雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺のエッセイ「生理的嫌悪感」

2015-06-26 | エッセイ
 その昔、「生理的嫌悪感」という表現をしたら、「それは、女特有のものだ」と先輩に嘲笑われたことが有った。
 どうやらこの先輩、「生理的」を月経に関連したものだと思っているたらしい。生理的嫌悪感を覚えるのは男性にもある。男性の場合は、本能的と言い換えた方が良いのかも知れないが…。

 Webの記事では、なんとなく「コイツ好かん」と思ったら、どうやら記事にも「いちゃもん」を付けたくなるようだ。SFだと断っているのに、読んで「道理に反している」と、むかつくようだ。そんなことを言えば、あの愉快な「星新一」のショートショートなど、とても読めないと思うのだが、有名作家が書いたものなら、道理に反しても受け付けるのは、やはり個人に対して「生理的嫌悪感」があるのかも知れない。

 猫爺が書いたものにクレームをつけようと思えば、全編にその対象が溢れんばかりに見つかるだろう。なにしろ背景を江戸中期と設定しているのに、清水の次郎長の名が出て来るは、少年時代の太田仁吉も登場する。そればかりか、たしか江戸川コナンの名も出した筈だ。しっちゃかめっちゃかで自由奔放だが、本人が一番楽しんでいるのである。

 今まで、登場するのはヒーローばかりであったが、ここらでヒロインも登場させようと「江戸の辰吉旅烏」をお休みして、水戸藩の姫君「朱鷺姫」を書いている。家事が終わった後の午前中と、午後9時以降にPCの前に座っているが、すぐ足腰が痛くなってくる。一旦夢中になってしまうと、二三時間は直ぐに経ってしまうので、大袈裟かも知れないがエコノミー・シンドロームにも気を付けなければと思っている。

 数日前に投稿した「進藤祥太郎」は、切腹した父の亡骸を荼毘に付す場面がある。あまりリアルに表現をすると重くなるので、サラッと書いたつもりである。
 では、祥太郎は何故父の遺骸を棺桶のまま荼毘に付さずに出したのであろうか、それは父の悔しい思いと、祥太郎が父の仇を討ちたいと思う気持ちを、父の遺骸と共に燃えるのを心に焼き付けておきたかったからだ。
 空になった桶はどうしたか。勿論叩き壊して薪にしたのである。何しろ、祥太郎には時間がなかったから、未明までには全て終わらせたいと思ったのだ。あの場面では、祥太郎の父との別れを表現するだけで良かったのである。

猫爺の短編小説「進藤祥太郎 後編」  

2015-06-24 | 短編小説
 泣いて縋る夫婦を残して旅立つのは心残りだが、甥とは言え血の繋がった親戚である。きっと二人を仕合せにしてくれるだろうと、六兵衛の家を後にした。
 街道は、薄日が射しているのに、粉雪が舞ってきた。懐には一文の銭も入っていない。今度こそは野垂れ死にをするかも知れないと思ったが、祥太郎はくよくよすることはなかった。懐には父が居る。腰には父の血が付着したお守りがあるのだ。

 町に出ると、今まで贔屓にしてくれた家に挨拶をして回った。中には、行商を止めて旅にでる訳を聞いてくれる人も居た。
   「そうかい、江戸へ行きなさるか」
 これは少ないけれど餞別だよと、紙に包んで渡してくれる人も居た。こんな積りできたのではないと遠慮すると、「気は心」と、祥太郎の懐に入れてくれた。紙包みの中に一朱、二朱と、祥太郎にとっては大金が入っており、それはそれで祥太郎の心を痛めた。

 道中、旅の女が道端に蹲っていた。腹を抑えて、苦しそうにしている。祥太郎は駆け寄り、女に声を掛けた。
   「お姉さん、どうかしましたか?」
   「はい、急に差し込みが来まして…」
   「それはいけません、近くの旅籠まで背負ってお連れしましょう」
   「ありがとうございます」
 背負った途端に、女の手が懐に「さっ」と、差し込まれた。
   「お姉さん、冗談はいけませんや、腹痛は嘘ですね」
 女は祥太郎の背中から離れて、一間おいて立ち祥太郎を睨みつけた。
   「お姉さん、私はあなたを捕らえてつき出そうとは言いません、僅かだが私の懐の銭には心が篭っておりまして、差し上げる訳にはいかないのですよ」
 この銭は、餞別に貰ったもので、この銭でやりくりして江戸まで行かなければならないと説明した。
   「そうかい、済まなかっためねぇ、わかったよ」
   「ありがとう」
   「別に礼を言われる筋合いのものではないけどね」
   「わかってくれて、ありがとうと言う意味だよ」
   「あんた、可愛いね、弟にしたい位だよ」
 掏摸の弟なんて、まっぴら御免だと、心の中で断った。女と別れて暫く行くと、女が後ろを付けてくる。
   「まだ私の懐を狙っているのかい」
   「懐は狙ってはいないよ、ちょっとあんたに惚れちまってね、もう少しあんたの旅姿を留めておきたいと思ったのさ」
 「勝手にしろ」と、その後は振り返りもせずに歩き続けたが、何時の間にか女は姿を消していた。


 何とか野宿をせずに江戸まで着いた。懐の銭は姿を消していたので、寺を見付けて賃金は要らないから寺男に雇ってくれないかと尋ねて歩いた。食と住が満たされれば御の字なのだ。
 もう人も絶えたのであろう山の荒れ寺を見つけたので、せめて一泊本堂の隅を借りようと中に入ると、思いがけず仏前で酒を食らっている僧が居た。
   「誰だ!」
 僧は呂律がまわらない程に酔っていた。
   「旅の者ですが、今夜一晩仏様のお膝元をお借りしようと思いまして」
   「そうか、本堂の隅に茣蓙が置いてあろう、そこで休みなさい」
 僧は、そう言った積りらしいが、これは祥太郎が判断した言葉である。
   「旅の者、腹が減っておろう、ここへ来なさい」
 先程から、祥太郎が嗅いだこともない美味そうな匂いがしていた。
   「檀家の鉄砲撃ちが猪を仕留めたと届けてくれたのだ」
 何と生臭坊主ぶりだと祥太郎は呆れた。酒ばかりではなく、猪の肉を食うなど、仏に仕える者とは思えない。だが、祥太郎も空腹に耐えていたのだ、食欲に負けて僧の元へ躙り寄った。
   「美味かろう、どうせ残せば腐るものだ、遠慮せずに食え」
   「はい、頂きます」
 獨酒は酢に近いもので不味かったが、猪の肉は旨かった。たっぷりよばれて、その夜は茣蓙を重ねてホカホカの寝床で寝た。

 翌朝、住職は昨夜のことを何も覚えて居ず、祥太郎が寝ているのを見付けて、大騒ぎをした。
   「貴様、何者だ?」
   「昨夜、和尚様の許しを得たではありませんか、私は旅の者で越後高崎藩の武士、進藤綱右衛門の倅、祥太郎と申します」
   「そうであったか、これは失礼申した」
 祥太郎は和尚の前で正座をして、仏前の板の間に両手をついて、改めて頭を下げた。
   「和尚様にお願いがあります、私を寺男としてここに置いてくださいませ」
   「それは出来ぬ、檀家も去って行って、今は片手の指で数えるくらいだ、墓も僅かで墓男に払う銭などはない」
   「賃金など要りません、寝泊まりをさせて頂き、食べ物は私が修行僧に化け、托鉢して手に入れて参ります」
   「経は読めるのか?」
   「写経をさせて頂ければ、直ぐに憶えてみせます」
   「と言うことは、字は書けるのだな」
   「はい、読み書き算盤はお手のものです」
   「寺に算盤は要らんが、字が書けるなら重宝いたそう、寺男ではなく、修行僧として居てもらおう、化ける必要はない」
   「有難う御座います、それから、荒れた建物も私が修理致します」
   「そうか、頼むぞ」

 その日から、祥太郎は建物の荒れた様子を見て回り、紙になにやら書き留めていた。夜は本堂に上げられた蝋燭の灯りで写経をして、和尚が経を読む朝に、懸命にその音を記憶した。三日目には、覚えたての経を読み、托鉢にも出かけた。
 托鉢とは、ただ物乞いをすることではなく、信者に功徳を積ませる修行である。従って托鉢僧は礼を言ってはならないとされている。

 祥太郎も、その知識を授けられ、喜捨を受けても「有難う御座います」とは言わないが、軽く頭を下げて頂戴した。
 また、困っている人をみると、必ず駆け寄って手助けするなど、感謝の意が常に体から滲みでていた。
 これは、修行の身にとっては不謹慎なことなのだが、祥太郎は町の人気者になった。頼まれごとがあると、僧衣を着替えて町に出、その器用さを活かして屋根の修理屋、戸板の修理をしてあげた。
 何のことはない、ここでも「祥ちゃん」と呼ばれて、町の便利屋になっていった。また、板切れや、余った漆喰を頂いて帰り、寺の修理にも力を入れた。
 墓地は、せっせと草を毟り、傾いたり汚れたりした墓石を、まるで真新しいかのように修復してみせた。

 やがて檀家も増え、住職も酒を断ち、生臭坊主から、信頼される和尚として見事に立ち直った。
 それから五年の年月が流れたある日、祥太郎は「一ヶ月ほどお暇が欲しい」と、住職にお願いをした。その頃は寺男も一人雇っていたので、住職は快く承知してくれた。

 祥太郎は、この寺へきた時の旅の衣装に着替えて旅に出た。来た時と違っていたのは、頭が丸坊主になっていたことである。
   「以前に仕えてくれた下男、平助のことが気がかりですので、一度、忍びで国へ帰って参ります」
 そう言い残すと、祥太郎は腰に脇差しを差して旅に出た。

 街道は、桜の花が咲き誇り、花粉の匂いで咽返っていた。もう二人、気になる人達が居た。六兵衛夫婦である。

 あの懐かしい農家は、健在かのように見えた。だが近寄ってみると、屋根には穴が開き、壁は所々崩れ落ち、廃屋と化していた。祥太郎は近燐の農家に立ち寄り、六兵衛夫婦の消息を尋ねたところ、祥太郎が去ってその翌年に妻が亡くなり、六兵衛も妻を追うように畑仕事をしていて、倒れたそうであった。
   「わたしが意地など張らなかったら、二人はもっと長生きが出来ただろうに」
 父が無くなった時でさえ涙を流さなかった祥太郎で有ったが、遂に大粒の涙を落としてしまった。その涙は、今は荒れ放題の六兵衛さんが大切にしていた畑の土に染みこんでいった。

 六兵衛の甥に会って、文句の一つも言ってやろうかと思ったが、夫婦は戻ることはなく、詮無きことと諦めてその場を立ち去った。

 越後高崎藩に戻り、もと下男の平助の住処に来てみた。平助の息子夫婦が出て来て、深々と頭を下げた。
   「その節は父がお世話になりました」
 そう告げると、平助もまた祥太郎と別れて間もなく病の床に着いて、一ヶ月後に亡くなったと伝えられた。
   「そうそう、生前、坊っちゃんが見えたら渡して欲しいと預かったものがあります」
 平助の息子は、奥の部屋から、祥太郎の父が差していた本差を持って出てきた。文助に継いで、この息子が手入れをしていたのであろう綺麗なままの刀剣であった。
   「これは、文助さんにわたしが差し上げたものです」
   「いえ、これは坊っちゃんのお父上の魂が宿っています、あなた様にお返し致しましょう」
 祥太郎は、笠をとって見せた。
   「わたしは、ごらんの通り出家の身です、刀は不要なのです」
   「でも、脇差しは差しておられるではありませんか」
   「これは抜けません、父の形見のお守りなのです」
   「お坊ちゃんにお返しする為に、手入れを欠かさなかったのです」
 息子は、土間に降りて、祥太郎の前に手を着いた。
   「お坊っちゃんは、まだお聞きになっていないのですか?」
   「何でしょう」
   「お父上、進藤綱右衛門様の罪が晴れて、ご上司の罪が暴露され、切腹を賜ったのですよ」
   「そうですか」
 祥太郎は冷めていた。どなたの罪であろうとも、父は生きて帰らないのだ。
   「藩では、祥太郎様を探して、お家再興をお許しになる御積りです、お母様も祥太郎様をお探しでしたよ」
   「それは、お断りしましょう、わたしは生涯今のままで、父上と文助おじさんの霊を弔って生きて参ります」
 祥太郎の心の中には、六兵衛夫婦の名もあったことは言うまでもない。

 祥太郎は、江戸に帰り着いた。住職は、「もしや帰って来ないのではないか」と、不安だったと打ち明けた。
 この寺は、元々は山里村の菩提寺である。さびれて見る陰もなかったが、檀家の人々が寄り集まって徳を積み、再び菩提寺としての格調を取り戻していった。

 ここで、祥太郎は住職から「祥寛」という名を頂き、日々精進するなか、ある日、生まれ故郷の越後の国は高崎藩から使いが祥太郎を捜しに来た。祥太郎が僧侶になっていると聞きつけてきたのだそうである。

 六十石二人扶持で抱え、進藤の家を再興させるので帰国せよと言うものであった。父の時代の約二倍の禄高である。
 祥太郎の母も、「早く祥太郎を見付けて欲しい」と、高崎藩士の父に催促ているという。祥太郎に考える余地はなかった。「父を生きて返して頂かない限りは、きっぱりとお断りします」と、使者を帰した。  (終)

   -「進藤祥太郎 前編」に戻る-

猫爺の短編小説「進藤祥太郎 前編」   (原稿用紙全69枚)

2015-06-24 | 短編小説
 越後高崎藩の下級武士進藤綱右衛門は、早朝、妻の紗綾を呼び一人息子の祥太郎を起こし父の部屋に来るように伝えさせた。
 祥太郎は眠い目を擦りながらも、身嗜(みだしな)みを整えて父の部屋の前で朝の挨拶をした。そっと襖を開けた祥太郎は、ただならぬ父の様子に身を引き締めた。
   「入りなさい」
 死に装束に身支度をした父が、物静かに座っていた。
   「父の近くに来なさい」
 祥太郎は、父のそばに躙(にじ)り寄り、畳に両の手をついて頭を深く下げた。
   「今から父が話すことを、よく聞きなさい」
   「はい、父上」
 祥太郎は十五歳、立派な大人である。狼狽えることなく、ゆっくりと頭を上げて父の目をしっかりと見つめた。
   「父は、今から登城致すが、生きてこの屋敷の敷居を跨ぐことはないであろう」
 勘定方の末端に仕える父の主な仕事は、金銭の出納を記録することである。とは言え、下級であるが故に掃除、茶汲み、使い走りと、下僕扱いの雑用に追われる毎日である。
   「父にどのような罪を着せられて、どのように屈辱を浴びせられようとも、父は潔白である、お前だけは信じて欲しい」
 母は、武士の娘で気位(きぐらい)が高い。恐らく自分を信じてはくれぬ筈である。ただ怒り狂って実家に戻るであろうが、恨んだり憎んだりせずに、そっとしておいてやって欲しい。父は決して自己弁護はせぬ積もりである。黙して立派に切腹してみせる。父の切腹は、決して贖(あがな)うものではない。沈黙の抗議である。祥太郎は、藩を追われ、屋敷を出て行かねばならないだろうが、挫けずに誇りを持って生きて行って欲しい。祥太郎にとって、一番大切なものは、祥太郎の将来である。父の濡れ衣を晴らそうなどと思わず、また、父に濡れ衣を着せた者を見つけ出して仇をとろうなどと考えずに、自分も他人の命も大切にして生きて行きなさい。いつの日か「あの世」とやらで父に会うときは、胸を張ってやって来なさい。
   「わが亡骸は、葬儀も供養も許されないであろう。せめて、川原で荼毘(だび)に付し、灰は川に流して欲しい」
 お前が藩校に通うのも、今日が最後になろう。普段通りに一日を過ごして来なさい。帰ってくれば、父は棺桶の中で、そなたを出迎えよう。父の生涯は、決して無駄なものではなかった。なぜなら、祥太郎という素直で清い心の倅をもうけ、このように立派な大人に育て上げることが出来たのだから…。
   「もう一度お前だけに言わせてくれ、父は潔白である」

