の男が辰吉に訊いた。
   「旅人さん、懐のものは大丈夫か?」
   「えっ?」
 辰吉は、自分の懐へ手を入れて驚いた。二両の入った財布が無くなっていたのだ。
   「女は、子供を使った騙り掏摸(かたりすり)だ」
 女が消えてから、時間が経ち過ぎていた。いまから役人に届けても、掏摸は捕まらないだろう。その上自分は脛に傷を持つ身だ。下手に届けて江戸からの追っ手に見つかれば辰吉自身が捕まってしまう。ここは、諦めるよりすべは無かった。

   「さて、今夜からどうしょう」
 野宿をするにしても、食うものにありつけないのは若い辰吉にとっては辛いことだ。とにかく宿場町に入り、どこかの貸元のところへで一宿一飯の恩義を受けようと思うのだが、俄旅鴉のこと、仁義もさえ切れない。兄貴の三太が冗談でやっていたのを聞き覚えていたが、巧く言える自信はない。

 歩きながら、前から親父の亥之吉が歩いてくるような気がして佇んでしまうこと暫し、苦労知らずの自分が情けなかった。
   「こんな事になるなら、鵜沼の卯之吉おじさんに博打のやり方を教わっておくのだった」
 

 夕暮れ時、中山道浦和の宿場町、大山金五郎一家の前で足を止めた。若い者が出たり入ったりして、辰吉はちょっと臆病風に吹かれるが、勇気を出して入ることにした。
   「お控えなすって」
 声が小さかったのか、無視されてしまった。
   「お控えなすって!」
 何度か叫んで、ようやく若い男が辰吉に気付いてくれた。
   「早速のお控え、有難うござんす」
 辰吉は、中腰になり、右手を出し手のひらを上に向けた。
   「軒下三寸借り受けまして、たどたどしい仁義、失礼さんにござんす」
 辰吉は、ふざけた三太の仕草を思い出していた。
   「手前生国と発しますは、お江戸にござんす」
 江戸は銀座のど真ん中、堅気の商家に生まれましたが、長じるに従い重ねる親不孝、いつか逸れて江戸無宿の辰吉と発します」
   「これはご丁重なる仁義、恐縮にござんす、丁度夕食の準備も整いましたところ、どうぞご遠慮なくお上がりくだせえ」
 
 応対してくれた若い男が、金五郎一家の貸元に紹介してくれた。
   「客人、何をやらかしての旅暮らしですかい?」
 貸元に聞かれたが、辰吉が口篭っていると、
   「済まねえ、済まねえ、訳あっての旅でござんしょう、訊いたわしが悪かった」 

 食事が済むと、盆茣蓙の準備が始まった。辰吉も若い衆に従って手伝いをした。
   「客人も、路銀(ろぎん)を稼いで行ってはどうです」
 若い男が博打に誘ってくれたが、辰吉は懐のものをすっかり掏摸に盗られて文無しであることを告白した。
   「それはお気の毒なこってす、あっしが一両貸しましょう、おっと、貸すと言えば負けちゃったときに返せねえだろう、一両やりましょう、もし客人が勝って返せるなら一両返してもらえばそれでいい」
   「俺は博打のやり方を知りません」
   「では、ここで憶えていきなせえ、金を木札に変えて、出方(でかた=案内役)が案内する盆ギレに座ってくだせえ、後は中盆(なかぼん=進行役)に従って長か半に掛けるだけです、勝てば掛けた木札の数だけ貰える、負けたら掛けた木札は取られてしまいやす。
   「返せなくなったら、俺はどうすれば良いのです?」
   「負けたら、絶対にもう借りてはいけない」
   「兄さんには、どう償えば良いのです?」
   「諦めて、今夜はあっしの布団で一緒に寝よう」
   「えっ?」
   「違う、違う、あっしは男色家じゃないから安心しろ」

 無欲の勝利とでも言うのだろうか、辰吉はツキについていた。長と張れば長の目が、半に張れば半の目が出た。辰吉の前には、忽ち木札が小さな山を築いた。

 辰吉に一両貸してくれた兄さんが、もう止めろと手で合図をしている。辰吉は木札を持って貸元のところで金に替えた。何と一両の元手が、十両にもなっていた。五分(5%)のテラ銭を差し引いても九両と二分が手元に残る。兄さんに五両渡しても、四両二分が辰吉の懐に入るのだ。
   「いいよ、いいよ、あっしに一両返してくれたらそれでいい」

 兄さんは、辰吉を本当の弟のように思っているのか、説教もしてくれた。
   「これに味を占めて、あまり博打にのめり込めるのじゃねえぜ、博打は負けることの方が多いのだから」
 翌朝、兄さんは大きなおむすびを五つも持たせてくれた。
   「もう会うこともないだろうが、元気で居ろよ」
 門口で手を降って送ってくれた。

 この街道は、父の亥之吉や山村堅太郎、真吉が踏んだ道だと思うと、なんだかヤケに暖かく感じる辰吉であった。
   「懐には八両二分もある、今度こそ騙し取られないようにしよう」
 世の中には、悪い人も居るが、あの兄さんのような優しい人も居るのだ。そして、この青い空の下には、父母や兄弟、そして三太兄貴が居るのだ。あても果てしもない旅なのに、ちっとも寂しくない辰吉の旅であった。

  第一回 坊っちゃん鴉(終)-次回に続く- 原稿用紙12枚)

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「第一回 坊っちゃん鴉」
「第二回 小諸馬子唄」
「第三回 父の尻拭い?」
「第四回 新三郎、辰吉の元へ」
「第五回 辰吉、北陸街道を行く」
「第六回 辰吉危うし」
「第七回 一宿一飯の義理」
「第八回 鳥追いの小万」
「第九回 辰吉大親分」
「第十回 越後獅子」
「第十一回 加賀のお俊」
「第十二回 辰吉に憑いた怨霊」
「第十三回 天秤棒の再会」
「第十四回 三太辰吉殴り込み」
「第十五回 ちゃっかり三太」
「第十六回 辰吉の妖術」
「第十七回 越中屋鹿衛門」
「第十八回 浪速へ帰ろう」
「第十九回 鷹塾の三吉先生」
「第二十回 師弟揃い踏み ...」
「第二十一回 上方の再会」
「第二十二回 幽霊の出る古店舗」
「第二十三回 よっ、後家殺し」
「第二十四回 見えてきた犯人像」
「第二十五回 足を洗った関の弥太八」
「第二十六回 辰吉、戻り旅」
「第二十七回 辰吉、旅のおわり」
「最終回 成仏」

猫爺の連続小説「三太と亥之吉」 最終回 江戸十里四方所払い

2015-02-11 | 長編小説
 亥之吉が江戸に出て、早くも十二年の年月が流れた、三太と新平は十九歳になっている。三太と真吉は、ともに福島屋の番頭になっているが、真吉は暖簾分けの話が運んでいる。もちろん、兄の小諸藩士山村堅太郎夫婦が、城下町の一等地を見つけてくれているのだ。山村堅太郎の妻とは、以前の鵜沼の卯之吉こと常蔵の妹お宇佐であることは言うまでもない。