 父は、白装束の上に羽織袴を着重ね、大小の刀を腰に差すと、普段と変わりない笑顔を見せて屋敷を出て行った。
   「あなた、行っていらっしゃいませ」
 母は、何も聞いていないのであろう。無感情に夫を送り出すと、さっさと奥へ下がってしまった。
 祥太郎は、ぐっと涙を堪えて父を見送り、「父上、さらばです」と、頭を下げた。

 藩校では、何事もなく一日を終えたが、帰り際に祥太郎が属す高等部の師範に呼び止められた。
   「祥太郎、何が起きても、気を落してはならぬぞ」
 普通なら、祥太郎は「何事で御座います」と、聞き返したであろうが、黙って頭を下げて帰途についた。

 門の外に、二人の中間(ちゅうげん)が祥太郎を待ち受けていた。父の亡骸を運んで来たのであろう。二人は上役から受けてきた口上を、祥太郎に向かって一頻り無感情に告げた。
   「そうか、やはりそうだったか」
 祥太郎は、中間たちに一言の労いの言葉も、お礼の言葉も意識的に告げなかった。二人と別れて屋敷の門を潜ると、狭い庭に大きな棺桶が置かれて、その前で老いた下男が膝を着き、合掌していた。その老いの目から流れ落ちる涙が夕日を受けて、血のように見えた。
   「坊ちゃま、お父さまが、お父上が…」
 その言葉の先を涙が消し去っていた。
   「知っております、今朝、父上とお別れを致しました」
   「おいたわしい旦那様、こんなにもお優しくて清い心の旦那様が、藩の金を横領したなど有り得ないことでございます」
   「平助、ありがとう、父上は潔白です」

 今夜、父上の亡骸を川原にお運びして荼毘に付す、平助、申し訳ないが手伝ってはくれぬかと頼むと、平助は不満顔であった。
   「坊っちゃん、それはいけません、今夜は通夜をなさいませ」と、忠告された。
   「それが出来ないのだ、明朝、私は追放されて、旅に出なければなりません」
   「そうでしたか、お可哀想な坊ちゃま」
 この屋敷の使用人は、平助たった一人である。なんとかこの平助に有り金を全て渡してやりたいと願って屋敷の中を捜し回ったが、たった一文とても見当たらなかった。母の持ち物は全部持ち帰ったらしく、残っているものは、父と祥太郎の物ばかりである。その中で金目のものと言えば、父の脇差し大小二本だけである。その内の脇差は、父が切腹に使ったのだろう、柄にべっとりと血糊が付着していた。
   「平助、屋敷の金は母が持ち帰ったようで一文も残っていない、お前にやれる金目のものと言えばこの大刀と、父の羽織袴と印籠だけだ」
   「箪笥などの家具は、使えるものがあれば、どれでも持って行ってくれ」
 祥太郎は申し訳無さそうに平助に頭を下げた。
   「坊っちゃん、どうぞお気遣いなさらないようにお願いします」
   「今から、私が納屋の薪を荷車に積んで川原に運びます、平助は父上の傍に居てあげてください」
 川原に薪を運び、燃えやすく木組みをすると一旦屋敷に戻り、棺桶と火打ち鉄と火口、油紙、藁、粗朶などの類を荷車に積み、平助を伴って川原に向かった。

 棺桶の蓋を取ると、生臭い血の臭いが溢れ出てきて、完全に切り離された首と躯(むくろ)が見えた。今朝、物静かに語っていた父とは思えない位に小さく棺桶に収まっていた。
   「父上、失礼します」
 あの偉大に思えていた父とは違って、躯は軽くて祥太郎一人の力ですっと引き上げることが出来た。その下に、苦痛に歪んだ形相の父の首があった。
 あの冷静であった父でさえも、この苦痛の形相である。腹に刃(やいば)を突き立てて腹の左から右へ自らの力で切り裂く苦痛、更に介錯の長刀が首に食い込む苦痛、それら相俟った苦痛が、こうまでも形相に顕れるものかと、祥太郎は父を哀れに思った。
 何故なのだろうと祥太郎は考えた。父の躯を抱えても、父の首を抱え持っても、ちっとも恐ろしくはないのだ。むしろ懐かしく、愛おしいのは肉親であるからのようである。

 薪に火が着き、その火の中で父の躯が動いたように見えた。また躯が「ぼすっ」と音を立てると、父が熱がっているように思えた。
   「父上、どうぞ安らかに成仏してください」
 祥太郎は、声に出して炎の中の遺骸に話しかけた。その様子を見て平助は獣のような声で慟哭した。
   「平助、有難う、もうお帰りさい、後は私一人で大丈夫です」
   「せめて朝まで、旦那様を見送らせてください」
   「いえ、今度は私が平助と別れるのが辛くなります」
   「坊っちゃん…」
 平助は絶句した。暫く佇んでいたが、思い切ったように嗚咽しながら腰を屈めて走り去った。

   「父上、私は母よりも誰よりも父上が大好きでした」
 母上の笑顔は、生まれてこのかた見たことはないが、父上はどんな時も祥太郎に笑顔で接してくれた。母に叱られて泣いているときは、そっと寄り添って涙を吸収してくれた。表で遊び仲間に泣かされて帰ると、優しく訳を訊いてくれた。決して子供の喧嘩に口出しはしなかったが、いつも味方で居てくれた。
 三十俵二人扶持の貧しいやりくりの中、母の反対を押し切って寺子屋に通わせてもらった。父が母に反旗を翻したのは、これが最初で、最後であった。剣道は、道場に通わせて貰える余裕はなかったので、あまり強くはない父上が遊び半分で手解きしてくれた。「わしは勘定方なので、剣道は苦手なのだ」と、照れ笑いをしていた父上であったが、字を書かせば、寺子屋の師範も唸るくらいの達人であった。その才能は、祥太郎がしっかり受け継いでいた。

 山の稜線が白みはじめた。木組みも燃え尽きて、父の亡骸は、姿を留めることが出来なくなった。火の傍で父に話しかけて過ごした愛おしくも残酷な今夜は、祥太郎にとって生涯忘れることはないだろう。
   「父上、これからも私を見守ってください」
 父上の燃え殻と思しきあたりの灰を、父上の遺言どおりに川へ全て流そうとしたが、お骨の欠片を一つ、遺言に逆らって木片で拾い上げた。
   「父上、許してください」
 冷めるのを待って懐紙で大切に包むと、そっと懐へ入れた。
   「祥太郎は、今日からこのお骨を父上と見ます」
 川原に木片で穴を堀って、まだ火の着いた炭を放り込み、丁寧に砂をかけて火を消すと、祥太郎は川原から立ち去った。

 父の打裂(ぶっさき)羽織と袴、笠、血のついた脇差を頂戴してきたが、懐には一文の銭もない。とは言え、もう帰るところもないのだ。生まれて初めての長旅で、街道の一里塚だけが頼りの旅である。腹が空けば草を喰(は)み、喉が渇けば小川の水をすすり、日が暮れたら洞があれば上等で、お寺や、お社でもあれば縁の下をお借りするのだが、それも無ければ木の下で眠る。その場合、雨にでも合えばかたなしである。

 空腹を抱え、江戸に向けてトボトボと歩いていると、案の定雨がポツリと来た。幸い農家の屋根が見えたので、軒下でも借りようと走った。
   「すみません、旅のものですが…」
 言い終わらないうちに、怒鳴り声を浴びせられた。
   「このあいだから、畑の野菜を盗んでいるのはお前だな、この泥棒野郎!」
   「いえ、私はこの道を初めて通りました」
   「嘘をつけ、野菜を盗みに来て、雨に遭ったのだろう」
   「私は越後高崎藩の武士、進藤綱右衛門の一子、進藤祥太郎と申します」
   「何、お侍だと、お侍のふりをして逃れようとするのか」
   「いえ、ふりなどしていません」
   「煩い、帰れ、帰れ、帰らぬと役人を呼ぶぞ!」
 農家の住人の凄い剣幕に、祥太郎は仕方なく引き下がった。雨は、次第に本降りになって、雨の中を少し歩いただけで、もう下帯(ふんどし)までぐっしょり濡れてしまった。
 まだ初秋の、それも昼間とは言ども、雨の冷たさは若い祥太郎も骨身に堪える。さらに濡れて歩いていると、空腹が祟ったのか、目眩がしてきた。
 せめて農具を入れる小屋でも借りることが出来ないかとフラフラ歩いていると、再び農家が見つかった。

   「私は越後高崎藩の者ですが、雨に降られて難儀をしています、軒下をお借りできませんか?」
 戸がガラリと開かれて、老婆が顔を覗かせた。
   「はいはい、たくさん降ってきましたなぁ、旅のお方、どうぞお入りください」
 また、怒鳴られるのかと思った祥太郎だったが、その優しい言葉に驚いてしまった。
   「本当に、宜しいのですか?」
   「何をしておいでですか、雨が降り込みます、早く入って戸を閉めてくだされ」
 雨にずぶ濡れになった祥太郎を見て、老婆はさらに言葉を続けた。
   「そんなところに佇って居ると病気になります、丁度お湯が沸いたところです、こっちへ来て体を拭いなされ」
 老婆は盥に湯を入れ、水でうめて手拭いと共に出してくれた。祥太郎が裸になるのを躊躇っていると、老婆は奥の部屋に入っていった。見ては恥ずかしかろうと気を利かせてくれたのだと思っていると、老婆は直ぐに晒を持って出てきた。
   「今、晒を切って差し上げますので、これを巻きなされ」
 だが、縫っていない晒を下帯にする方法を祥太郎は知らない。それを老婆に言うと、笑いながら答えた。
   「私が巻いて差し上げます」
 祥太郎は、顔を真赤にしたとき、表の戸が開いて老人が入ってきた。
   「あぁ、お爺さんお帰り」
   「これ婆さん、若い男を連れ込んで、何をしてなさる」
 別に怒っている風ではない。
   「何をしていると言われても、この婆に何が出来ます」
   「今、若い男の下帯を脱がせておりましたわなぁ」
   「えへへ、お爺さんたら、焼き餅を焼いてなさるのか」
 笑いながら、老婆は状況を話して聞かせた。
   「下帯の巻き方を?」
   「そうです、紐を縫い付けた下帯しか着けたことがないと言いなさるのでな」
   「そうか、婆さん良い目の保養をさせて貰いましたな、五年は寿命が延びよう」
   「まだ目の保養なぞしておりません、これから教えて差し上げるところでしたのに…」
   「わしが邪魔をしたのか?」
 老婆は、「それなら、爺さんが教えてあげなされ、私は夕餉の支度をしますから」と、祥太郎の元を離れた。

   「私は越後高崎藩の武士、進藤綱右衛門の倅、祥太郎でございます」
   「ほう、お侍さんのご子息が、何故の一人旅を?」
 父は悪事を働いた訳ではない。なにも隠すことはないので、事具(つぶさ)にこの家の主に話して聞かせた。
   「何と酷いことを、だからわしは侍が嫌いなのじゃ」
 言って、祥太郎を侍と気付き、「済まんことを言った」と、詫びた。
   「いえ、私も侍が嫌いになったところです」
   「そうじゃろ、それでこれから何となされるのじゃ」
   「江戸へ行って、仕事を探します」
   「目当てはありますのか」
   「ありませんが、死体を埋葬する寺下男とか、屎尿を回収して肥料として売るような人の嫌がる仕事でも構いません」
   「ほう、若いのに偉いなぁ」

 その夜、祥太郎は三和土に筵を敷いて寝かせてもらった。真夜中、祥太郎は物音に気付き目が冷めた。祥太郎の枕元に、この家の主が出刃包丁を順手に持って立っていた。
   「しまった、起こしてしまったか」
 言うと、爺は祥太郎に馬なりになろうと飛びかかってきたが、若い祥太郎の動きは機敏である。筵を跳ね上げると、「さっ」と入り口の方に逃れた。
   「何故です、何故私を殺そうとするのですか」
   「お前が大切そうに握っている物を奪う為だ」
   「えっ、これはあなた達にとっては、何の価値もない物ですよ」
   「珊瑚の紅玉か、瑠璃の玉であろうが」
   「いいえ、父の遺骨です」
   「嘘をつけ、渡すのが嫌だから、そんなことを言っているのだろう」
   「嘘ではありません、それに私は一文の銭も持っていません」
   「それで、よく旅が出来るものだ」
   「国を追われたから、仕方がないのです」
   「親父が盗み出した公金を持ちだしたのだろう、どこに隠した」
 祥太郎は、がっかりした。農家の住人に怒鳴られた後、なんと親切な人もいるものだと感激した矢先のこれである。遺骨を出して見せたところで、宝を何処かに隠してきたと疑われるだけだろう。諦めて支え棒を外し、外へ飛び出した。飛び出して気付いたのだが、自分は裸で下帯しか着けていない。まだ、生乾きだろうが、打裂や笠を取り戻さねばならない。今飛び出した戸口に立ち、戸をガラリと開いた。
   「旅人さん、これが必要だろう」
 老婆が、祥太郎の荷物を持って立っていた。祥太郎はその荷物を引っ手繰ると、抱えて闇に向かって走った。荷物がズシッと重いので、調べてみると、紐を通した一文銭で百文程度が着物の中へ挟まっていた。どうやら、老婆がいれてくれたらしい。
 たった今、「他人なんて誰も信じられない」と思った祥太郎だったが、自分は「間違っていたかな」と、ほんのりとした物が胸に湧いたのを切欠に、雨が小降りになってきた。

 夜が白んできた。歩こうと思ったが、草鞋の紐が切れた。それでも構わず草鞋を突っかけて歩いていると、草鞋本体が分解してしまった。なにか草鞋の代わりになるものは無いかと辺りを物色していたら、倒れた生木が道端に横たわっていた。この皮を剥がして足に合う寸法に切り取ると、稲を刈り取って間のない田圃から荒縄一本拾ってくると、足にクルクルと巻きつけ、木の皮を足の裏に固定した。
   「よし、歩けるぞ」
 祥太郎は、これからはこれに限ると、自分の名案に陶酔していた。

 この日の祥太郎の腰には、百文ぶら下がっていて、何だか大金持ちになったような気がしている。だが、これで食い物を買うと、あっという間になくなってしまう。勿論、旅籠などには泊まれない。一泊二食付きで、二百文はとられるのだから。
 祥太郎は知っていた。青木昆陽という学者先生が栽培した「甘蕉」が、栽培しやすくて農家の人気対象になっていることである。甘蕉とは薩摩芋のことで、昆陽芋とも呼ばれたとか呼ばれなかったとか。
 それを安く分けて貰うのだ。

   「すみません、傷物でよいので薩摩芋二・三個分けて貰えませんか?」
 畑で野菜を収穫していた老人が振り向いて、黙って祥太郎をジロジロ見ている。
   「お前は何者だ、腰に差した刀の柄に、黒いものが付いている、それは血だろう」
 祥太郎が人を斬ってきたと思っているらしい。
   「これは父上の血で、父上はこの脇差で切腹しました」
   「ふーん、何だか訳ありのようだな、芋がほしいのか?」
   「はい、持ち金が少ないので、町で売っている食べ物は高くて買えません」
   「傷物が良いのか?」
   「はい、なるべく安くお願いします」
   「今、腹が減っているのか?」
   「はい、とても」
   「よし、そこの草叢に竹の皮の包みがあるだろう」
   「はい、あります」
   「それを開いてみなさい、蒸かした芋が入っている」
   「でもこれは、おじさんの弁当ではありませんか?」
   「そうだが、婆さんはいつも余分に入れてくれる」
   「三つあります」
   「一つやるから、そこで食え」
   「本当ですか、では幾ら払えばよろしいのですか?」
   「金はとらん、遠慮せずに食え」
   「有難う御座います」

 甘くて美味しかった。思えば父が薩摩芋を落ち葉で焼いてくれたのは、祥太郎が八歳のときだった。
   「とても美味しいです」
   「そうだろう、うちのは肥やしが効いているから、どこよりも大きくて甘いのだ」
   「本当です、こんな大きな芋は初めて見ました」
   「そうか、もう一つ食うか」
   「それでは、おじさんの分が…」
   「遠慮するな、わしは年寄だから一つあれば十分だ」
 とても親切な人だなぁと思うのだが、何か裏がありそうな気がして、祥太郎は老人に気を許していなかった。
   「食ったか?」
   「はい、頂きました」
   「そうしたら…」
 「そら来た」と祥太郎は思った。懐のものか、それとも腰の銭か。
   「遠くに藁屋根が見えよう、あれがわしの家だ、あの家の裏に肥桶が二つ置いてある、あれをここへ運んでくれ」
   「えーっ、二つ一度に?」
   「安心しろ、わしが担げるように、それぞれ半分しか入っていない」
   「はい、わかりました、行って参ります」
 大きな芋を二本も食った所為か、祥太郎は元気もりもりである。農家を目指して駈け出して行った。

   「おや、どこの坊っちゃんですか?」
 老婆が気付いて、母屋から出てきた。
   「はい、今おじさんに頼まれて、肥桶を運びに来ました」
   「まあまあ、余所のお坊ちゃんに、そんなことを頼んだのですか」
   「はい、お礼に薩摩芋を二本も頂きました」
   「それは、それはご苦労さまです、気をつけて運んでくださいね、転けるとどういうことになるか、わかりますよね」
   「はい、私はクソまみれになります」
 老婆は、その場面を想像したのか、袖で口を隠して吹き出し笑いをした。

   「ご苦労さん、腰が低く落ちて、中々様になっていたぞ」
   「才能はありますか?」
   「あるある、今すぐにでも農家の息子になれる」
 老人は、冗談のつもりで言ったのに、この若者が本気にして喜んでいるのが不思議だった。
   「格好から見れば、お前さんは侍だろう」
   「はい、私は越後高崎藩の武士、進藤綱右衛門の倅、祥太郎と申します」
   「百姓仕事に興味があるのか?」
   「はい、江戸へ出て、墓守か屎尿処理の仕事がしたいと思っています」
   「へー、それはどうして?」
   「働ければ何でも良いので、人の嫌がる仕事を選びます」
   「ふーん、偉いのか、バカなのかわからんが」
   「どちらも違います」
 祥太郎は、老人が休憩をして、芋を食っている間に、国を追われてきた訳を全て話した。
   「そんな悲惨な事があったのか、それでいつの日か国へ帰って、父の濡れ衣を晴らすのか?」
   「いいえ、晴らしません、父の遺言を守る為です」
   「父上は、無念を晴らすなと…」
   「はい、大切なのは、そんなことより私の将来だとおっしゃいました」
 老人は、今日一日自分の手伝いをしてくれないかと、祥太郎に頼んだ。
   「歳を取ると力仕事が辛くなって、婆さんに手伝わせるのだが、婆さんも体が弱くてなぁ」
   「有難う御座います、食べ物と土間をお借り出来れば、お駄賃は要りません」
   「そうか、では今夜は泊まっていけるのだな」
   「はい、お願いします」
 だが、祥太郎は気を許していなかった。
   「あのう」
   「何だ?」
   「私が懐に入れて大切にしているのは、父のご遺骨で、私はこれを父だと思っています」
   「ほう、親孝行だったらしいな」
   「父のことが大好きでした」
   「だから、どうしろと言うのかね」
   「いえ、何となく話して置きたかっただけです」
   「どこかで宝物だと思われて、盗られそうになったのだろう」
   「はい、実はそうです」
   「安心しなさい、例え宝物でも盗みはしない」
   「それから、父は一文たりとも公金に手をつけたりはしていません」
   「それは、もう聞いた、お前さんが大金を持っているとは思えない」
   「有難う御座います」
   「何の礼だ」
   「いえ、私が話したことを信じて頂いたお礼です」

 その日、収穫の手伝いをして、肥やしについての話も聞かせてもらった。肥やしというものは、便所から組んだ真新しい屎尿は肥料として使えないのだそうである。肥料だと言って畑に小便を掛けるのも、野菜を枯らしてしまうだけだと教えられた。屎尿は肥溜めに入れて一年間寝かせたものが肥料になる。
   「それ、そこに竹で編んだ蓋をかけたところがあるだろ、それが肥溜めだ」
   「では、家の傍から私が担いできたのは?」
   「昨日の残りだ、半分撒いたところで日暮れになったので、畑に置いておくと猪が倒してしまうので家に持ち帰って納屋に入れておいたのだ」
   「本当は一杯入っていたのですね」
   「そうだ、婆さん一人残して老ぼれる訳にはいかんのでな」
   「おじさん、無理をしてはいけませんよ、お子達はどうしたのですか?」
   「わしら夫婦は、とうとう子供に恵まれなかった、神様に見落とされたようだ」
 その日は、日が暮れるまで、老人の手伝いをして、話もいっぱいした。

   「おじいさん、お帰り、ご苦労さまでした」
 老婆はそう言って、まだ祥太郎が居るのに気付いた。
   「おや。お芋二個で、この時刻まで手伝ってもらったのですか?」
   「そうだ、よく働いてくれた、わしは骨休めが出来たというものだ」
   「まあ、お気の毒に、済みませんでしたね」
   「いえ、おじさんに、いろいろ勉強になることを教わりました」
   「お爺さんが教えたのですか、とんだ先生ですこと」
   「なにをぬかすか、これでも昔とった杵柄で、畑のことなら任せておけというものだ」
 今夜はここに泊まってくれるそうだから、なにか美味しいものでも食べさせてやってくれと、老人は妻に頼んだ。
   「と、言われても、たいしたものは無いのですよ」
 老婆も、なんだか浮き浮きしている。久しぶりの若い客なのだろう。

 行水をして、食事も済ませた後、老人は言った。
   「お前さん、侍の子だから字は読めるのだろう」
   「はい、読み書き算盤は出来ます、剣道は無茶苦茶流ですが」
   「そうか、では…」
 老人はそう言って、仏壇の前に進み、抽斗から紙切れを取り出した。
   「これを読んでくれないか」
   「はい」
 祥太郎は紙切れに書いてあるのを読んで、首を傾げた。
   「おじさん、これは借用書ですね」
   「そうだ、他人になけなしの金を貸したのだが、五年経っても返してくれないのだ」
   「債権者 六兵衛殿 金十両 右記の金額を借用するもの也 と、あります」
   「それだけか?」
   「いいえ、債務者 耕太郎 とありますが、その後がいけません」
   「と、言うと?」
   「ある時払いの、催促なし と書いてあります」
   「それはどういうことだ?」
   「お金ができれば返すが、催促をしてはいけないと言うことです、即ち返す意志がないということになりますね」
   「やはりそうか、わしらは字が読めないことを知って、企んだのだな」
   「そのようですね」
   「やはりそうだったのか、悔しいが仕方がない、諦めるか」
 六兵衛は、がっかりと肩を落とした。
   「おじさん、諦めることはありませんよ」
   「打つ手はあるのか?」
   「わたしに任せて頂けますか?」
   「もし、少しでも金が戻れば、お前さんにあげよう」
   「要りませんよ、おじさんの大切なお金なのに」
 とにかく、明日耕太郎のところへ行ってみようと祥太郎は思った。家の場所を訊き、納屋の片隅に積まれた藁の上に、筵を敷いて眠った。

  翌朝、力仕事をした後、耕太郎のところへ行くと言って、六兵衛の手伝いの畑仕事を許して貰った。
   「六兵衛さん家の居候です」
 そう名乗って耕太郎の家の近所で耕太郎のことを訊くと、皆は口をそろえて「どけち」と罵った。鎮守際の行事に、寄付を頼みに行ったが、一文も出さなかったとか、村の菩提寺に雷が落ちて、本堂の一部が焼けたときに、檀家一同が集まって寄付金を出し合って修理をしようと決めたが、寄付どころか檀家の集会にすら出席しなかったなど、愚痴話を聞かされた。

 家の建物はと見ると、百姓家にすれば結構立派で、庭に手入のされた植木が数本立っていた。
   「耕太郎さんはおいでですか?」
 女房らしい女が顔をだした。
   「居ますが、あなたのお名前は?」
   「私は六兵衛さんの家の居候で、越後高崎藩の武士、進藤綱右衛門の倅、祥太郎と申します」
   「はあ、ちょっとお待を」
 女は、奥へ駆け込み、耕太郎らしき男とボソボソ話をしている。
   「そんなヤツは知らん、放っておけ」と、男の声。
   「何の用か分からないではありませんか、あなた出てくださいよ」
   「面倒臭えなぁ」
   「刀を差したお侍ですよ」
 内緒話をしている積りなのか、まる聞こえである。
   「何だ、何の用だ」
 漸く男が出てきた。
   「六兵衛さんが耕太郎さんに貸した十両のことでお願いに来ました」
   「借用書は持ってきたのか?」
   「はい、ここに持っています」
   「それで?」
   「返してあげて欲しいのです」
   「お前、字が読めるのか?」
   「はい、読めます」
   「それに何と書いてある」
   「ある時払いの、催促なしと」
   「そうだろう、分かっていたら催促に来るな!」
   「催促に来たのではありません、お願いに来たのです」
   「同じではないか」
   「いいえ、私は債務者ではなく、六兵衛さんの代理できたのでもありませんから、催促ではありません」
   「面倒臭い野郎だなぁ、そんなもの最初から返す気はねえよ」
   「そうなのですか、最初から返す気はなかったのですね」
   「そうだ、それに、ある時払いと書いてあるだろう、分かったら帰れ!」
   「それをお代官さまに伝えて、あなたの家に金が無いのかどうかも調べて頂きましょう、私はお代官さまに、詐欺師を捕らえてくださいとお願いに行きます」
   「誰が詐欺師だ、わしは六兵衛から金を借りたのだ」
   「最初から返す気がないのなら、借りたとは言いません、それに六兵衛さんは、あなたに十両を差し上げたとは言っておりません」
   「お前の寝言を、代官さまが取りあげるものか」
   「私は訴えに行くのではありません、お願いに行くのです、詐欺師を捕らえて、島流しにしてくださいと」
   「わしは島流しになるのか?」
   「十両盗めば死罪です、十両盗むのも、詐取するのも同じことです、あなたの場合は、返す気が残っているかもしれません、その場合はお咎めなしになるでしょう」
 祥太郎は、踵を返してこの家出て行こうとしたが、耕太郎は「待て」と、止めた。
   「わかった、十両は返そう」
   「では、借りたことにするのですか?」
   「そうだ、わしは六兵衛から十両借りた」
   「では、何も問題はありません、ただし、借りたのなら、利息が付きます」
   「いくらだ」
   「五年も借りたのですから、利息は二両にもなっているでしょう、元利合計十二両です」
 耕太郎は、女房を呼んで、十二両用意しろと言いつけた。
   「先程も言ったでしょう、私は六兵衛さんの代理で来たのではありません、あなたがその十二両を持って六兵衛さんの家に出向き、借りた礼を言って返しなさい」
 祥太郎はそう言い残すと、さっさと耕太郎の家を出た。

 その夕刻、耕太郎は六兵衛の家に行き、「長いこと借りて済まなかった」と頭を下げて十二両を返した。六兵衛が借用書を返すと、耕太郎は破って捨てた。

   「へえー、お前さんはたいした男だ、何と言って返させたのか知りたいものだ」
 祥太郎は笑っていた。
   「勘定方の倅ですから、お金のことは少し知っています」
   「婆さん、こんな頼りになる息子が居たら、どんなに心丈夫だろうね」
   「そうですね、でも、そろそろ返してあげなければなりませんよ」
   「芋二本で引き止めて、倅を持った夢まで見させてもらった」
   「本当に楽しい夢でしたね」
   「十二両は、祥太郎さんに持って行って貰おう」
   「はい、今夜は腕に縒りをかけて美味しいものを作りましょう、祥太郎さん、この婆を町まで連れて行ってくれませんか?」
   「お金は要りませんと言ったでしょう、それに私の為に無駄遣いをしないでください」
   「何が無駄なものですか、婆さんも嬉しいのですよ」
 六兵衛も、ニコニコ顔であった。祥太郎は、正座をして襟を正し、手を着いて老夫婦に言った。
   「六兵衛さんとおばさんに、お願いがあります」
   「はいはい、何なりと言ってください」
   「私を暫くここに置いて頂けませんか?」
   「えっ、本当か、本当に暫く居てくれるのか?」
 お婆さんは、腰も抜かさんばかりに驚いて、子供のように頬を抓っている。
   「息子代わりにここに置いて、親孝行をさせてください」
 老夫婦は、躍り上がらんばかりに夫婦抱き合って喜んだ。

 翌日から、祥太郎は、身を粉にして働いた。呼び方も、六兵衛さんとかおじさんではなく、祥太郎の懐にいるのは父上で、六兵衛はお父さんである。おばさんと呼んでいたのも、お母さんと呼び替えることにした。