 亥之吉は、その物件が福島屋小諸店に相応しいかを見定める事のほか、大金を真吉に持たせているので用心棒として付き添った。

 一方、三太は亥之吉の戻りを待って、元奉公していた浪花の相模屋長兵衛のもとへ戻るつもりである。ここには、長兵衛の長女が三太の帰りを待っている。親同士が決めた許嫁である。

 ある日の夕暮れ時、北町奉行所の同心が目明しを一人連れて福島屋の店にやって来た。
   「辰吉は戻っておるか?」
 店の間に居た三太が応対した。
   「若旦那は朝出かけたまま、まだ戻っていまへんのやが」
   「お上のご用向きである、隠すと為にならんぞ」
   「隠すて、若旦那が何かやらかしたのだすか?」
   「地廻りのゴロツキと喧嘩をして、ドスで相手を刺したのだ」
   「えっ、それで喧嘩の相手は?」
   「死んではいないが、傷は深いそうだ」
   「旦那さんが留守のときに、何ということを仕出かしたのや」
   「もし逃げ帰ったら、番所にとどけるように」

 同心たちは「心当たりを当たってみよう」と、話しながら戻っていった。
   「女将さん、大変なことになりました」
 さすがの三太も、落ち着いては居られない。辰吉の兄として、辰吉を救ってやらねばならない。
   「どないしたんや、またお客の苦情か?」
   「それどころやおまへん、辰吉坊ちゃんが他人を刺したそうでおます」
   「ええっ、それで相手は死んだのか?」
   「生きてはいるが、深手やそうだす」
 お絹は動転して、その場にひっくり返った。
   「何が、何があったのや」
   「わかりまへん」
   「最近、金遣いが荒くなっていたので、心配して問い質そうとしていたところやが、何でまた旦那さんが留守の時に…」
   「女将さん、しっかりしておくなはれ、わいが付いています」
   「三太、頼みます」
   「辰吉坊ちゃんが帰ってきても、番所に知らせたらあきまへんで、わいが戻るまで待っといてください」
 
 三太は店の者に女将さんを頼んで、「心当たりを探してみます」と、駈け出していった。
   「どうか、相手の人が死にませんように…」
 死ねば辰吉は死罪か、軽くても遠島である。三太の後ろ姿に、手を合わせるお絹であった。

 三太は、大江戸一家に飛び込んだ。「辰吉は来ていない」と、言うことだったので、もし来たら「庇ってやってください」と、まず自分に知らせるようにお願いをして、ゴロツキの溜まり場を目指した。

 草が血で染まったところがあった。
   「ここで刺したな」
 近くに事情を知る若い男が居たので、話を訊いてみた。刺された男は、辰吉に自分の女を奪ったと因縁をつけ、ドスを出して辰吉を脅したらしい。

 二人揉み合った挙句に、辰吉は相手の男からドスを奪い、それを奪い返そうとした男の腹を刺してしまったらしい。正当防衛などというものは認められない。人を刺せば刺した方がお罰を受けることになる。

 辰吉は堅気の若旦那である。顔見知りの大江戸一家のほかには逃げ込む当てなどない。きっと夜になれば店に戻ってきて自分に相談するに違いないと、三太は待ち続けた。だがその夜、辰吉は戻らなかった。
   「もしや、上方の祖父や伯父を頼ったのではないやろか」
 もはや、気丈なお絹も、三太の相談相手ではなかった。ただ、心痛のあまり狼狽えるばかりである。
   「若旦那さん、お金は持ってなさるのだすか?」
 お絹は答えられないので、代わって一番番頭が答えた。
   「店の金を勝手に持って行ったりしないので、あまり持っていないと思います」
   「女将さん、最近小遣いをなんぼやらはったのだす?」
   「今朝、二両だす」
 お絹は、ようやく答えた。
   「それだけあったら、上方への路銀になります」

 夜も更けてきた頃、表戸を叩く音がした。
   「辰吉が帰ってきた、早よう開けてやっておくれ」
 お絹が叫ぶように言った。
   「若旦那、今開けます」
 だが、辰吉ではなかった。
   「政吉どす、話を聞いて驚いて飛んできました」
   「菊菱屋さんにも、若旦那は行ってないのだすか?」
   「一度も来ません、辰吉さん、どこへ行きはったのやろか」
 三太が、今から北町奉行所まで行ってくると言いだした。
   「自訴しているかも知れまへん」
 三太は一目散に月明かりの町を駆けていった。途中、番屋に寄って訊いてみたが、辰吉は姿を見せていないという。

 三太は、ぴったり閉まった北町奉行所の門を叩いた。
   「福島屋の番頭、三太だす、ここを開けておくなはれ」
 門の中から声が聞こえた。
   「何だ、この夜更けに」
   「どなたか与力の旦那に会わせておくなはれ」
 暫く待っていると、潜戸が開いた。
   「三太どの、辰吉が見つかったのか?」
 泊まり込みの若い与力が出てきた。顔見知りの長坂清心であった。父長坂清三郎がお役を辞した跡を継いだ長男である。
   「いえ、もしや若旦那が自訴してきているのやないかと、伺いにきました」
   「来ていないぞ、早く自訴したほうが良いのだが」
   「捕まれば、若旦那はどうなります」
   「刺された男に九割がた非があるので、軽くて寄せ場送りで済むと思うが」
   「そうだすか」
   「だが、逃げると刺青刑と遠島だろうな」
   「そうだすか、必ず自訴させます、少し猶予をください」
   「お奉行に言っておこう、だが、月が変われば南町奉行所の月番になるぞ、そうなれば、北のお奉行とて口出しは出来ぬ、三太どの待っておるぞ」
   「へえ」
 
あと五日で月が変わる。三太は福島屋の若旦那、辰吉を探しまわったが見つからなかった。このまま南町へ持ち込めば、辰吉は島流しになり、短くても五年は解き放ちにならない。
   「上方まで探しに行ったところで、とても間にあわへん」
 もう、江戸には居ないのだろうと三太は気落ちした。かくなる上は、一つしか手がない。三太は北町奉行所を向けて駈け出していた。

   「実は、ゴロツキを刺したのは、わいでした」
 長坂は怪訝に思った。
   「まさか…」
   「ほんまだす、若旦那の名前で女遊びをしていて、ゴロツキに絡まれました」
   「嘘をつけ、三太どのは辰吉が自訴したのではないかと、夜中に奉行所に来たではないか」
   「すんまへん、自分が助かりたい一心で、嘘をつきました」
   「三太どの、奉行所を欺けば罪は重くなるのですよ、それでも良いのですか?」
   「へえ、存分に罰を受けます」
   「島流し五年だぞ」
   「へえ、構いまへん」
   「腕に刺青も彫られるのだぞ」
 そうなっては、商人としてやってはいけなくなるかも知れない。しかし、自分なら耐えられる。三太は決心していた。