   「今日は、力仕事が無いので、町まで野菜を売りに行ってきます」
   「では、わしが付いて行こう」
   「もう慣れましたので、一人で大丈夫です」
   「そうか、気をつけて行ってきなさい、くれぐれも無理をしなさんなよ」
 町では、そろそろ祥太郎にご贔屓客がついて来た。祥太郎が優しいこと、親切なことが知れて来たからだ。
   「祥ちゃん、また手紙を読んでくださいな」
   「はい、承知しました」
   「祥ちゃん、ちょっとこれを書いて頂戴な」
   「はい、矢立は持っていますので、紙を用意しておいてください」
   「祥ちゃん、これ二束と、これ三個、それからこれも頂戴」
   「はい、三十六文です」
   「あら、算盤が無くても早いのね、間違えていない?」
   「大丈夫です、算盤は頭の中に有ります」
 どんな雑用でも、「嫌だ」とは言わず、快く引き受けてくれるので、町の重宝屋さんである。人気が少しずつ出てきて、野菜を売り残すことは無くなった。

   「こら、そこの花売り」
   「はい、何でしょうか」
 町のゴロツキが若い花売りの女を取り巻いた。
   「お前、誰に断って商いしておる」
   「すみません、初めてなもので、何も知りませんでした」
   「うちの縄張り内で商いをすれば、みかじめ金を払ってもらうことになっているのだ」
   「まだ一本の花も売れていません、どうぞ今回は勘弁してください」
   「懐の巾着を出してみろ」
   「これは帰りに母の薬を買って帰るお金、どうぞお許しください」
   「ならん、払わねば商売を出来ないようにしてやる」
 言うが早いか、ゴロツキどもは商いの花を奪い路上に投げつけた。そればかりか、担いでいた桶まで奪い、叩き壊してしまった。更に、女の顔に平手打ちを入れようとした。
 ゴロツキどもの傍若無人ぶりに、祥太郎はいたたまれず花売りの傍に駆け寄り、花売りの女を庇った。
   「ここは天下の大道でございます、誰にも断りをいれる必要は無いと思います」
   「ここは、わしらの縄張りだ、縄張り内で商いをすれば、みかじめ料を払ってもらうことになるのだ」
   「それは、お上が定めたことでしょうか?」
   「お前、阿呆か、お上が定める訳がないだろう、わしら侠客がお前らを護っている、その見返りを貰っているのだ」
   「侠客? 侠客と言えば、強きを挫き、弱きを助けるのを旨意としているのではなかったのか」
   「その通りよ」
   「では何故弱き女を脅して、金を巻き上げるのか」
   「護って貰えば、礼金を払うのが当然だろう」
   「この人が護って欲しいとお願いしたのか」
   「それは、わしらが縄張り内で目を光らせているから、お前らは安全に商いが出来るのだ」
   「その安全を害しているのは、あなたがたではありませんか、見なさい大切な花と桶をこんな風にしてしまって、可哀想だと思わないのですか」
   「煩い若造め、お前も商いが出来ないようにしてやろうか」
   「出来るものならやってみなさい、わたしも武士の端くれ、黙ってあなた方の好きなようにはさせません」
 腰に脇差しは差しているものの、恐らく血糊が固まり抜けることはないだろう。一対一の組手なら力負けはしない自信があるが、ヤツ等は匕首を抜くだろう。到底勝ち目は無いので、口先で煙に巻くしか手はない。
   「ここで喧嘩をする前に、あなたがたの親分に会わせてください」
   「会ってどうする」
   「文句の一つもぶちまけてやります」
   「そんなことをすれば、お前は簀巻きにして大川へ捨てられ、魚の餌になるのだぞ」
   「魚が喜んで餌にしてくれるなら、それはそれで私としては本望です」
   「粋がるのも、今の内だ、そのうち泣きべそをかいて、命乞いをするのだろう」
   「しませんよ、さっき言ったでしょう、私も武士の端くれだと」

 大道で、ゴロツキ相手に大見得をきっていたら、通り掛かりのやくざ風の旅人が立ち止まって祥太郎に話しかけた。
   「お兄さん、なかなかの度胸じゃありませんか、行商をさせておくにはもってぇねぇぜ」
   「行商を馬鹿にしないでください、これで真っ当に生きているのですから」
   「そうだった、済まねぇ、済まねぇ」
 旅人を見て、ゴロツキどもが急に静かになった。旅人は懐から財布を出して、小判を一枚ゴロツキの一人に渡した。
   「おい、鉄、これを花売りの女に渡してやりな、弁償だってな」
   「へい、兄貴、申し訳ありません」
 兄貴と呼ばれたこの男、花売りの女の元へ行き、踏み躙られた花や壊された桶の片付けを手伝い、優しく声をかけていた。
   「済まなかったなぁ、怖かったろう、このあっしに免じて許してくんな」
 女は泣きべそをかきながら、何度も何度もこの男に頭を下げていたが、さっきゴロツキから受け取った一両を返そうとした。
   「いいのだよ、とっときな」
   「いえ、多すぎます、頂けるなら一朱で十分です」
 祥太郎が口を挟んだ。
   「貰っておきなさい、先程の、脅され料だと思えばいい」
 女は、祥太郎にも頭を下げて立ち去った。

 祥太郎もその場を立ち去ろうとすると、旅人風の男が付けてきた。
   「何か用ですか?」
 立ち止まって振り向きさまに祥太郎が言った。
   「いや、お前さんのような男と、兄弟の杯が交わせたらいいだろうなぁと思って」
   「わたしは堅気の商人です、杯を交わすなんて、きっぱりお断りします」
   「その、はっきり物を言うところが気に入ったのだ」
   「ただ命知らずの馬鹿なだけです、何れは旅人さんのようなお方に斬り殺されるのでしょう」
   「かも知れぬなぁ」
   「では、私はこれで失礼します」
   「まあ、待ってくれ、兄さんは脇差しだけを差しているが、本差しは差さねえ訳を聞かせてくれないか」
   「持っていないからです」
   「持っていたら差すのか?」
   「いえ、商売の邪魔になるから刺しません」
   「脇差しは邪魔にならないのか?」
   「これは、護身用にさしているのではありません、父の形見で神社のお守りのようなものです」
   「その血の跡は?」
   「これは父上が切腹した脇差しです」
   「そのまま鞘に指しておけば、抜けなくなるだろう」
   「既に抜けません、錆びついたようです」
   「わしが手入れをしてやろうか」
   「結構です、血が洗い流されたら、お守りでなくなります」
 この男、ちょっとしつこいので、祥太郎は辟易(へきえき)しているが、お構いなく畳み掛けてくる。今度は、祥太郎から尋ねた。
   「お兄さん、あなたはもしや長五郎さんではないのですか?」
   「どうして」
   「父が旅先で会った山本の長五郎さんというお方が、見知らぬ旅人がゴロツキに殴る蹴るの暴力を受けているところを、自分の命を張って助けたそうです」
   「それがあっしだと?」
   「はい、父はあの人は真の任侠道に生きる人だと感心して、事あるごとに私に話して聞かせるのです」
   「ははは、違う、違う」
 と、言いながらも妙に照れて、祥太郎から離れて行った。
   「ははは、嘘だよ」

 その日も暮れかかり、祥太郎は天秤棒の前後の空の笊を担いで帰ってきた。
   「お父さん、お母さん、ただいまかえりました」
   「ご苦労さんだったねぇ、疲れたろう、お父っつぁんは、まだ畑から帰らないが、おっつけ帰ってくるだろう、先に行水をして寛ぎなされ」
   「いえ、ちょっと見てきます」

六兵衛は、実って垂れた穂をみて周っていた。
   「お父さん、祥太郎ただいま戻りました」
   「ああ、ごくろうさん、疲れたでしょう、家で寛いでいなさらんか」
   「大丈夫です、持って出た野菜は全部売れましたので、お父さんに頼まれていた刻煙草を、少し多い目に買ってきました」
   「そうか、そうか、ありがとう、ありがとう」
   「お父さん、そろそろ稲刈りなのでしょ?」
   「明日から、とりかかろうと思っていたところだ」
   「では、明日から行商は止めて、稲刈りをします」
   「そうか、頼みましたよ、稲刈りはよくやったのか?」
   「初めてです」

 刈ってひろげて日に乾かして、脱穀、籾摺り、玄米に仕上げて俵につめたものを年貢としてお上に納める。
 祥太郎は、六兵衛の教えることを素早く覚えて、六兵衛が体を壊しはしないかと心配するくらいよく働いた。

   「今年は、夢のようだった」
 六兵衛は、祥太郎の働き振りを妻に語った。妻も年を取り、体のあちこち「痛い」と漏らしていたが、今年は祥太郎に労れて、愚痴も言わず元気に家事を熟していた。

 その年も押し迫って、藁打ちをしていた祥太郎の耳に、老夫婦の押し殺した声が聞こえた。
   「お爺さん、祥太郎が居なくなる日のことを考えると辛いですね」
   「そうだなぁ、なるべく考えないようにしようや」
 祥太郎は、立ち上がって、夫婦の元へやって来た。
   「お父さん、お母さん、お二人を置いて祥太郎は何処へも行きません」
 二人は、祥太郎のその言葉が聞きたくて、態と聞こえるように話していたようだ。

 そんな話をした次の日の夕刻、三十路を跨いだばかりと見られる男がやってきた。
   「お前か、年寄に付け入って、家と田畑を盗ろうと企んでいるヤツは、ここの跡継ぎはわしだぞ」
 六兵衛が、甥の銀次郎だと紹介して、「言葉を慎め」と、窘めた。
   「そんなことはしませんよ、仮に譲ると言われても、きっぱりお断りします」
 六兵衛夫婦の胸に、不安が過った。もしや祥太郎が不快に思って、出て行きはしないかと。
   「嘘をつけ、ここに居座ると、お前の顔に書いてある」
   「そう思うのなら、あなたがここへ来て、六兵衛さんたちを安心させてください、わたしは何時でも出て行きます」
 やはり、六兵衛夫婦にとって、最悪の事態になりそうだ。
   「おう、出て行きやがれ、この泥棒猫め」
 後を継ぐ男が現れて、そうまで言われてまで留まる気はない。また、後を継ぐ甥がいることを隠していた六兵衛夫婦に、不満が募った。
   「わかりました、出ていきます、お金は全て置いて行きますが、私が編んだ草鞋を二足頂いて参ります」
 祥太郎は、六兵衛夫婦との約束を破らざるを得なくなったが、それは二人にも否があるのだと自分を擁護した。


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猫爺のエッセイ「頭脳単純性テレビかぶれ症候群(嘘)」

2015-06-20 | エッセイ
 テレビ番組で、納豆に生卵(全卵)を混ぜて食べるのはだめだとか。納豆に含まれる肌の炎症を予防するビオチンという成分を、卵の白身に含まれるアビジンが包み込んで吸収を妨げるからだそうである。
 出演者は、「あんなに美味しい食べ方なのに、ダメなの」みたいなことを呟いて居たが、ダメな筈はない。美味しいと思うなら、それがより良い食べ方だと思う。
 そもそも、納豆は癖のある食べ物で、嫌いで食べられない人も多い。外国人などはその殆どであろう。
 猫爺も、どちらかと言えば苦手の方で、回転寿司屋へ行っても、納豆ネタには一切手を出さない。だから、肌の炎症で悩んでいるかと言えば、そんなことはない。
 ビオチンとは、ビタミンB群の総称で、何も納豆にだけ含まれるものではない。肉、魚、牛乳、野菜などにも豊富に含まれるもので、生卵の白身を一日に五個、十個と食べる人はビオチン不足になるかも知れないが、茹でたり、焼いたりすれば、アビジンは消滅するものだ。

 テレビ番組で、医者がこう言ったと言えば、「ワイワイワイ」と、それに従い、栄養士がああ言えば、またそちらにも「ワイワイワイ」と、従う。そのくせ、二・三度も従えば飽きるか忘れかして止めてしまう。これを猫爺は栄養的群集心理傾倒者(嘘)だと思っている。

 その番組の中で、「納豆オムレツ」にすると、出演者が「おー」みたいな歓声を上げて「美味しそう」みたいな感想が漏れたような気がしたので、こうすれば猫爺も「納豆が食えるのかな?」と、作ってみたが、一口食べて「おー不味い」、もったいないのでもう一口たべて、作ったことを後悔した。その後、納豆オムレツに箸をつけることはなかった。
 こんな猫爺のようなのを、頭脳単純性テレビかぶれ症候群(嘘)という。

猫爺の連続小説「江戸の辰吉旅鴉」 第二十五回 足を洗った関の弥太八

2015-06-19 | 長編小説
 亥之吉父子は、灘郷の代官所にやってきた。開いている門を潜ると、すぐに二人の門番が亥之吉たちの前に立ちはだかった。
   「済んまへん、お代官に会わせて貰えまへんやろか?」
 亥之吉は腰を屈めて下手に出た。
   「何の用だ」
   「この度お縄になった勝蔵さんたち三人のことで、お耳に入れたいことがありまして」
   「お前達の名は?」
   「大坂の商人、福島屋亥之吉と、その倅、辰吉で御座います」
   「暫くここで待て」
   「へえ、待たせて頂きます」
 一人の門番が屋敷内に入って行ったが、時経ずして戻ってきた。
   「お代官は会われるそうだ、付いて来い」
   「ご足労をお掛け致します」
 お代官は、門番程も偉ぶることもなく、ただの好々爺然として亥之吉父子を迎えた。
   「儂の耳に入れたいこととは、どのようなことですかな」
   「勝蔵、作造、文吉の三人は無実です」
   「ほう、実は儂も密告があり三人を捕らえたものの、どうしたものかと考えていたところだ」
 亥之吉は、何者かに造り酒屋「横綱酒造」を乗っ取られようとしていること、その為に勝蔵、作造、彼等を助けてきた文吉を罪に陥れて亡き者にしようと企んでいることなどを、具(つぶさ)に申しのべた。
 また、大坂で起きた相模屋での千両詐取事件、大坂の酒店主を詐欺に巻き込み、金を奪い絞め殺し、自殺に見せかけて死体を天井から吊るした一件、さらに酒店から詐取した銀貨とともに、店の金を奪って隠した件など、その繋がりを説明した。
   「酒店の店主は、自殺とされていますが、自殺でない証拠があります」
 亥之吉は、天井の梁に残された、店主が首を括ったであろうとされている縄に付いた血痕の訳も話した。
   「首を締めた縄を使って、天井に吊るしたのだな」
   「左様で御座います、相模屋で奪った銀も、酒店から奪った銀も、灘郷に持ち込まず、古店舗のどこかに隠しているのに違い有りません」
   「では、勝蔵の家から見つかった銀も、文吉の家から見つかった銀も、こちらで犯人が用意したものなのか?」
   「その通りだと考えます」
   「わかった、では大坂の奉行所に使者を送って、まず酒店の家探しをして貰おう」
   「あの店舗は、わたいが買うことにして手付(てつけ)を打っていますさかいに、存分に家探しをして貰ってください」
 一つ、亥之吉の推理を付け加えた。
   「古店舗の蔵に、幽霊が出ると噂を振りまいた者が居ます」
それは取りも直さず人々を蔵から遠ざけ、古店舗が売れないようにと考えた犯人の策だと考える。即ち、詐取した千両と、この酒店から奪った何某かの大金は、この蔵のどこかに隠されているに違いない。店主が蔵の床下か、壁に仕掛けを作っていたに違いないから、念入りに調べるように伝えてほしいと申し添えた。
   「それから、お代官さま、補えられている勝蔵たちは拷問をしないで欲しいのです」
   「すぐに解き放つことは出来ないが、そなたの証言に納得したから拷問はするまい」
   「有難うございます」
 偽装でよいので、捕らえた三人は唐丸籠で大坂の奉行所に連行されて、数日後にお仕置きになったと横綱酒造の人達に伝えてほしいと、これは真犯人を炙り出す手段になるので「是非お願いします」と代官に願い出ると、快諾してくれた。