 福島屋の店に、過日やってきた同心と目明しがやって来た。
   「ゴロツキを刺した犯人が見つかった、辰吉は疑いが晴れたぞ」
   「ほんまだすか」
 お絹は、それを聞いて「ほっ」と胸を撫で下ろした。
   「刺された男が一昨日死んだので、真犯人が自訴しなかったら、辰吉は重い罪になるところだった」
   「お役人さま、態々お知らせ頂いて、有難う御座います」
   「よかったのう」
   「真犯人は、何故うちの辰吉の名を騙ったのでしょう」
   「福島屋の若旦那だと騙って、女遊びをしていたようだ」
   「わたいの知っている人だすか?」
   「知っているとも、この店の番頭だ」
   「えっ、嘘だす、ここにはそんな番頭は居ません」
   「それが、意外だろうが、三太という男だ」
 お絹は、「そんな…」と、言ったまま、唖然として暫く開いた口が塞がらなかった。
   「それは、何かの間違いだす、間違いに決まっています」
   「まあ、良かったではないか、辰吉でなくて」

 役人が戻った後、お絹はその場に倒れたまま、起き上がれなかった。
   「あの真面目で主人思いの三太が、何でこんなことになったのや」
 使用人がお絹の枕元へ来て慰めるが、そんな声はお絹には聞こえなかった。
   「ほんなら、なんで辰吉は帰ってこないのや」
 お絹にも、ようやくことの次第が分かってきた。
   「三太が、辰吉をお縄付きにさせないために、自分が殺ったと名乗り出たに違いない」
 
 三太は、北町奉行所で裁かれた。
   「どのような事情があろうとも、人の命を奪ったのはふとどき千万、だが、お上にも情けある、非の総ては殺された男にあるとして、三太に江戸十里四方所払いと致す」
 そして奉行は付け足した。
   「なお、上方とても江戸十里四方の外とする」

 このお裁きに、中乗り新三(しんざ)こと守護霊の新三郎が、どう関わったかは、三太自身にもわからなかった。

 
 三太は一足先に江戸を発ったが、江戸の福島屋では、主人の亥之吉はまだ信州から戻らない。戻ってくれば、店の総てを一番番頭に任せて、一家六人上方へ旅立つ計画である。ただ、長兄辰吉の行方が分からないという不安を抱えて、お絹の胸はどんより曇ったままであった。

  最終回 江戸十里四方所払い -物語は次シリーズへ続く- (原稿用紙14枚)

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「第四回 与力殺人事件」へ
「第五回 奉行の秘密」へ
「第六回 政吉、義父の死」へ
「第七回 植木屋嘉蔵」へ
「第八回 棒術の受け達人」へ
「第九回 卯之吉の災難」へ
「第十回 兄、定吉の仇討ち」へ
「第十一回 山村堅太郎と再会」へ
「第十二回 小僧が斬られた」へ
「第十三回 さよなら友達よ」へ
「第十四回 奉行の頼み」へ
「第十五回 立てば芍薬」へ
「第十六回 土足裾どり旅鴉」へ
「第十七回 三太の捕物帳」へ
「第十八回 卯之吉今生の別れ?」へ
「第十九回 美濃と江戸の師弟」へ
「第二十回 長坂兄弟の頼み」へ
「第二十一回 若先生の初恋」へ
「第二十二回 三太の分岐路」へ
「第二十三回 遠い昔」へ
「第二十四回 亥之吉の不倫の子」へ
「第二十五回 果し合い見物」へ
「第二十六回 三太郎、父となる」へ
「第二十七回 敵もさるもの」へ
「第二十八回 三太がついた嘘」へ
「第二十九回 三太の家出」へ
「第三十回 離縁された女」へ
「第三十一回 もうひとつの別れ」へ
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猫爺のエッセイ「短篇集も、よろしく」

2015-02-09 | 短編小説
 Romancer(ロマンサー)に、短篇集を作成しました。スマホサイズで編集してありますので、こちらも宜しくお願いいたします。

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 次回の三太と亥之吉は、最終回です。あれから十年の年月が流れました。亥之吉は自分の商才を試す為に上方から江戸へ出てきて、福島屋銀座店を起して成功しました。二年もすれば上方へ戻るつもりが、十二年も江戸に居続けて、子供も長男辰吉を頭に、二人の弟と二人の妹が生まれています。

 亥之吉旦那は、三太と真吉が立派な商人に育つまでと江戸で頑張って来ましたが、上方の福島屋の大旦那(義父)が病に倒れ、孫達に会いたがっていますので、一家は思いきって三太と共に上方へ戻る決心をしましたが…

猫爺の連続小説「三太と亥之吉」 第三十二回 信濃の再会

2015-02-08 | 長編小説
 朝、福島屋京橋銀座店の店先、三太が浮かぬ顔で掃除をしている。亥之吉が声を掛けた。
   「三太、どうしたのや、元気が無いやないか」
   「へえ、怖い夢を見ました」
   「なんや夢かいな、どうせお化けに追いかけられた夢をみたのやろ、ろくろ首か、一つ目小僧か?」
   「ちゃいます(違います)」
   「提灯か、唐傘か?」
   「もうー、そんな夢とちゃいます」
   「そうか、ほんなら聞いてやるから話してみ」
   「信州の鷹之助先生が病気にならはった夢だす」
   「あはは、それやったら大丈夫や、鷹之助さんには緒方三太郎という名医がついています」
   「そやかて、わいの夢枕に立って、元気に頑張りやと言うたのだす」
   「励ましてくれたのやないか」
   「それが、何や永遠の別れみたいやった」
   「夢なんか、当てにならへん、藩校で元気に教鞭とってはるやろ」
   「うん」

 二人がそんな話をしていると、店の前に二人男が立った。一人はまだ子供のようであった。
   「あっ、先生やおまへんか、緒方梅庵先生だすな」
   「おや、覚えていてくれましたか、亥之吉さんご無沙汰でした」
   「忘れる訳がおまへん、わたいの命の恩人やおまへんか」
   「そんな大袈裟に言わないでください、この子は浩太といいまして、わたしの弟子です」
   「噂は三太郎さんから聞とります、辛いことに遭っても、元気に頑張っていなさるのやそうで、感心しております」
   「恐れいります」
 浩太がペコンと頭を下げた。今度は、亥之吉が三太を紹介した。
   「この子はうちの丁稚で、三太と言います」
   「三太さんですか、弟緒方三太郎の子供の頃の名前と一緒ですね」
   「鷹之助先生の教え子だす」
   「そうでしたか、その鷹之助が病気になったそうで、私どもは見舞いに行く途中です」
   「えっ、三太は「鷹之助先生が病気になった夢を見た」と、心配していたところだす」
   「三太郎が手術をして、助かったそうです、心配しなくてもいいですよ」
 三太が安心したようで、笑顔を取り戻した。
   「実は、信州に戻る本当の理由は、先の上田藩主の松平兼重候がお隠れになったので、ご供養に戻るのです」
 三太が突然に駄々っ子のように言った。
   「わいも信州に行って、鷹之助先生やお鶴ちゃんや源太や田路助さんに会いたい」
 亥之吉が窘めた。
   「何を言うのや、先生の足手纏いになりますやないか」
   「行きたい、行きたい」
   「お前はこの店の丁稚やで、そんな勝手は許されまへん」
   「そやかて、旦那さんは勝手に行って来たやおまへんか」
   「あほ、わしはここの店主や、お前も店主になったら好き勝手できるやないか」
 上方の人間は、すぐに「あほ」を付ける。あほと言われた上方人は、全く気にしない。蛙の面に小便というやつである。
   「今行きたいのに、店主になるまで待っていられへん」
 梅庵が優しく誘ってくれた。
   「私達は構いませんよ」
 亥之吉の女房お絹が、話を聞いていたのか顔を出して言った。
   「あんさんが長い旅に出ている間、三太はこの店の用心棒を務めてくれたのや、わたいも三太に助けられております、行かせてやりなはれ、ご褒美やないか」
 お絹のその一声で、三太の信州へ行きが決まってしまった。
   「先生、すんまへんなあ、足手まといだすけれど連れて行ってくださいな」
   「わかりました、三太ちゃん、一緒に行きましょう」
   「邪魔になったら、そこで帰してください、三太には中山道の旅に慣れた新さんが付いていますさかいに、独りで帰れます」
   「はいはい、新三郎さんのことはよく知っています、三太郎も鷹之助も護って貰ったのですから」