 亥之吉父子が灘郷に逗留して四日後、大坂の奉行所より与力が一騎、馬で駆けつけてくれた。
   「亥之吉どの、相変わらずのお手柄でござるな」与力は、亥之吉の顔を憶えていたらしい。
 やはり亥之吉の推察どおり、蔵の床下が寄せ木細工様の造りになっていて、破壊して開けると二千二百五十両の銀が出てきたそうである。

 勝蔵の女房の家には、与力が亭主の処刑を直々に伝えに行くことになった。

   「勝蔵の女房であるか?」
   「はい、左様にございます」
   「伝え申す、勝蔵、作造、その他一名の者は酒店主を殺害し、有り金を強奪したとして大坂の奉行所にて処刑された」
 女房は、「わっ」と泣き崩れた。与力はそれだけ伝えると、さっさと立ち去った。その後に、のこのこと亥之吉父子がやって来て、悔みを伝えた。
   「大船に乗ったつもりで安心して待ちなさいと言ったではありませんか」
 女房は、亥之吉に向かって、恨み辛みをぶつけ、表にまで聞こえるくらいに号泣した。
   「この嘘つき、帰れ!」
 壁や襖に、ものをぶつける音が響いた。
   「力が及ばずに、すんまへんでした」
 亥之吉の謝る声が、虚しく響いていた。

 亥之吉父子は、早々に引き揚げて行った。
   「ああ、偉い目遭った、女将さんには、返す言葉もなかったなぁ」
   「女将さんだけには、本当のことを伝えてあげたかった」
   「敵を欺くには、まず味方からと言いますやろ」
 辰吉は、居た堪れない気持ちでいっぱいだった。

 女房のところから引き上げると、亥之吉父子は、横綱酒造に立ち寄り、自分たちの力が及ばなかったことを詫び、今夜一晩灘郷の旅籠に泊まり、明日大坂に帰ると伝えて早々に横綱酒造を辞した。その後、番頭の鬼助とその息子の助八も、慰めるべく勝蔵の女房のもとへやって来た。

 その夜、勝蔵の女房が泣き疲れて意識が遠のく頃、女房の部屋の襖がスーッと開いた。そこには、悲しみの余りに眠れなかったのか座卓に寄り掛かり、子供を抱いて夜中の冷えを凌ぐためか布団代わりに一衣の着物を頭から掛けて肩を震わせていた。夫が恋しいのであろう、偲び泣いているのだ。
   「女将さん、大丈夫ですかい」
 ピクリと反応をしたが、夢とでも思ったらしく、またウトウトとしているようであった。
   「女将さんには気の毒ですが、お子さんと共に首を括って頂きますぜ」
 女房は、散々泣き過ぎて、声も出なくなっているようだった。男が近付くと、女房は座卓から離れて、壁際まで逃げようと後じさりをした。
   「お子さんと一緒に、旦那さんのもとに送ってやろうと言っているのだ、有り難く思いなせえよ」
 男の手に、腰紐が握られていた。
   「ちょっと苦しいが、直ぐに楽になりますぜ」
 男が女房の首に腰紐を巻きつけようとしたが、跳ね除けられてしまった。
   「なんでえ、力が強い女だなぁ」
 女房は、すっくと立ち上がった。抱いていた座布団をポンと男に投げつけると、手には壁際に寝かせて置いてあった六尺棒が握られた。
   「あはは、生憎だったなぁ、助八」
   「えっ?」
   「与力さま、お聞きになりましたか?」
 隣部屋の襖が開いて、大坂から来た与力が飛び出して来た。その後ろには、女房と亥之吉が控えている。
   「おう、確かに聞いた、聞いた」
 流石に与力である。応えるか早いか、男の腕をねじあげていた。女房は、何時の間にか辰吉と入れ替わっていたのだ。

 助八は、大坂の与力に引っ立てられて代官所に向かったが、亥之吉も証言者として代官に説明して貰いたいことがあると言う与力に同行した。

 二刻(四時間)ばかり後に、亥之吉は辰吉が待っている勝蔵の住まいに戻ってきた。助八は与力と亥之吉の証言により、他に仲間が居ないか、無職の助八が勝蔵と文吉の住まいに隠したそれぞれ二百五十両の出処に不信な点はないかと調べあげた上に、灘郷の代官所で裁かれることとなった。

   「やあ、女将さん、待たせて申し訳なかった、勝蔵さんは約束どおり罪が晴れて解き放されましたで」
   「それで、勝蔵は今何処に?」
   「安心しなはれ、二人の役人と作造さん、文吉さんと共に、横綱酒造へ行きました、番頭の鬼助も連行されて、共犯者としてお取り調べを受けるようです」
 勝蔵の女房は、張り詰めていた気持ちが、一気に解れたかのように、今度は喜びで号泣した。
   「勝蔵さんがお仕置きになったなんて、驚かしてすんまへんでしたな」
   「あの時は、亥之吉さんを心から恨みました」
   「犯人の助八が、庭に隠れて様子を伺っていると思いましたので、女将さんにも打ち明けずにいましたのや」
   「与力さまも、いけしゃあしゃあと嘘をついたのですね」
   「その御蔭で犯人は助八だと確証がとれたのですから、堪忍してください」
   「義弟の作造さんも、文助さんも、お解き放ちになったのですね」
   「勿論です、やがて三人揃って、ここへ来るでしょう」
 勝蔵、作造の兄弟が横綱酒造へ戻り、父親の遺言の真偽について話し合ったが、兄弟が憎しみ合っているように見せる目的で作られた偽物であっても、また母親が本妻であろうと妾であろうと、兄は兄、弟は弟だとの作造の主張で、勝蔵は元の横綱酒造の主(あるじ)に収まり、作造は文助と共に現在勤めている造り酒屋へ戻っていった。

 亥之吉は、主が殺された大坂の酒店の未亡人の実家へ行き、奪われた千二百五十両を取り返したことを伝え、一時、亥之吉が買い取るとした、犯人の助八によって幽霊がでると噂を流された古店舗を戻してやり、商いを再開することを薦めた。幸いなことに、元の使用者たちが他の店に移らずに居てくれたので、全員呼び寄せることにした。中でも番頭格の中年の男は、殺された店主の叔父にあたり、開業当時から若い店主の右腕となり、店の屋台骨をしっかり支えてきた男だという。
   「頼れる人ですね、これからもこの店を支えてくれるでしょう」
   「はい、夫の父親のような存在でした」
   「そんな方が居るのに、何故、詐欺にかかったのですやろ」
   「随分忠告をしてくれましたが、一旦詐欺師の言葉を信用してしまうと、周りの者の忠告など、聞く耳を持たなくなるものです」
   「成程、そのようですね、わいも気をつけないと、騙されるかもしれまへん」
 他に、伊勢の国は関の生まれで弥太八と言う、元はやくざだが忠義者で、骨身(ほねみ)を惜しまずに働いてくれる男が居たのだが、この店を閉めるとき国へ帰ると言っていた男が居たそうである。
   「えっ、関の弥太八?」
 辰吉が反応した。
   「へえ、弥太八とどこかで会われましたか?」
   「会ってはいないが、その男左耳の下に、大豆粒ほどの黒痣がありませんでしたか?」
   「そうそう、うちの弥太八ですわ」
 辰吉は、関の小万姐さんに「見つけてやる」と、約束していたのだ。
   「弥太八は、もうここへ来ませんか?」
   「いえ、夫が死んだ後の賃銀を受け取りに、もう一度来る筈です」
   「そうですか、では使用人の方々を呼び寄せるお手伝いをさせて頂けませんか?」
   「それでしたら、叔父に連絡をとれば、皆に知らせてくれるのですよ」
   「そうでしたか、では俺はお店の方で待たせて貰います」

 店では先に戻った与力が、蔵で見つかった二千二百五十両を、一旦奉行所預かりにしようかと思案中であった。亥之吉は蔵で見つかった丁銀のうち、相模屋長兵衛の被害分千両と、この酒店が奪われたのが千二百五十両なので、それぞれに返してやって欲しいと申し出た。
 与力の裁定で、亥之吉の申し出が認められ、急遽女房ほか使用人が集められ、金蔵は真新しい錠が掛けられた。
   「関出身の弥太八さんはどのお方人ですか?」
 辰吉が叫ぶと、三十歳そこそこの屈強そうな男が名乗り出た。
   「お前さん、関に女房を残して、どういう積りだい」
   「女房? 俺は独り者だが…」
   「関の小万(おまん)姐さんのことだよ」
   「ああ小万か、そう言えば、小万と暮らしたことがあったなぁ」
   「女房でなくとも、女房同然の女だろ」
   「そうだなぁ、一時はそんな気分になったが、その頃の俺はやくざだったから、粋がって『とかくやくざは苦労の種だぜ、堅気の亭主を持ちな』と、振りきって旅に出たのだが」
 旅に病み、野垂れ死に寸前にこの店の番頭さんに救われて、用心棒代わりに使って貰えるよう、亡くなった旦那に口添えしてくれたのだ。
   「弥太八さん、一度関に戻ったらどうだ」
   「小万は、おれを待っているのか?」
   「そうなのだ、俺は旅の途中でお前さんを探して旅をする小万姐さんと会って、あんたを探してやると約束したのだ」
   「そうか、待っていたのか」
 弥太八を救ったという番頭が、弥太八の肩を叩いた。
   「帰ってやりな、そして二人でここへ来で夫婦になればいい」
   「そうだよ、弥太八さんは足を洗って立派な堅気になったのだ、胸を張って帰って来なせえよ」
   「へい、そうさせて貰おうか…」
   「何なら、俺が付いていってやろうか?」
 黙って聞いていた亥之吉が慌てた。
   「これ辰吉、お前もええかげんに腰を据えなされ」
   「だけど、弥太八さんを放っておいたら、小万姐さんの顔を見るのが恐くなって、一人で戻ってくるかもしれないぜ」
 弥太八も、その危惧を認めた。また、小万が別の男と一緒になり、仕合せに暮らしているなら、会わずに戻ってくるだろうとも言った。
   「しゃあないなぁ、福島屋亥之吉は今が正念場や、大坂に福島屋百貨店を建てようとしている親父をほったらかして、後継者のお前は浮かれ旅を楽しもうと言うのか」
   「小万さんと弥太八さんのことも心配だが、緒方三太郎先生に預けた越後獅子の才太郎が心配なのだ」
   「何や、伊勢だけでなく、信州まで行くのか?」
   「それから…」
   「まだ行く所があるのかいな」
   「三太兄ぃが、嫁にするのやと手付を打っている女の気が変わっていないか見てくる」
   「三太の? あのスケベ、手付やなんて何をするのや」
   「誰がスケベやねん」
 入り口外に相模屋の三太が荷車を用意して立っていた。
   「それに辰吉坊ちゃん、お蔦の気が変わってないかやと、そんなことあるかいな、今頃わいが迎えに来るのを今か今かと、首を長くして待っているわい」
   「ろくろ首みたいにか?」
   「こわっ」
 いまだにチビ三太の頃と同じく、お化けに弱い三太であった

  「第二十五回 足を洗った関の弥太八」   -続く-  (原稿用紙19枚)

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猫爺の連続小説「江戸の辰吉旅鴉」 第二十四回 見えてきた犯人像

2015-06-16 | 長編小説
 大坂の鷹塾近くにあった酒店の店主が首を括り、空きになった店舗がたった五十両で売りに出ていた。亥之吉の見たところでは、三百両の価値はあるが、心ない噂のために五十両でも売れない状況であった。
 この古店舗に目をつけた亥之吉は、死んだ店主の妻の実家に足を運んだ。店主は詐欺に引っかかり、全財産を無くして悲嘆に暮れて首を括ったのだという。
 女房から話を訊いてみると、亭主が騙し取られた金額は、合計すると二百五十両だそうである。亥之吉は首を捻った。使用人を何人か使っていたこれだけのお店で、二百五十両ばかりの穴を開けて、それが全財産だったとは思い難い。例えそうであったにせよ、店舗だけでも三百両の価値はある。この店舗を担保に金を借りても商いは続けていける。
 本当に店主は自分で死を選んだのであろうか。首を括ったとされる店舗の蔵の梁に、それに使ったのであろう縄の両端が切れて梁にぶら下がっていたのはなぜだろう。普通、死体を下ろそうとすると、縄の一方だけを切れば、反対側の一方を引っ張るだけで縄はするりと死体に付いて一緒に外れ、梁には残らない筈である。もう一つ謎がある。縄の両方を切って死体を下ろしたとして、梁に残った縄に僅かな血が付着いていたのは何故なのだろう。苦し紛れに首を引っ掻いて血が付たなら、巻き付いた首の部分の筈だ
   「はい、主人は五百両と言っておりましたが、言われてみれば、詐欺に遭ったのは二百五十両ですね」
   「それがお店の運用資金だったとして、他に蓄えが有った筈です」
   「主人が全部管理していましたもので額は知りませんが、確かに有りました」
   「それが、すっかり消えてしもうたのが気になりますね」
 亥之吉が推理したこの先を、この妻に言うべきかどうか迷ったが、どうしても聞かねばならないことがあった。
   「ところで、つかぬことをお伺いしますが…」
   「はい、どうぞ」
   「ご主人は左眉毛の上に、ゴマ粒大の黒子が有りましたか?」
   「はい、御座いました」
   「眉は濃く、目は切れ長で、お若いのに目尻に深い皺が有りましたね」
   「その通りに御座います、どこかで会われたのですか?」
   「いえ、お店のご近所の方々がそんなお噂をしていたもので…」
 近所の人がそんな噂をする筈がない。相模屋長兵衛が言っていた詐欺師の容貌である。

 亥之吉は、一旦福島屋に戻り、隠居の善兵衛、義兄で旦那の圭太郎、辰吉と相模屋の三太を呼び、亥之吉が調べた事の次第を説明した。相模屋の他に被害に遭った小売酒屋の店主の容貌が、相模屋長兵衛の遭った詐欺師に似ていること、この店主は、殺された可能性が高いこと。詐欺で盗られた金額の他に存在したと思われる財産が消えていること。この店主の陰に、もう一人乃至二人の人物が見え隠れしていることなどから、亥之吉が組み立てた仮想を皆に聞いて貰った。