 直ぐに梅庵と浩太と三太は信濃の旅に発つことになった。
   「ほんなら、わいはそこらまで送って行きますわ」
 亥之吉が旅支度をしようとすると、お絹が止めた。
   「あきまへん、あんさんのことやから、また信州まで送って行くのやろ」
   「信州から帰ってきて間がないがな、ほんまにそこらへん迄や」
   「行ったらあきまへん、三太もおらへんのに、夜盗に襲われたら誰が店を護りますのや」
   「男が、ようけ(たくさん)居ますやないか」
   「あんな糸ミミズみたいな男たちに頼れますかいな」

 三太の足取りは軽かった。第一に鷹之助先生に会えるのだ。源太は三太郎先生に剣道を教わって強くなったかな、お鶴ちゃんはまだ若いのに先生の嫁が務まっているかな、また田路助さんに甘えてみたいな、三太の心は早くも信濃路を辿っていた。


 梅庵一行は、まず上田城に上がった。佐貫慶次郎存命時の部下たちが、暖かく迎えてくれた。藩侯にも目通りしてお悔みを述べ、梅庵の近況を尋ねられた。
   「阿蘭陀医学の権威になったそうだな、近隣の大名たちに羨まれて、予は鼻が高いぞ」
   「勿体ないお言葉にございます」
 鷹之助は、まだ明倫堂へ出校していないようであった。上田城を下がると、まっすくに佐貫の屋敷へ足を運んだ。

   「あっ、兄上と三太、来てくれたのですか」
   「そうだよ、鷹之助の身が心配になって来てしまった」
   「嘘でしょ、ご隠居様の墓参りでしょ」
   「それもある」
 梅庵が浩太を紹介した。
   「弟子の浩太だ、この子は見世物小屋に売られて、全身に鱗模様の刺青を彫るられた可哀想な子供だ、驚かないように先に言っておく」
   「三太郎兄上に聞いて知っています、浩太さん、めげずによく頑張っているそうですね」
   「はい、この刺青のお陰で、患者さんによく覚えて頂いております」
   「浩太さんは前向きなのですね」
 
 小夜が小走りで出てきた。
   「母上、緒方梅庵ただ今もどりました」
   「よく戻ってくれました、お殿様へのご挨拶は…」
   「はい、一番に行ってまいりました」
   「そうですか、ご苦労様でした」
   「この方たちが、浩太さんと三太さんですか、どちらも賢そうですね」
   「はい、賢いです」
 この場に亥之吉がいたら、三太の頭を「ぺちん」と叩かれているところである。

 源太と田路助が出てきて、奇声を上げた。
   「あっ、三太や、よく来てくれたなあ」
   「源太、元気そうやなあ、田路助さんも変わりおまへんか?」
   「へえ、おおきにどす、三太ちゃん、男らしくなりましたなぁ」
   「真っ黒やてか?」
   「へえ、一段と」
   「ほっといてくれ」
 昆布屋のお鶴が、武家の若奥さんらしくなっていた。
   「きゃーっ、三太ちゃんが来てくれた、お店の主人がよく出してくれましたなァ」
   「へえ、物分かりのよい旦那さんだすから」

 梅庵、浩太、三太の三人は、今晩佐貫の屋敷に泊まることになり、三人は緒方三太郎の養生所に出かけて行った。
   「兄上、遠路ご苦労様です、ご隠居のお墓には参られましたか?」
   「いや、未だだ、藩侯にはご挨拶してきたのだが…」
   「そうですか、では明日わたしがご案内しましょう」
   「ありがとう、それと、鷹之助をよく助けてくれた」
   「ああ、兄上から頂いた薬のお陰ですよ」
   「虫垂が膿んでいたようだな、いま会ってきたが、すっかりよくなっていた」
   「はい、そろそろ明倫堂に復帰させてやろうかと考えています」
   「鷹之助は無茶をしないから大丈夫だろう」
   「そうですね」

 大人が二人話している間、浩太と佐助と三四郎と、何時の間にか三太も打ち解けて突拍子もない高笑いに包まれていた。
   「三太さん、ちょっと来てくれるかな?」
 三太郎が手招きしながら呼んだ。
   「へえ、何だす?」
   「ちょっと懐へ手を突っ込ませてくれないか」
   「へえ、構いませんが、おっぱいはペチャンコだすで」
   「そんなものを触るのと違います」
   「あっ、わかった、新さんと話をがしたいのだすな」
   「そうそう、新さんは私も護ってくれた守護霊です」  
   「ひゃーっ、冷たい」
 三太が悲鳴を上げた。
   「新さん、お久しぶりです」
   『へい、三太…いや、三太郎さん、お懐かしゅうござんす』
   「きゃーっ、こそばい」
 三太が暴れた。
   「しーっ、静かに」
   「そやかて…」
 三太が煩いが、三太郎は無視している。
   「鷹之助を護ってくれてありがとう、鷹之助には会ってきましたか?」
   『いや、まだです、今夜佐貫の屋敷に泊まるそうなので、ゆっくりと話します』
   「そうですか、阿弥陀様はお怒りではないのですか?」
   『へい、もう怒るのを諦めたみたいです』
   「見捨てられたのと違いますか?」
   『そうかも知れません、あっしは阿弥陀様の膝元でゴロゴロしているよりも、この方が楽しいのです』
   「新さんらしいですね」
   『また三太郎さんに憑いて、旅がしたいものです』
   「楽しかったですね、金儲けも出来たし」
   『人助けでしょ』
   「そうとも言う」

 話は尽きないが、梅庵が佐貫の屋敷に帰ると言う。仕方なく三太も浩太も三太郎養生所の皆さんに別れを告げた。
   「またきっと来るからな」
   「俺達も大人になったら会いに行くよ」
 浩太が少し目を潤ませているが、三太は相変わらず楽しそうにピョンコピョンコしている。その夜、佐貫の屋敷で、三太はお鶴と田路助と、新三郎は鷹之助に憑き、思い出話に更けた。

 翌日はご隠居の墓に詣でて、その足で案内してくれた三太郎と別れ、江戸へ向けて帰っていった。

  第三十二回 信濃の再会(終) -最終回に続く- (原稿用紙14枚)

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猫爺の連続小説「三太と亥之吉」 第三十一回 もうひとつの別れ

2015-02-07 | 長編小説
 信州上田藩校、明倫堂(めいりんどう)で教鞭をとっていた佐貫鷹之助が、突然腹を抑えて教壇に蹲った。急遽、上田城へ知らせが入り、迎え駕籠が差し向けられた。藩医とその弟子たちが集められて、鷹之助の到着を待った。
 同時に、鷹之助の屋敷にも知らされて、緒方三太郎の養生所には、佐貫家の下働き、田路助が走った。
   「鷹之助が倒れたのか?」
   「はい、お腹を抑えて蹲ったそうです」
   「そうか、心配だなァ」
 とは言え、三太郎が駆け付けたとて、藩士以上の身分は士籍医師の役割であり、軽輩医師の三太郎には診させては貰えない。だが、兄として見舞いぐらいはさせてくれるだろう。念のため、元藩侯のご隠居の許可をとっておこうと、緒方三太郎は弟子の三四郎に馬を用意させた。

 城門には二人の門番が立っていた。
   「緒方三太郎です、弟佐貫鷹之助の見舞いに参りました」
   「これは佐貫三太郎様、申し訳ありません、鷹之助様はただ今、藩医様がお診たて中で、お会わせすることが出来ません」
   「わたしとて、以前は藩侯のお脈も取っていた士籍医師の一人でした」
 今は、藩士の身分を鷹之助に譲り、身分を軽輩医師に落としたのであった。
   「そうですか、では侍医さまにお伺いして参りますので、ここで暫くお待ち願います」

 随分待たせたうえに、軽輩医師の出番ではないと、素っ気ない返事であった。かくなる上は、ご隠居の名を出さねばなるまいと思っているところへ、三太郎の藩士時代の同輩が肩を叩いた。
   「佐貫三太郎殿、待っておりましたぞ」
   「これは進藤壱之新様、お久しゅうございます」
   「なんだその言葉使いは、以前のままで良いぞ」
   「しかし、以前とは身分が違います」
   「違うものか、殿がお待ちかねだ」
   「松平兼良様が?」
   「そうだ、鷹之助が病で倒れたのだ、必ず三太郎が駆けつけて来るとおっしゃってな」

 進藤壱之新が先に立って、控えの部屋に案内した。三太郎とて、勝手知った藩侯目通りの控え部屋だ。
   「三太郎、待っておったぞ」
   「お言葉、勿体のうございます」
   「鷹之助に会わせて貰えないのであろう、心配するな、予が会わせてやるぞ」
   「有難き幸せに存じます」
   「それで進藤、藩医の診たてはどうなのじゃ」
   「それが、思わしくないようで、腸の腑が化膿し、ややもすれば穴が開き死に至る難病だと申しております」
   「三太郎、そちも診たててやってくれ」
   「はい、では鷹之助様に会わせていただきます」
   「鷹之助はそちの弟であろう、畏まらずとも良い、早く行ってやれ、進藤頼むぞ」
   「ははあ」

 藩医が詰める医局の隣に治療部屋があり、今で言う集中治療室(ICU)であろう。そこの箱型寝台に鷹之助は寝かされていた。
   「兄上、いらしてくれたのですか」
 鷹之助は、苦痛に歪む表情を義兄に見せた。
  「何だ、その情けない声は」
   「藩医たちの話しているのを聞けば、わたしは十日と持たないそうなのですよ」
   「どれ、わたしが診よう」
   「いいのですか? 士籍医師が騒ぎ立てるのではありませんか」
   「大丈夫だ、藩侯のお許しが出ておる、ご隠居様も心配なさっていたぞ」
   「お会いできたのは、兄上のお陰です」
   「いや、父上のお陰というべきだろう」

 三太郎は、鷹之助の寝間着を捲ると、腹の方々を力任せに押した。
   「痛い、そこが痛うございます」
   「うむ、腸の腑だな、太い方の腸の腑に小指ほどの垂れ下がった何の役割をしているのか未だ不明の突起が有って、これが化膿しているのだ」
 これは虫垂と言って、草の繊維を分解するバクテリアを飼っている虫篭のようなところで、人間にとってはあまり重要ではないが、草食動物では生命維持に欠かせない臓器である。
   「鷹之助安心しろ、この兄が助けてやるぞ」

 水戸の長兄、緒方梅庵が作り上げた局部の痺れ薬と、同じく梅庵が焼酎を蒸留して純度を高めたアルコールという消毒薬がある。それに漢方薬の化膿止めの飲み薬を用いれば、この病は十日ほどで治してみせる自身が三太郎にはある。十日もかかるのは、虫垂を切り取った後を糸で縫い合わせるのだが、その抜糸の為に一度縫った腹膜と皮膚を、数日後にもう一度開いて腸の抜糸後、再度縫い合わせる必要があるからだ。梅庵が長崎から持ち帰った糸や針、メス、注射器などの消毒も念入りにしなければならない。

 三太郎は、藩侯に鷹之助を自分の養生所に連れて行きたい旨をお願いした。藩医たちの反対があったものの、藩侯のお許しが出た為に、ことは順調に運んだ。
   「ふん、どうせ助からないのに」
   「腹を切り裂くなど、非常識にも程がある」
 藩医たちは、尽く緒方三太郎医を批判した。だが、目の上のたんこぶである三太郎が失敗すれば、漢方医の診たてにいちいち口を出す蘭方医を追放できると、含み笑いをする者も居た。

 緒方三太郎養生所、上田藩の下級武士、各使用人の治療は一切無料である。それは、三太郎が上田藩から扶持を頂く藩医だからである。
三太郎は、佐貫家の養子で跡継ぎであった。実子鷹之助が長兄緒方梅庵同様に武士を嫌い学士の道を選んだ為に、三太郎が父慶次郎の跡継ぎとなっていたものである。しかし、三太郎の意志で、鷹之助を藩校の師範として佐貫家の跡継ぎとし、藩侯の希望で三太郎もまた軽輩医師として藩の扶持を頂戴している。

   「鷹之助、約十日間の辛抱だぞ、私とお鶴さんがずっと付き添う」
 三太郎は、鷹之助と女房のお鶴に説明をした。手術は、化膿した腸の腑に垂れ下がる「虫垂」という突起物を切り取り、傷口を消毒して切り取った跡を縫う。開腹した傷口も、一時仮に縫い合わせるが、様子をみて数日後に再び開き、腸の腑を縫った糸を抜き取り、再び開腹部分を本縫いする。その間は、食事抜きで、最初の手術から二日経てば、湯冷ましで口の中を湿らせる程度ことは出来る。腸の腑の抜糸後は、腸の腑が動き始めて屁が出るのを待って、湯冷まし、重湯から始めて、開腹部の抜糸が終わると五分粥、十日後に漸く普通食になるだろう。
 
   「鷹之助、痛いときは痛いと言うのだぞ、極力痛みは取り除くからな」
 現在であれば、腰椎から注射針を刺して局部麻酔をするのだが、三太郎や梅庵にそのような技術はない。メスを入れるところを薬で痺れさせるだけである。痛みがないわけではなく、むしろ、可成り強い痛みに耐えなければならない。三太郎はふと考えた。こんな時に守護霊新三郎が居たら、患者の気を失わせてくれるものをと。