   「まだ不確かだが」と、前置きをして、亥之吉はこう想定したと言う。
 この店主は、ある人物に煽られて「米相場」に手を出した。一度目、二度目と大儲けをしたのに欲を深め、儲けた分の倍額を投じ、それが詐欺であったと気付く。この店主の女房は、詐欺師が姿を消したと亭主から聞かされたが、実は損をした分を詐欺で取り戻そうと詐欺師に誘われたのだ。
 店主は詐欺師に言われた通り、造り酒屋「横綱酒造」の店主源蔵を騙り相模屋長兵衛を訪ねて横綱酒造が倒産寸前であると告げた。助けて貰えたら、「清酒横綱盛」の販売権を全て相模屋に託すと持ちかけられた。
 あの銘酒、灘の生一本「横綱盛」の販売権が手に入れば、大儲けが出来ると、相模屋長兵衛もまた欲を抑えられなかった。
   「三太ごめん、これは仮定だから」と、亥之吉は三太に謝って話を続けた。
 相模屋長兵衛は、横綱盛の創業者とそれを引き継いだ次男作造の顔は知っていたが、創業者亡き後、その遺言により店主となった源蔵の顔は知らなかった為に、詐欺に引っ掛かってしまった。では、真犯人は現店主の源蔵なのか、現番頭の鬼助か、あっさり父親の遺言に従った作造なのか、作造と共に横綱酒造を辞めた元番頭の文吉か、それとも今まで全く亥之吉たちに姿を見せない別人なのか。
   「ここは、四人を揺さぶって犯人の出方を観察する必要がおます」
 もう、三太に協力は望めない。相模屋での仕事があるからだ。亥之吉と辰吉父子で、もう一度灘郷へ行ってみると提案した。
   「ははは、暇父子の大詰め舞台やな」
   「父子だけではおまへん、もう一人強い味方が居りますのや」
   「そやなぁ、犯人は一人殺しているのや、二人きりでは危ないわ」
 福島屋の隠居、善兵衛は、役人と一緒に行くのだと思って言ったが、それはもっと後のことで、亥之吉は辰吉を護っている守護霊新三郎のことを言ったのだ。


 亥之吉父子は、灘の横綱酒造に乗り込んだが、今はそれどころでは無いと、追い払われてしまった。手代らしき少年を掴まえて話を訊いてみると、
   「主人の源蔵が、役人に引っ張られた」と、べそをかきかき言った。
   「何の疑いです?」
   「へえ、人を殺して二十貫目の丁銀を奪い、その内の十貫(二百五十両相当)が旦那様の私邸の庭に隠してあったのやそうだす」
   「誰を殺したのや?」
   「分かりまへんが、誰かが訴えたそうだす」
 もっと話を聞こうとしたが、「軽はずみなことを言うでない」と、少年は番頭に耳を引っ張られて、奥へ連れていかれた。
   「訴えたのは、あの死んだ酒屋の店主の女房やろか?」
 父子は、仕方がないので、作造が勤める造り酒屋へ行ってみることにした。

   「作造さんと文吉さんは、役人に引っ張って行かれました」
 ここではひっそりとしていたが、心配顔で店主が出てきて言った。
   「何の疑いで?」
   「大坂の酒店主殺しやと言っていました」
   「訴え出たものが居たのですか?」
   「へえ、密告がありまして調べたら、二人が寝泊まりしている家の床下から、十貫目もの丁銀が出たのやそうだす」

 大坂での殺人と、灘の造り酒屋を繋いだのは、亥之吉の他は誰も居ない筈である。殺された主人の妻にも喋ってはいない。それを知っているのは、真犯人しか居ない。勝蔵と作造が共犯としても、互いが共犯相手を訴えたら、せっかく自殺と判断されて収束していたものを、寝た子を起こす必要が有ったとは思えない。
 番頭の文吉は、作造と共に牢へ繋がれた。残るは横綱酒造の一番番頭鬼助だが、もしかしたら動機があるかも知れないが、あの老齢で大の男を締め殺し、梁に縄を掛けて吊るすのは共犯が居ない限り無理だろう。
   「動機は何」辰吉が訊いた。
   「作造さんは独り身や、もしかして勝蔵さんも独り身やったら跡継ぎが居ないから、横綱酒造を任されるのは鬼助やろ」
   「でも、勝蔵さんは銀十貫目を私邸の庭に隠していてと言うてたぜ」
   「そうや、奥さんも子供も居るかも知れへん」
   「そうしたら、その母子の命も危ないのと違うだろうか」
   「そや辰吉、よう気が付いた、けどまだ殺さへん、今殺したら犯人が他にいることを知られてしまう」
   「三人が仕置されて熱りが冷めたころが危ないなぁ」
 辰吉は、勝蔵に妻子がいたら、自分が護ってやろうと決心した。

   「辰吉、もう一回横綱酒造へ行って、番頭の鬼助を揺さぶってみようや」
   「へい」
 新三郎にも呼びかけた。
   「新さん、出番だよ」
   『分かっておりやす』

   「福島屋亥之吉でおますのやが、鬼助さんに会いとうおます」
 手代らしき少年が出てきた。
   「あ、先程の方だすな」
   「へえ、鬼助さんに会いとうて、また来ました」
 少年が呼びに行き、すぐに鬼助が顔を出した。
   「大変なことになりましたな」
   「へえ、そうだすねん、疑いが晴れて戻してくれたらええのだすが…」
   「本当ですね、勝蔵さんが人殺しをするやなんて、信じられんことです」
 とか言っている間に、新三郎が鬼助に忍び込んだ。
   「ところで、勝蔵さんのお住まいに行きたいのですが、場所を教えていただけまへんか?」
   「今頃、女将さんのところへも知らせが届いとりますやろ、知らん人が訪ねても、会ってくれへんと思いますで」
   「そうですやろか、わいは真犯人の目星が付いたさかいに知らせに行くのですが」
   「それは、誰やと言うのだす?」
   「作造さんも密告されて捕まったのです、勝蔵さんと、作造さんが消えて得をする者です」
   「誰なのですか、それは」
   「多分、鬼助さんがよく知っている人でっせ」
   「わしが知っている人? この店の者だすか?」
   「一人は、この店の人です」
 辰吉が横入りしてきた。
   「番頭さん、助八さんというのは、鬼助さんのご子息ですね」
   「えっ、何故息子の名を…」
   「それから、勝蔵さんの家も教えて頂き、有難う御座いました、まだこちらには引っ越していないのですね」
   「子供さんが酒の匂いで酔ってしまうと仰って…、わし場所を話しましたかいな」
   「へえ、たった今、話して頂きましたよ、助八さんの居場所もね」
   「話した憶えがないのやが、さて?」
 首をかしげている鬼助に礼を言って、二人は勝蔵の妻に会いに行くと告げて店をでた。

 勝蔵の妻は、取り乱していた。そこへ知らぬ男が二人会いに来たとあって、動揺を隠しきれないようであった。
   「決して怪しい者ではおまへん、私は大坂の福島屋亥之吉と言い、これは倅の辰吉でおます」
 名を聞いて、少し落ち着いたようであった。
   「ご用件は何でしょうか?」
   「はい、大坂の酒店の主が殺された件を調べております」
   「主人が殺したというのですか、主人の勝蔵は、人が殺せる人ではありません」
   「わいも、勝蔵さんには何度か会っていますからわかるのですが、勝蔵さんは犯人ではおまへん」
   「では、何故ここへ来られたのですか?」
   「既にご存知かと思いますのやが、弟さんの作造さんにも同じ容疑が掛けられ、役人に連行されました」
   「えっ、作造さんも?」
   「わいは、別件の詐欺師を追っているのですが、その詐欺師と言うのが殺された大坂の酒店の主人のようなのです」
   「分かりました、それで詐欺師を殺した犯人を探していて、主人と作造に行き当たったのですね」
   「いえ、まだ行き当たってはいまへん、勝蔵さんも作造さんも殺しの犯人ではないからです」
   「ありがとう御座います」
   「礼を言われるのも、まだ早いです」
   「無実を信じてくださったのではないのですか?」
   「信じていますとも、だが、礼は勝蔵さんと作造さんの容疑が晴れて、二人共お解き放ちになってからにして欲しいのですわ」
   「晴らしてくださるのですか?」
   「へえ、その為に来たのですから」
   「私は何を話せば良いのでしょう」
   「まず、丁銀十貫目は、どこに隠していたのですか?」
   「ご案内します」
 勝蔵の妻は、庭の隅へ二人を導き、ここに置き、薦を掛けただけだったとその場に残された薦を指さした。何のことはない、隠したというよりも持ち込んで置いただけのことだった。
   「この薦は、元々ここに有ったのですやろか」
   「いいえ、銭函と一緒に持ち込んだものやと思います」
 今度は辰吉が質問した。
   「もう一つお伺いします、番頭の鬼助さんは、よくこちらに来られるのですか?」
   「へえ、うちの番頭ですから、主人の用やら何やらで、よく来ます、主人と私が夕食に誘うこともあり、その時は息子の助八さんを連れて来ることがあります」
   「助八さんは、最近来られましたか?」
   「一昨日、夕食に呼んで戴いたお礼だと言って、荷車でたくさんの小麦粉と大根や大豆を持って来てくれました」
   「助八さんは何歳くらいの方です?」
   「確か、三十歳とか言っていました、いい歳をして独り身やそうなので、主人がお嫁さんを見つけてやるとか申しておりました」
   「そうですか、突然お邪魔しまして、申し訳ありませんでした」
   「何か、お役に立ちましたか?」
   「はい、おおよその検討がつきました」
   「もしや、鬼助父子が犯人だというのではないでしょうね」
   「それはまだ何とも言えません」
   「そうですか、主人のことを、どうぞよろしくお願いします」
 今度は亥之吉が割り込んだ。
   「へえ、松前船くらいの大船に乗ったつもりで、お任せください」
 
  亥之吉の足は、大坂向かっていない。辰吉は、ただ黙って亥之吉に続くばかりである。
   「新さん、親父はどこへ行く積りだろう」
   『多分、代官所だと思いますぜ』
   「勝蔵さんと、作造さんを救いに行くのか?」
   『まだ救えないだろう、事件はどちらも大坂で起きている、お調べとお裁きは東町のお奉行に任せて欲しいと頼みに行くのでしょう』
   「そうか、拷問を受けない為だね」
   『そうだ』
   「もし、受けいれてくれなかったら?」
   『あっしの出番だろうな』
   「新さんは、頼りになるなぁ」
   『あたぼうよ』
   「ちぇっ、当たり前のべらぼうよって、俺の真似かい」

  「第二十四回 見えてきた犯人像」  -続く-  (原稿用紙17枚) 

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猫爺の連続小説「江戸の辰吉旅鴉」 第二十三回 よっ、後家殺し 

2015-06-11 | 長編小説
 三太と辰吉は、摂津国の酒処、灘の町並みを見て歩いていた。造り酒屋が並び、その軒下には青々とした杉玉が下がり、新酒が出来上がったことを知らせていた。その中で、殊の外大きな杉玉が下がっている造り酒屋があり、「清酒横綱盛」の看板が掲げられていた。
   「三太兄ぃ、ここですぜ」
 その佇まいに圧倒された辰吉が、小声で言った。
   「よっしゃ、入ろう」
 暖簾を潜ると、甘い日本酒の香りが漂い、大きな酒樽の前で杜氏が利酒をして、良い酒が出来たのであろう、盛んに頷いている。
   「お邪魔します」三太が声を掛けた。
 もう一人、三和土(たたき)に茣蓙(ござ)を敷き、その上にどっかと胡座(あぐら)をかいて、煙管(きせる)を燻らせいる初老の男が三太たちに気付き、慌てて立ち上がった。
   「大坂の相模屋長兵衛のところから来ました」
   「いらっしゃいませ、良い新酒が出来ました、ご注文の前に、どうぞ一献」
   「申し訳ありません、注文に来たのではないのです」
   「そうでしたか、でも、奥へお入りになって、新酒を召し上がってください、そちらのお兄さんもどうぞ」
 樽の上に、檜の一合升を二つ、酒をなみなみと注いで並べてくれた。
   「実は、うちの主(あるじ)が遭った詐欺の事件を調べているのですが…」
   「そうですってね、済みませんでした、うちも名前を使われて、大変迷惑をしているのですよ」
 この男は、番頭の鬼助と名乗った。この男が悪い訳でもないのに、何度か「済みません」を繰り返した。
   「今、主人を呼んで参ります、お飲みになってお待ちください」
 この店の裏が、住居になっているらしく、鬼助は裏口から出ていった。

 裏口の戸が開けられて、人の良さそうな若い男が揉み手をしながら入ってきた。
   「当店横綱酒造の主、勝蔵と申します」
   「相模屋酒店の番頭、三太と申します、こちらは友達で福島屋の坊っちゃんです」
   「ようこそお越しくださいました、相模屋さんにはお詫びをしたいのですが、お詫びをすると、私が詐欺に関わっているようですし、悩んでいたところです」
勝蔵は本当に悩んでいるようであった。
   「いえいえ、ご店主が詐欺に関わっているなど、主人の長兵衛も思っておりません」
   「ありがとう御座います、どうぞ何なりと訊いてください」
   「ひとつだけお訊きしたいのですが、以前にこちらで働いていて、馘首(くび)になった男は居はりませんでしょうか」
   「その男が怪しいのですか?」
   「それは何とも言えませんが、もし、馘首になったことを恨んでいるなら、その可能性は無きにしもあらずと思いましたもので」
   「そのようなことは、絶対に無いと思いますが…」
   「その方の名前と、お住まいを教えていただけませんか?」
   「それを私の口から申す訳には参りません」
   「それはまたどうして」
   「先代の店主が生きていたころからの杜氏でして、わたしの師匠とも言うべきお人なのです」
   「その方を、どうして馘首(くび)にされたのです」
   「いえ、馘首にしたのではおまへん、私どもは引き止めたのですが、先代が亡くなったことで、自分から辞めていったのです」
   「そのお方が、恨みを持つ原因は?」
   「私がこの店を継ぐのを、大反対しておりました」
   「それは何故?」
   「長男は私ですが、私は正妻の子ではないのです」
   「いわゆる、先代が外に産ませた子ですな」
 店主の話を要約すると、周りの誰もが店を継ぐのは正妻の子供の作造だと信じて疑わなかった。しかし、先代が亡くなった後、金庫の中から先代が書いたと思われる遺言書が見つかった。その遺言書には、妾の子勝蔵に店を譲ると記し、作造には一切触れていなかったのだ。
 そんな訳はない、これは陰謀だと騒ぎ立てた歳を取った番頭各の杜氏が居た。結局この杜氏と作造は、自ら店を出て行ったというのだ。
 私に罪はないが、恐らく二人は私を恨んで、陥れようとしているのに違いないとまで言ってのけた。
   「有難う御座いました、お忙しいところをお邪魔しまして、本当に済まんことだした」
   「いえいえ、早く相模屋さんを騙した詐欺師が捕まればよろしいのに」
   「はい、きっと突き止めてみせます」
   「お役に立てることが有りましたら、また何時でもおいでください」