 鷹之助はよく耐えた。こんな華奢な体のどこにこのような忍耐力があるのだろう。若い所為であろうか、治癒するのも早かった。七日目には、もう普通食を平らげ、付き添いのお鶴の肩を借りて散歩が出来るようになった。
 
   「まだ、あまり無理をしてはいけないぞ、傷口が開いてしまうからな」
   「はい、兄上」
 お鶴も礼を言った。
   「先生、ありがとうございました」
   「お鶴さんもよく頑張ったねぇ、お疲れさま」
 明日は、佐貫のお屋敷に戻れると、夫婦は喜び合っていた。
 
 
 緒方三太郎は、登城してまず藩主松平兼良候に礼を述べ、松平兼重候の隠居庵に報告に言った。
   「そうか、鷹之助は回復したのか、それは良かった、なにしろ、わしは鷹之助の名付けの親であるから親も同然である、嬉しく思うぞ」
   「ありがとう御座います」
   「ところで三太、ひよこのサスケは元気か?」
   「えっ」
 三太郎は唖然とした。 
   「あははは、冗談だ、サスケはとっくに死んでおろう」
   「ああ、驚きました」
   「わしがボケたとでも思ったのか?」
   「いえ滅相な、一瞬、四歳の私に戻ったのかと思いました」
   「そうか、四歳であったか、懐かしいのう」
   「懐かしゅう御座います、あの頃は私の父慶次郎も若こう御座いました」
   「慶次郎は、わしのことをよく護ってくれたものだ」
   「ご隠居さま、私も小さいながら、懸命にお護りしましたぞ」
   「そうであった、よく覚えておるぞ」

 ひととき、昔話に花が咲き、ご隠居と笑いながらお別れしたが、三太郎が元気な松平兼重候の姿を見るのは、これが最後であった。ご隠居は、その七日後に庭で小鳥に餌を与えていて、ガクッと倒れた。使用人が倒れているご隠居を見つけたときは、すでに亡くなっていたのだった。

  第三十一回 もうひとつの別れ(終)-次回に続く- (原稿用紙12枚)

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猫爺の連続小説「三太と亥之吉」 第三十回 離縁された女

2015-02-06 | 長編小説
 福島屋の店を開けて間もなく、亥之吉が三太を呼びつけた。
   「三太、ちょっと来ておくれ」
   「嫌だす」
 亥之吉が唖然としている。
   「店の主人が丁稚(小僧)を呼んでいるのに、何も聞かないうちから嫌て何やねん」
   「嫌やから嫌だす」
   「お前なあ、わしを何やとおもとるのや」
   「陰間茶屋の因業爺だす」
   「何ちゅう言い草や、わしはお前の主人で師匠やで、あのことをまだ根に持っとるのか?あれからもう何日も経っとるのに」
   「まだ三日だす」
   「それでも有田屋はうちの客や、すっぽかしたのを謝りにだけは行っておかないとあかん」
   「わいは何も約束した覚えはない」
 三太は奥へ入ってしまった。
 
   「困った奴や」
 入れ代わりに女房のお絹が出てきた。
   「すっかり三太の信用を無くしたようだすなァ」
   「わしのことを因業爺やと言いよった、わしまだ二十歳を過ぎて間がないのに」
   「三太から見れば爺だす」
   「ほんならお前は婆ァか?」
   「歳の離れた姉だす」
   「どついたろか!」

 亥之吉は真吉と一緒に行って貰おうと思った。
   「真吉、ちょっと出て来ておくれ」
   「へい、旦那様ご用は何でしょう」
   「あのなァ、わしと一緒に有田屋へ行って…」
   「嫌です」
   「真吉、お前もか」

 仕方がないので、亥之吉はやはり嫌がる三太を連れて行こうと思った。亥之吉とて商人(あきんど)の端くれ、上得意様を棒にふるわけにはいかないと、三太の重い腰をあげさせようと思った。
   「三太、出てきなはれ、わいと一緒に行って謝っとくれ」
 三太は渋々顔を出した。

   「福島屋亥之吉でおます、こちらの旦那様はお出でになりますかな」
 若旦那が暖簾を分けて出てきた。
   「これは若旦那、この前はとんだ失礼をしました、お詫び申し上げます」
   「わたしも三太ちゃんに嫌われたものです」
 若旦那は、チラチラ三太を見て、「ふんっ」と、目を逸らした。この屋の大旦那も顔を出した。
   「三太は小僧の癖に、客を客とも思わぬ不躾者、馘首(くび)にしますかな?」
 亥之吉、頭にカチンときた。
   「三太のどこに罪があると言いますのや、嫌なものを嫌とはっきり言うただけやおまへんか」
   「商人は客を大切にするものです」
   「そやからこうして謝りにきています、それでもまだ文句があるなら、お上に訴えておくなはれ」
   「倅は深く傷ついていますのや、謝って済むと思いますのか」
   「不躾者はおたくの息子でおます、うちの大事な小僧を誘い込んで、何をする積りだしたのや」
 有田屋も負けてはいない。
   「うちの倅は男色だと言うのか」
   「そんなことは知りまへん、うちの三太は、ただの子供やおまへん、霊能力で若旦那の心を読んだうえで、はっきりと嫌やと言うたのだす」
   「ほう、どう読んだか言って貰いましょうか」
   「有田屋さん、若旦那が『酒や博打や女で家財を蕩尽されるよりも安いものだ』と、子供を連れ込むのを黙認しとりますなァ、文句を言ってきた親には、一分の銭を渡して納得させていましたやろ」
   「福島屋さん、そんな出鱈目を誰から訊いたのですか」
   「今、言ったやおまへんか、三太が有田屋さんの心に訊いたのだす」
   「わしは話した覚えはない」
   「当たり前だすがな、心に訊いたと言ってますやろ」
   「わしは知らん」
   「若旦那にも訊いてまっせ」
   「何を…」
   「女よりも、男の子供が好きやと…」
   「言っていない」
   「最近では、大工手伝いの伝五郎さんの息子に手を出しましたなァ、ねえ若旦那」
   「えっ」
 若旦那、子供の親の名を出されて「ずしん」と来たようである。
   「有田屋さん、伝五郎さんにごてられて(文句を言われて)、一両二分取られましたな」
 有田屋も、「ギクッ」とした。
   「ほら、覚えがありますやろ」
 二人が黙った。亥之吉は、ここぞとばかり尻を捲って二人の心に踏み入った。
   「わいは、何も若旦那が男色家とも、男色が悪いとも言っとりまへん、ただ、子供は止しなはれ、親たちを金で抑えても、子供は心が傷付いたまま大人になっていくのだす」
 亥之吉は三太を見て更に言葉を続けた。
   「世間の人に何と言われても、嫌なものは嫌と妥協せずに言える三太を、わたいは誇りに思っとります、そんな三太を馘首(くび)になんぞしますかいな」