 三太と辰吉は、腹がたった。憎む相手を陥れるために、罪のない相模屋の店主から金を騙し取るとは、造り酒屋の信用問題にもなりかねない何とも卑劣な手段を取る男なのだと、勝蔵が気の毒になった。
 父である先代が考えた末に、作造と勝蔵のどちらに後を継がせるかを決めたのであり、勝蔵を選んだのにはそれなりの理由があったのだろう。

 三太と辰吉は、近所の造り酒屋に寄り、横綱酒造の作造と一緒に辞めた杜氏の消息を尋ね歩いた。いや、尋ね歩く必要はなかった。最初に尋ねた店で、すぐに分かったからだ。
   「大きな声では言えませんが、作造さんは追い出されたのでっせ」
 勝蔵の話では、勝手に出て行ったと言っていた。近所の噂では、追い出されたと言う。噂というものは、尾鰭が付いて歪曲するのだ。噂話はそこそこに聞いて、棲家だけをしっかり訊いてきた。
 作造は一緒に辞めた独り者の杜氏の家に転がり込んで、そこから二人共小さな造り酒屋に通いの杜氏兼店の使用人として働かせて貰っているのだそうである。

   「お邪魔します」
   「へい、いらっしゃいませ」
 出てきたのは、人の良さそうな白髪の老人だった。
   「今年は美味しい酒が出来ました、先ずは試飲をどうぞ」
 酒器専用の棚から小さな杯を二つ取り出した。
   「済んません、わいらは酒を買いに来た客やあらしません、ちょっちお聞きしたいことがおまして…」
   「そうだしたか、それはどうも早とちりでした」
 それでも、酒を注ぐ手は止めなかった。
   「ここで作造さんという方が働いていると聞きまして…」
   「へえ、作造坊ちゃんは、奥においででおます、お呼びしてきますので、これを飲んでお待ちください」

 老人が奥に入ると、直ぐに歳を取った男と若い男が前垂れを外しながら出てきた。
   「お待ちどうさまでおます、私が作造で、こちらが横綱酒造で杜氏をしていた文吉ですが、どちら様でいらっしゃいます?」
   「大坂の酒店相模屋の番頭ですが」と頭を下げ、三太は詐欺の経緯から、横綱酒造で聞いてきたことを全て話した。
   「兄は、そのように言いましたか」
 作造は溜息を一つついた。
   「文吉おじさんは不服のようでしたが、私は何も恨みなどしていません、まして兄を陥れようなど、微塵も考えておりません」
   「でも、一つだけ言わせて貰えば…」
 文吉が口出しをした。
   「先代の旦那様の遺言は、どう考えても可怪しい…」
 作造が文吉の言葉を制した。
   「いいえ、言わせて貰います、旦那様が可愛がって信頼していた作造坊っちゃんのことを、遺書に一言も書いていないなんて、怪し過ぎるやおまへんか」
 文吉は興奮した面持ちで、声を高めた。
   「おじさん、そんなことを言うたらあかん、それやったら、お父っつぁんの遺言が偽物みたいに聞こえるやないか」
   「偽物だす、大偽物だす、本物は勝蔵が燃やしたに違いおまへん」

 三太は、どちらを信じたら良いのか、分からなくなった。どちらかが芝居をしているのだ。辰吉に目で知らせた。新三郎に探って貰いたいのだ。
 辰吉の様子がおかしい。何だか慌てているようである。三太は小声で辰吉に囁いた。
   「どうしたのや、新さんが居ないのか?」
   「あっ、あかん、新さんを横綱酒造に残して来たようや」
 新三郎は、勝蔵の話に疑いをもったのだ。その為に勝蔵を探りに行ったのを知らずに帰ってきてしまったらしい。

 横綱酒造まで引き返そうと歩いていたら、その方向から棒を持った男がテクテク歩いてくる。
   「あ、お父っつぁんだ」
   「亥之吉旦那も、相模屋に聞いて横綱酒造を探りにきたのやな」
 亥之吉が天秤棒を担いで手を振っている。
   「格好悪いなぁ、お父っつぁん」
   「何ぬかしてけつかるねん、お前らその格好悪い師匠の弟子のくせに」
   「わぁ、悪い言葉、他人の振りして、行ってしまおうか」
   「バカたれども、お前らまだこんなところでウロウロしとるのか、それに新三郎さんをほっぽり出して、どういうつもりや」
   『辰吉は、あっしを必要としなくなったのか、次は誰を護ってやろうかな』
   「あっ、ごめん、ごめん」
 新三郎は、亥之吉に憑いて戻ってきた。新三郎にしてみれば『辰吉は、つー と言えば、かぁ の仲だと思っていたのに、探りに行っている間に帰ってしまうなんて』と些か憤慨している。
   「何? その、つー と言えば、かぁ って」
   「つー は口を閉じ気味に言う、かぁは、口を大きく開けて言う、阿吽の呼吸と同じような意味で、呼吸が会うってことだよ』
   「余計、わからん」
   『また、寝物語で聞かせてやろう』
   「ふーん、きっとスケベなことなのだろうね、うふん は口を閉じていうし、あはん は、口を大きく開けていう」
   『そうそう、そのようなこと… 違うわい』

   「お父っつぁんも、相模屋長兵衛さんの件で来たのかい?」
   「わいは、別件や、ある酒屋の主人が米相場を薦められて手を出し、全財産を潰して首を括ったのや」
   「その薦めたのが、もしかしたら相模屋さんから千両を詐取した詐欺師と同じだと推理したのかい」
   「そやそや、人相風体も訊いてきた」
   「横綱酒造の主人、勝蔵さんと違っていたのかい」
   「うん」
   「ほんなら、横綱酒造の元店主で、腹違いの弟の作造さんに会ってみませんか?」
   「よっしゃ、会ってみよう」

   「もう一度お邪魔しまっせ」
 今度は、作造が店番をしていた。
   「何か忘れ物でも… おや、お一人増えましたな」
   「へえ、言い忘れたことがおまして」
   「どうぞ遠慮なく仰ってください」
   「相模屋に横綱酒造が倒産寸前と話を持ちかけた詐欺師が、若い男だと分かりました」
   「ああ、それで私をお疑いになったのですね」
   「それが違いました、もちろんお兄さんの勝蔵さんでもありません」
   「他に若い男と言えば…」
   「横綱酒造の関係者に居ないのですよ」
   「それは良かった」

 三太と辰吉は、一旦上方へ帰ることにした。亥之吉は、まだ行くところがあると言う。幽霊の出る古店舗の売主である後家さんの家だ。
   「お父っつぁん、美人の後家さんだろ」
   「まだ会ってないのに美人かどうか分かるかい」
   「近所で訊いたのだろ、よっ、この後家ごろし」
   「こら、息子がお父っつぁんに言うことか」

 古店舗の売主は、もと灘屋酒店という小売店にしては大きなお店の女将さんである。今は幼い二人の子供を連れて実家に戻り、先々のことを思案中らしかった。
   「わたいは上方の福島屋亥之吉と申しますが、売り店舗の札をみてまいりました」
   「これは、これは、ようこそおいでくださいました」
 辰吉の推察通り、中々の美人である。
   「五十両でお譲り頂けるのですか?」
   「はい、本当は二百両頂くつもりでしたが、変な噂を立てられて、とんと売れずに二百両が百五十両に下げ、百両でも売れず、早く使用人にお給金を払いたいので五十両に致しました」
   「そうでしたか、ではわたいに買わせて頂きましょう、ここに小判五十両を持参しました、これは手付金としてお払いするもので、決して理不尽な値段で買い取りません、どうぞご安心ください」
 小判五十両は、両替屋へ持っていくと、銀約9キロと交換して貰える。上方で流通しているのは銀である。
   「これは、誠意のあるお言葉、恐悦に存じます」
   「それから、ご主人が詐欺に遭ったと同様に、上方の酒問屋の主人が遭った詐欺についても調べているのですが、お話を聞かせてもらえませんか?」
   「どうぞ、何でもお話致します」

 主人は、灘の横綱酒造に関わるお方と、女房に話したそうであるが、今、米の値段が上がっているのは米の相場を操っている複数の相場師が居る為だ。それは米そのものを買い貯めるたり、売り惜しみをしているのではなく、「株」と呼ばれる証券の遣り取りで値を吊り上げている。これから暫くは米の値段が高騰する見込みなので、今「株」を買うと、直ぐに二倍、三倍に跳ね上がると薦められ、「試しに」と、五十両を出した。それが一ヶ月も経たぬうちに二倍に跳ね上がり、主人は百両近くを受け取った。
   「まだ、株の値段は上がるぞ」と、耳打ちされて、百両にもう百両追加して、その男に二百両を託した。一ヶ月後に四百両近くになって返って来た。
 妻の自分が必死に止めたが、主人は有頂天になり、さらに百両を足して、五百両をその男に渡してしまったが、それから一ヶ月経っても、二ヶ月経っても男から連絡は途絶え、主人は思い切って横綱酒造へ足を運んだ。
 そこで主人は唖然とさせられる事実を聞かされた。そんな男は知らないと言われたのだ。事実、横綱酒造の主人以下全ての使用人に会わせて貰ったが、主人を騙した男は居なかった。
   「それで、ご主人は悲嘆に暮れて、首を括ったのですか」
   「はい、五百両も騙し盗られたと、生前、主人は悄気返っておりました」
 悲しみが蘇ってきたのであろう、妻の目に涙が光った。
   「ちょっと待ってくださいよ、そのお話に可怪しいところがおます」
 亥之吉は、何かに気付いたようであった。

   「第二十三回 よっ、後家殺し  -続く-  (原稿用紙18枚) 


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猫爺のエッセイ「ツーと言えばカー」

2015-06-09 | エッセイ
 連続小説「江戸の辰吉旅鴉」というのを書いていて、「ツウと言えばカア」という表現を使ったが、江戸時代に「ツウカアの仲」なんて表現はなかったことだろう。

   「おい辰、喉がかわいたなぁ」
   「へい兄貴、ちょっと行って来ます」
 辰、駈け出して行くと、自動販売機で缶コーヒー「金の微糖」を買ってきて兄貴に手渡す。皆まで言わずとも、今兄貴が缶コーヒー金の微糖を飲みたいと思っていることを辰は察知したのだ。

   「おい辰、さっきから若い女ばかりジロジロみてやがるなぁ」
   「別に…」
   「いいから、今から風俗へ行こうぜ」

 こんなのが、「ツーカー」の仲っていうのではないのだろうか。

 「ツーカー」の語源はなんだろうかと、検索をかけてみた。

① 鶴が「ツー」と鳴くと、烏が「カァ」と鳴いて応える様子から来たものだそうである。
それは、沼で鳴いた鶴の声に、偶然山で烏が反応して鳴いたものであり、鶴と烏は仲が良い訳でも、鳴き声で情報をやりとりしている訳でもない。

② 「それは○○つーの」物知りの長屋のご隠居が教えると、八っあんが「なんだそうかぁ」と応えるみたいな説があるそうだ。これでは「ツーカーの仲」とは言えない。答えを噛んで砕いて教えて、ようやく八っつあんが理解したというのでは、「ツーカー」の寧ろ逆である。

③ 「ツーカー」は、通過からきたものであるというのも可怪しい。「ツーカーの仲」のなのに、相手の言わんとしていることを、しっかれ受け止めないで通過させてしまっては「ツーカーの仲」とは言えない。

これらを「説」と捉えているというのが、Web検索で得られたものであるが、いずれも「説」を成していない。

猫爺の説

 ある日、与兵が沼で菱の実を採っていると、一羽の鶴が罠に掛かって藻掻いているのを見つけた。与兵は鶴を可哀想に思い、罠を外して逃してやった。鶴は直ぐに逃げもせずに与兵の顔を暫く不思議そうに眺めていたが、与兵の「早く逃げろ」という言葉に、われに返って空高く舞上がった。
   「罠には気を付けるのだぞ、元気に暮らせよ」
鶴は、与兵の言葉が分かったように、与兵の頭上を三回まわって、遠くに飛んで行った。

 それから三日後、与兵夫婦が布団に入って間なしに戸を叩く音が聞こえた。
   「とんとん、夜道に迷った美しい女でございます」
   「自分で美しい女やて、ちょっと開けてやろうかな」
 妻が止めた。
   「折角納まるべくものが、納めるところに納まったというのに、放っておきなさい」
   「いやいや、道に迷ったと言われる女性を、放ってなどおけるものか、まして、美しい女と言うではないか」

 女は「つう」と名乗った。与兵はつうを招き入れ、女房がふてくされているのも構いなく、「腹が空いておろう」と、甲斐甲斐しく粥など炊いて食べさせ、機織り部屋に布団を敷いてやった。

  「お礼に、機をおりましょう」
 つうは機織り部屋の障子をぴったり閉めて、「決してここを開けないでください」と言って部屋に閉じこもった。

 パタン、パタンと、機を織る音が聞こえて来たが、与兵は我慢が出来ずに、 つう と叫ぶと、障子を開けてしまった。
  「そんなことをしてはいけない、やめなさい」
  「わかったのです かあ 」
  「そうだよ、お前が自分の羽を抜いて、機に織り込んでいることぐらいわかったさ」
  「お礼がしたかったのです」
鶴に戻っていたつうは、恥ずかしそうに言うと窓を開け、闇の中へ飛んでいってしまった。

 
 

猫爺の連続小説「江戸の辰吉旅鴉」 第二十二回 幽霊の出る古店舗

2015-06-06 | 長編小説
 江戸の同心長坂清心は、上方へ来るときは大勢の護衛が居た。帰りは兄弟二人、呑気な旅である。その兄清心と弟清之助が帰った数日後、福島屋亥之吉が三吉の鷹塾にやってきた。塾を終え、子供たちを送った後、丁度昼食の真最中の三吉であった。
   「どうぞゆっくり食べとくなはれ、わいは急ぎはしません、待っていますさかいに」
   「済みません、お言葉に甘えて、そうさせて頂きます」
 膳に向かって食事をしている三吉の後ろから、亥之吉が声を掛ける。
   「男の一人暮らしにしたら、綺麗に掃除が行き届いていますなぁ」
   「あ、はい、子供たちのお母さんが来て、掃除してくれました」
   「そうでしたか」
   「それに、子供たちも手習いの後片付けをして帰ってくれますので」
   「躾が行き届いて、いい子ばかりですな」
   「いいえ、手習い中も、喧嘩ばかりして、鎮めるのに手を焼いているのですよ」
   「あはは、それでこそ子供ですわ」

 食事を済ませ、膳を片付けた三吉が、亥之吉の前に来て「お待たせしました」と、正座して両手を付いた。
   「はい、用と言いますのは、この鷹塾のことやが…」と、前置きをして、亥之吉は盗賊の一件を話した。