 帰り道、亥之吉は三太に話しかけた。
   「少しは、わしの気持ちを分かってくれたか?」
   「へえ、そやけど、上客を一軒無くしましたな」
   「何の構うもんか、お得意の一軒や二軒、わいは浪花の商人や、潰せるものなら潰してみい」
   「誰も潰す言うてないけど…」

 
 ここは信州、緒方三太郎の養生所である。
   「先生、今日の患者さんはこの方が最後です」
 弟子の三四郎が三太郎に告げた。
   「そうか、では私は文助兄さんのところへ行って、卯之吉さんに会ってくる」
   「お母さんが、徐々回復しているのを報告に行くのですか?」
   「それもあるが、お宇佐さんのことを常蔵(卯之吉)さんに相談してくるのだ」
   「山村堅太郎さんのお嫁にするのですね」
   「そのことをどうして知っているのだ」
   「勘と言うか、なんとなく聞こえてきたと言うか…」
   「盗み聞きしたな」
   「勝手に聞こえてきたのは、盗み聞きとは言いません」
   「では何と言うのだ?」
   「漏れ聞きです」

 馬を引き出して、文助の店に向かっていると、道端に蹲る女が居た。どうやら熱があるようだ。
   「どこか痛むのか? 私は医者だ」
   「はい、でも暫くじっとしていれば落ち着きます」
   「そうでもなさそうではないか、私が診てあげよう」
   「いえ、私は文無しです、お代金が払えません」
   「そんな心配をしている場合ではないだろう、手を出しなさい」
 女は、恐る恐る手を差し出した。
   「いかん、熱が高過ぎる、取り敢えず、この薬を飲みなさい」
 三太郎は持っていた竹筒の水と、頓服薬を差し出した。
   「お金は頂戴しないので、安心して飲みなさい」
 女は、素直に薬を飲んだが、やがてぐったりとした。
   「馬に乗れたらいいのだが、この様子ではそれも叶わぬ、私が背負って戻ろう」
 三太郎の養生所から然程離れていないところだったので、四半刻(30分)程で戻ってきた。
   「三四郎、もう出掛けぬから馬を厩舎に繋いでくれ」
   「はい、先生」
 三太郎は女を診療部屋に運んだ。すぐさま女を診ていた三太郎の顔が一瞬曇った。
   「いかん、高熱の所為で心の臓が可成り弱っている、解熱剤は先ほど飲ませたので、少しずつ湯冷ましをのませてやってくれ」
   「はい、先生」
 弟子の佐助が用意する為に立った。三太郎の実母お民は、井戸水を汲み、手桶に満たして持ってきた、手拭いを濡らして、女の額を冷やす為だ。

 その日、夕日が沈む頃になって、女の表情から苦痛が和らいだように思えた。
   「まだ安心は出来ない、今夜がヤマだろう、安静にしてやってくれ」
 夜が更けて、弟子たちは寝かせたが、三太郎は寝ずの看病をした。夜が明ける頃になると、女は安らかな寝息を立てていた。

   「先生、女の人が目を覚ましました」
   「そうか、では少し重湯を飲ませてみよう」
   「はい、すぐに支度します」
 佐助も三四郎も、よく働いてくれる。早くも診療が出来るようになっており、三太郎の留守の折は、二人で相談しながら薬も出している。三太郎にとっては、頼もしい弟子たちである。
 
   「ここは?」
 女が口を開いた。
   「私の診療所だ、言っておくが、お金は頂戴しないので安心して静養しなさい」
   「ありがとうございます」
   「私はここの医者で、緒方三太郎と申す、あなたのお名前は?」
   「はい、雪と申します」
   「お雪さんですか、お雪さんはどちらへ行かれる途中で倒れたのかな?」
   「嫁ぎ先で離縁されて、実家へ戻るところでした」
   「よろしかったら、離縁された訳を聞かせてくれぬか?」
   「嫁に貰われて、三年経ったのに子供が出来なかったことと、私が病気がちで婚家の働き手として役に立たなかったからです」
   「子供が出来ないのは、お雪さんの所為ばかりとは言えない、病気がちなのは、随分無理をさせられた所為のように思うが…」
   「ありがとうございます、こんなに優しく言って頂いたのは初めてです」
   「わかりますよ、病気になっても、休ませて貰え無かったのだろう」
   「それが嫁の務めの常なのです」
   「酷いことだ」
 今まで我慢をしていたのであろう、三太郎の労りの言葉に、思わずお雪は涙したようであった。
   「実家に帰っても、私の居場所はありません、世間体を気にする親兄弟ですから、すぐに追い出されることでしょう」
   「それで行く宛は?」
   「ありません、どこかの宿場で、飯炊き女にでも雇って貰います」
   「そうか、それではどうだろう、お元気になったら、ここで働かぬか?」
   「えっ、本当ですか?」
   「今は養生所とは名ばかりで、多くの患者さんをお預かりすることが出来ない、せめて十人以上の患者さんに養生していただけるようにしたいのだが、人出が足りないのだ」
   「ありがとうございます、それで私に何が出来ましょう?」
   「私の母と共に、患者さんや私どもの食事の世話です」
   「私に出来ましょうか?」
   「患者さんが増えれば、賄い役があと三人はほしいところだ」
   「ぜひ、働かせてください、お願い致します」
   「わかった、では養生して元気になってくだされ」
   「はい、頑張ります」
   「いや、頑張らなくてもいいのだ、決して無理をしてはいけない」
 元気になったら実家に戻り、離縁された訳を話して、これから独り身で生きて行くことを伝えてくると、お雪は明るい表情を見せた。
  
  第三十回 離縁された女(終)-次回に続く- (原稿用紙14枚)

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猫爺の連続小説「三太と亥之吉」 第二十九回 三太の家出

2015-02-04 | 長編小説
 神田の菊菱屋へ使いに行った帰り道、三太の後を追うように付いて来る男が居た。三太は何気なく振り返ってちらっと見たが、そのまま気付かぬふりをして歩いていた。自分を付けているのか試そうと三太が走ってみると、男も走って付いてくる。
   「新さん、あの男、わいに用が有るのやろか?」
 守護霊の新三郎に問いかけてみた。
   『悪い男には見えないが、執拗だね』
   「気持ちが悪い」
   『まあ、気付かないふりをしていましょうぜ』

 三太は、この男を見るのは初めてではない。自分に何の用があるのだろう。三太は思いきって、確かめてやろうと思った。
   「お兄ちゃん、わいに何か用だすか?」
   「三太ちゃんですね、福島屋の小僧さんの」
 男なのだが、話すと女っぽい。
   「へえ、さいだす、何でわいの名前を知っているのだす?」
   「お店の客ですよ、ほら何時ぞやお買い物でお店に行きましたでしょう」
   「そうだしたか、毎度おおきにありがとうさんでございます」
   「そこでね、三太ちゃんが大好きになってしまったの」
   「弟のようにだすか?」
   「まあ、そんなところかな」
   「また福島屋をご贔屓(ひいき)に…」
   「はいはい、度々行かせてもらい、三太ちゃんに手助けを願いますよ」

 帰りを急いでいるのでと別れようとすると、引き止める。
   「ねえ、そこらで何か美味しい物でもご馳走しましょうか?」
   「すみまへん、仕事がおます、すぐに店に戻らんとあかんのだす」
   「ちょっとくらい、いいではありませんか、私も店まで行ってご主人に謝ってあげます」

 仕方がないので茶店に付き合って、蜜たらし団子を一皿食べた。代金を払おうとすると、男が止めた。
   「いいわよ、わたしが誘ったのだから、それよりも…」
 今夜、男の家に泊まりに来いという。
   「行けませんよ、わいは福島屋に奉公している身、そんな勝手なことは出来まへん」
   「わたしが、旦那様に頼んであげる」
 男は店の客が頼めば、店主は断らないと自信ありげに言い、とうとう店まで付いてきてしまった。

   「これは、これは有田屋の若旦那、いらっしゃいませ」
 亥之吉は、この男を知っていた。
   「今日は、旦那様にお願いがあって参りました」
   「いつもご贔屓にしていただき、ありがとうございます、何なりとお申し付けください」

   「そうか、あいつか」
 三太も気が付いた。いつも恥ずかしそうに顔を隠し、お伴のおなごしに喋らせていたので、三太にはこの若旦那の印象が残らなかったのだ。
   「それでねえ、今夜一晩、三太ちゃんをうちの店にご招待したいのですが、都合は如何なものでしょうか?」
 三太は、当然旦那は断ってくれるものと思っていたが、あに図らんや亥之吉は「どうぞどうぞ」と、揉み手をする有り様。
   「それでは、今夜店を閉めましたら、有田屋さんまで三太を行かせますので、宜しいように」

   「こいつは男色(なんしょく)や」
 三太はがっかりした。「陰間」のことは三太も知っている。その陰間として、亥之吉はこの男色家に自分を差し出そうと言うのだ。一晩とは言え、何をされるか分からないのに、この無責任な旦那が三太は憎らしかった。
   「絶対嫌や」
   「そんなに痛いことはせえへん、我慢してやりなはれ」
 亥之吉はニヤニヤ笑っている。
   「嫌や、嫌や、それやったら旦那さんが行っとくなはれ!」

 その日、日が暮れる前に、三太の行方がわからなくなった。真吉に有田屋へ走らせたが、三太は行っていなかった。
 亥之吉は、心配になり、菊菱屋へ走ったが、政吉も知らないという返事だった。
   「日が暮れたら、怖くなって戻ってくるやろ」
 亥之吉は、三太を有田屋に泊めるつもりは無かったのだ。ちょっと三太を怖がらせて、宵の口に自分が迎えに行くつもりだった。
   「しまった、悪戯が過ぎた」
 亥之吉は後悔したが、三太はその夜戻らなかった。お絹は亥之吉から事情を聞いて、激怒した。
   「何てことをしたのだす、あんさんは三太の気持ちを考えたのだすか」
   「すまん」

 次の日も、またその次の日も、三太の行方は杳(よう)として知れなかった。
   「三太は、元奉公していた浪花の相模屋長兵衛さんのところへ戻るつもりかも知れへん」
 そうなれば、三太を託してくれた長兵衛さんに合わす顔がない。亥之吉は思いきったようにお絹に言った。
   「わし、浪花まで行ってくるわ、三太に謝って戻って貰う」
   「まだ、浪花に戻ったと決まったわけやおまへん」
   「そやかて、日が経つばかりで、埒(らち)が明かへんやないか」
   「落ち着いて考えてみようやおまへんか」
   「どう落ち着くのや?」
   「考えてみれば、可怪(おか)しいことがおます」
 お絹は、菊菱屋の政吉と新平のことが引っかかっているのだと言う。
   「そうやおまへんか、三太が行方不明やと言うのに、一緒に探そうとは言ってくれまへんし、心配してここへも来てくれまへんやないか」
   「そう言えばそうやなァ、政吉も新平も、三太には世話になっているのに、知らんふりや」
   「そうでっしゃろ、あの二人何か隠しておりまっせ」
   「よし、今から政吉のところへ行って、問い質(ただ)して来る」
   「怒ったらあきまへんで、下手(したて)に出て訊くのだすよ」
 亥之吉は天秤棒を担いで、駈け出して行った。

   「政吉、あれから三太がここへ顔を出さなんだか?」
   「へえ、来まへんどす」
   「そうか、どこへ行ってしもうたのか、まだ戻らんのや、わし心配で、心配で、飯も喉に通らん、このまま行ったら、わしが寝込んでしまいそうや」
 亥之吉は、がっくりと肩を落として二人に見せた。見るに見兼ねて、政吉がポツリと言った。
   「もしかしたら、守護霊新さんのお墓がある経念寺(きょうねんじ)へ行ったのと違いますやろか」
   「何でそう思うのや?」
   「新さんに連れられて、死んだ定吉兄ちゃんのところへ行く気かも知れまへん」
   「お前なあ、そんな縁起でもないことをいけしゃあしゃあと、よく言えるなァ」
   「ふと、そう思ったのどす」
   「嘘をつけ、今までここに三太を隠していたのやろ」
   「いえ、決して…」
   「新平はどうや、子供は正直と言うやろ、お前も嘘をつくのか」
   「それが…」
   「それが何や、嘘ついたら死んだ時閻魔さんに舌を抜かれるのやで」
   「それが…」
   「政吉に口止めされているのやろ、構へん言うてみなはれ」
   「若旦那、すみません、全部打ち明けます」
 政吉は慌てた。
   「こら待て、新平、三太との約束を破るのか」
 為て遣ったり顔の亥之吉。
   「それ見い、二人して、いや三太と三人して、わしを困らせようとしていたのやな」
   「すんまへん」
   「それで三太は何処に居るのや?」
   「経念寺へ行きました」
   「それだけは、ほんまやったのか」
   「へえ」
   「何しに?」
   「今日あたり、旦那さんがここへ来はるやろさかいに、隠れているのがばれたら菊菱屋に迷惑がかかると…」
   「あほか、経念寺は子供の駆け込み寺やないわい」
 見つけ次第、どつきまわしても連れて帰ると、亥之吉は熱り立って経念寺に向かった。

   「三太親分が叱られる」
 新平が心配顔で悄気(しょげ)かえっているが、政吉は亥之吉の性分は分かっている。
   「怒ったり、どついたり出来る亥之吉兄ぃやないわ、きっと泣いて謝りよる」 

 経念寺は、住職の亮啓和尚(りょうけいおしょう)が応対してくれた。
   「三太、出てきなさい、旦那様のお迎えですよ」
 三太が、決まり悪そうに出てきて、和尚の後ろに隠れた。
   「若旦那が喋ったな」
   「いや、新平を脅してやったら、あっさり吐いた」
   「あいつ、正直者やからな」
 亮啓和尚は、三太に礼をいった。
   「久しぶりに新三郎さんに会えて、和尚、嬉しかったです」

 亥之吉は、政吉の言う通り、怒りもどつきもせず、「わしが悪かった」と、三太に詫びた。二人連れだって帰り道、桶屋に寄って三太の紛失した天秤棒の代わりになる、三太の背丈に合った水桶用の天秤棒が有ったので買った。手に持つと、ずっしりとして樫の木の匂いが快かった。

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