 鷹塾を脅しに来るならず者を調べてみたら、江戸から流れてきた大物の盗賊に行き当たった。亥之吉と三太と辰吉の三人で盗賊の捕物に協力した褒美に、お上と、盗賊に狙われた大店から、合計三百両もの大金を頂戴した。これを全額鷹塾の設立に役立てて欲しいとの三吉にとっては夢の様な話であった。
   「そのような大金を頂戴するのは、身に余ります」
   「いえいえ、三吉さんの志を思えば、決して過分ではありません」
   「しかし…」
   「しかしも、おかしもありません、源太先生を迎えるに相応しい塾を建てようではおまへんか」
   「お言葉に甘えてもええのでしょうか?」
   「実は、その位の金子なら、わいが出してあげようと思っておりましたのやが、近々三太が相模屋の暖簾分けをして貰ってお店を出しますので、そちらの援助に廻しますわ」
   「有難う御座います、それでは遠慮無く使わせて頂きます」
   「はいはい、そうしてください、お金は盗まれてはいけませんので、わいが預かっておきます、必要な時は何時でも言ってください」
   「次男が大工ですので、建物は弟と、弟の親方さんに相談してみます」
   「足りなかったら、それも遠慮なく言ってくださいよ、それと…」
 亥之吉は、こんなことまで言うべきか迷った。
   「はい、なんでしょうか?」
   「お金の出処を説明する必要があるときは、わいを呼んでください、畏れ多くも上様からの賜り物だと、ちゃんと説明させて貰います」

 これで一件落着と、亥之吉は帰って行った。三太のところへ行って、援助させて貰いますと言えば、三太が現在奉公している相模屋の旦那長兵衛が、恐らく反対するだろうと読んで、三太の援助は三太が店を出してからすることにした。

   「さあ、今度はわいの番や」
 亥之吉には、志がある。大坂に大きな雑貨商を作ることだが、建物の屋根を高くして、明かりを十分に取り入れ、食料品から衣類から家具など様々な商品を展示し、お客に手に取って商品を選んで貰える雑貨店を作ろうと思っている。
 その名を「福島屋百貨店」と改め、買い物がし易い、大量仕入れで少しでも安く買ってもらえるお店にしたいのだ。
 実は、目を付けている土地があるのだ。大坂の繁華街から少し逸れた土地ではあるが、亥之吉は「やがて繁栄する」と、読んでいる。そこに亥之吉の安い店舗が出来ると、その繁栄化に加速がかかるのではないかと、これは亥之吉の希望的観測ではあるが…。
 将来は、亥之吉の福島屋と同じ場所に、三太の酒店相模屋支店も出店して貰いたいと密かに考えている。

 鷹塾からの帰り道、江戸の福島屋程も大きくはないが、確りした空き家の古店舗を見つけた。価格が五十両と破格なのだが、近所の店舗の人に訊くと、訳ありだそうである。
   「これが出ますのか?」亥之吉は幽霊の手付きをして見せた。
   「そうですがな、大きな詐欺に遭って、お店も財産もなくなった、若い主人が蔵で首を括りなさったのです」
   「それは気の毒に… ご家族は?」
   「女将さんが手元に残った僅かな金を使用人達に分け与えて、小さいお子達を連れて、実家に戻っておいでやそうです」
   「酷い話ですなぁ、それで旦那さんが幽霊になって出るのですか?」
   「それは他人が流した無責任な噂ですけど、その所為でこのお店が売れませんのや」
   「中を見せて貰おうと思えば、どこに頼めばええのですか?」
   「昼間は開いておりますから、自由に見てもらってええそうです」

 女将が来て手入れしているのか、中は綺麗に掃除されて、荷物を運び込めば何時からでも商売が出来そうである。ただし、江戸福島屋の店舗とは造りが違うので、手を加えねばならない。
 蔵も覗いてみた。天井の梁に切れた荒縄が残っていて首吊りの後が生々しい。苦しくて藻掻いたのであろう、ほんの少し縄に血の跡が黒く残っていた。
 亥之吉は、この古店舗を無性に買いたくなった。首を括った若い店主の仇をとってやりたくなったのだ。
「女房や親父に相談せんとあかんのやが、説得してわいが買います」
 亥之吉は、この古店舗の持ち主の実家の在所を教えてもらうと、店舗に向かって「それまでどうぞ売れませんように」と、両の掌を合わせて頭を下げ、満足気に帰っていった。

 亥之吉は、道修町の福島屋に戻ってきた。
   「お絹、戻ったで」
   「あ、お前さんお帰り」
   「お絹に聞かせたい話があるのや」
   「それよか、三太の奉公する相模屋長兵衛さんが大変なことになったそうで」
   「どうしたのや、死んだのか?」
   「そんな縁起でもないことを言ってからに、そうやない、大きな詐欺に遭いはったのや」
   「また、詐欺かいな」
   「またて、誰か他にも遭った人がおいでか」
   「そやねん、その詐欺に遭った人は、首を括ったのや」
   「まぁ、お気の毒に、長兵衛さんはそんなことはしはる筈はおまへんが…」
   「それで、辰吉は居るのか?」
 一緒に、様子伺いに行こうと思ったのだ。
   「もう、とっくに相模屋さんのところへ飛んで行きましたわ」
   「そうか、あいつ三太思いやから気になったのやろ」
   「そうですねん、兄ぃの大事や言うて、血相変えて行きました」
   「そうか、わいも行ってくるわ」
   「行って、長兵衛さんの相談に乗ってあげて」
   「わかったお絹、ほんなら行ってくるで」

 亥之吉は相模屋の前に立ったが、店は普段通りに商いをしていた。
   「ごめん、福島屋の亥之吉ですが、旦那さんおいでになりますやろか」
 番頭が申し訳なさそうに愛想笑いをした。
   「すんません、主(あるじ)は体の具合が悪くて横になっておりますのやが…」
   「それなら、わたいが旦那さんのお部屋に行かせて貰います」
   「それが、誰にも会いとうないと言いまして」
   「相模屋長兵衛ともあろう者が、何を弱音はいていますのや」
  亥之吉、案内もなしにズカズカと入って行った。
   「旦那さん、入らせて貰いますで」
   「だれやいな、誰にも会いとうないと言っておいたのに」
   「へえ、福島屋の亥之吉でおます」
   「亥之さんかいな、三太を取り返しにきたのか?」
   「そんなことはしまへんがな、何を心配していますのや」
 長兵衛の寝所の襖を勝手に開いて、亥之吉がずかずかと入った。
   「長兵衛さん、詐欺に遭ったとは、どのくらい盗られたのです?」
 長兵衛は、布団の中から手を出して、人差し指を一本立ててみせた。
   「えーっ、百両ですか」
   「違います、千両ですわ」
   「ひゃーっ、千両ですか、そら悔しいわ」
 金額よりも、恥ずかしいのが先に立つのか、長兵衛は布団で顔を隠してしまった。
   「実は、長兵衛さんのことを聞くまえに、もうひと方、詐欺に遭ったひとのことを聞いてきたのですが、その人は首を括ったのやそうでおます」
   「同じ詐欺師に遭ったのやろか?」
   「そうかも知れません、長兵衛さんは、どんな手口でした」
 長兵衛は、恥も外聞もかなぐり捨てて、亥之吉に打ち明けた。
   「笑いなさんなよ」
 前置きをして、ぽつりぽつり話した。摂津の国は灘の、酒造りに従事するものは十人程度の造り酒屋の主人が、米の相場に手を出して大損をし、倒産寸前だという。もし、援助して貰えたら、灘の生一本「横綱盛」の販売権を全てと、高槻藩御用達の看板も譲渡する。今後は酒造りに専念し、より良い銘酒「横綱盛」を造っていきたいと店主一同願っていると聞かされた。
 あの銘酒「横綱盛」を無くさずに済み、おまけに販売権の全てが手に入ると、長兵衛は喜んで千両もの金を渡してやったのだと言う。
 金を受け取りに来た作り酒屋の主は、「横綱盛」を無くさずに済んだと、有難がって伴の者に荷車を引かせ、涙ながらに帰っていった。
 その後、何の音沙汰も無いので、使いの者を灘に行かせたのだが、当の造り酒屋は倒産寸前に追い込まれたことはなく、当然ながら援助を求めたことも無いと言うことだった。
 使いの者では埒があかないと、長兵衛は自ら灘の造り酒屋へ行って確かめたが、当の主は長兵衛のところまで来た者とは違っていた。
 自分は詐欺の手には乗らないと自負していた長兵衛だけに、欺かれたと分かったときの打撃は大きかった。

   「相模屋さん、あんさんのところは、千両盗られたぐらいでお店の屋台骨が傾くことはないと思いますが、その金はわたいが取り返して、詐欺師を奉行所へ突き出してやります、詐欺師の人相と、造り酒屋の場所を教えてください」
 亥之吉は、要点の説明を訊くと、わたいに任せとくなはれ。仇はきっと取ってあげますと、自信ありげに言った。
   「相模屋さん、恋患いのぼんぼんみたいに横になっていないで、ばりばり働いて気を晴らしなされ」
 亥之吉は、ちょっと言い過ぎたかなと反省しながら、長兵衛の寝所から離れた。
   「ところで、番頭さん、うちの倅がお邪魔していませんか?」
   「辰吉坊ちゃんなら、来はりましたが、三太と二人して亥之吉さんのところへ相談に行くと出て行きましたで、亥之吉さん、それで来てくれはったのやなかったのですか」
   「どこかで行き違いになったようです、福島屋でわたいの帰りを待っているかも知れません」
 亥之吉は、急いで帰ってみたが、二人の姿はなかった。
   「あいつら、二人で灘へ行ったな」

 また出て行こうとした亥之吉を、女房のお絹が止め
   「さっき、私に話したいことがあるといいはりましたな」
   「うん」
   「出て行くのなら、それを話してからにしなはれ」
   「そやな、話すわ」

 鷹塾からの帰り道、古い空き店舗を見つけたことを話した。その店舗は、たった五十両で売りにだされているのだが、先の店主が詐欺に遭い、首を括ったのだと言う。建物はしっかりしていて、少し手を加えたら、家族も住めるし店も開ける。
   「どやお絹、怖いか?」
   「いいえ、私はちっとも、だけど客が寄り付かへんのと違いますか」
   「かも知れん、だが、わいがその店主の仇をとって、怨霊の呪いを鎮め、成仏させたと言う筋書きを流したら、ええ宣伝になるのやなかろうか」
   「そんなにうまく行きますか? 第一仇がとれますか?」
   「とったる、この店舗も酒屋やったらしいし、詐欺に遭った相模屋さんも酒屋や、きっと関連があると思うのや」
   「そうですなぁ、幽霊はうちの誰も気にしたり怖がったりはしまへん、お化けを怖がるのは一人おりますけどね」
   「ほっとけ!」
   「第二十二回 幽霊の出る古店舗」  -続く-  (原稿用紙17枚)

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猫爺の連続小説「江戸の辰吉旅鴉」 第二十一回 上方の再会

2015-06-04 | 長編小説
 草木も眠る丑(うし)の刻(午前一時)、大店高麗屋の戸が叩かれた。
   「起きろ、わしだ、片岡恭之助だ、ここを開けなさい」
 火付盗賊改方同心と名乗っている男だ。
   「早くここを開けなさい」
 はじめは優しく叩いていたが、段々焦れてきたのか乱暴になってきた。
   「早く開けないか、片岡だというのが聞こえないか」
 漸く、応答があった。
   「へえ、こんな真夜中に、何方の片岡様でございますか?」
   「昨日、夜盗の襲撃から護ってやると申したであろう」
   「それは誰に申されましたか?」
   「主(あるじ)だ、お前はあるじの宗右衛門ではないのか?」
   「へえ、わいは番頭の嘉兵衛でおます」
   「主から聞いていないのか?」
   「いいえ、何も」
   「お前では埒(らち)があかぬ、主を呼べ」
   「えらいすんまへん、主は熱を出して休んでいますので、明朝にしてもらえまへんやろか」
   「バカを言うな、わしらはこの店を護る為に、怪我までしているのだ、手当をする、晒と焼酎を用意致せ」
   「それはどうもご苦労さまでした、直ぐお開けしますのでちょっと待って下さい」
   「何故待たねばならぬ」
   「それは、夜盗が出ると聞きましたので、頑丈に戸締まりをしております」
   「そうか、待っているから早くしろよ」
   「へえ、ところで、火付盗賊改方同心の片岡さまとおっしゃいましたね」
   「そうだ」
   「言い難いことですが、火盗改は大坂には無い役職ではありませんでしたか?」
 暫くの沈黙があり、男は言った。
   「この度の夜盗騒ぎで、急遽配備されたのじゃ」
   「さいだすか、それは有り難いことで…」
   「まだ開かぬのか?」
   「あ、支え棒が外れました、今、お開けします」
 勢いよく、引違いの戸が開いた。いきなり刀の抜身が「すっ」と入れられて、戸の正面に立つ番頭に向かってきた。今まさにその切っ先が番頭の腹に突き立てられようとした時、戸の端に居た男が、天秤棒で「バシッ」と、刀を叩き落とした。
   「何をしやがる」
 黒覆面の男が一人戸を潜って入ってきたのを、反対側の戸の端に居た男に、六尺棒で腹を突かれた。戸の外に待機していた男たちが「おー」と、後退りしたのを切欠に、正面の番頭が外へ飛び出して天秤棒を真横に振った。その天秤棒は、ずらり並んだ黒覆面の男たちの喉を擦(こす)ったので、驚いて後退りをした隙に、戸の内から二人の棒を持った男が飛び出してきて、戸を閉めると、黒覆面たちの腹を「ドスドス」と、突きまくった。
 今度は、黒覆面の男たちの後ろにいた一人が、突然刀の峰で仲間の肩先を打って回った。そのとき、呼子笛が鳴った。高麗屋の戸の内からである。
 再び戸が開かれると、縛られて転がっている黒覆面の男が目に入った。一人の目明しが中に居たのだ。
 どこかのお店の内にでも隠れていたのか、御用提灯が闇にわくかのように増えて近付き、やがて黒覆面たちを取り囲んだ。
 黒覆面の男たちは、予め天秤棒や六尺棒で打撃を与えられていたので、難なくお縄になった。

 十人の盗賊共々お縄こそ頂戴しないが、亥之吉師弟も、東町奉行所に連れられて行った。黒覆面の男たちが、「我らは盗賊ではない」と、言い張ったからだ。だが、深夜に黒覆面を着けて大店に押し入ろうとしたのは紛れもない事実である。これで、江戸で盗んだ千両箱が出たら、疑いの余地はないのだが、捕らえられた十人が十人共、「知らぬ、存ぜぬ」と、白を切った。
   「石でも抱かせてみるか」
 奉行が横に居た与力を見て言った。亥之吉が「口幅ったいようですが」と、断りを入れて「千両箱の隠し場所は、わいらに探らせて貰えませんか」と、申し出た。
 奉行は、「探るよい思案でもあるのか」と訊き返した。
   「へえ、巧くいくかどうかわかりませんが、任せて頂ければ手口を見つけてご覧に入れましょう」
 何やら、自信がありそうに答えた。ここで奉行所のお調べに任せて、証拠なしで無罪を言い渡されては、必ずどこかの大店が犠牲になってしまうからである。
   「必ずお役に立てると思いますが、それには一つ条件がおます」
   「どんなことだ」
   「われわれ師弟の内、一人で宜しいので、盗賊が繋がれたお牢の前に四半刻ばかり居させて貰いたいのです」
   「それは叶わぬ、お牢の前に一般の者を入れることは罷り通らぬことである」
   「そうですか、では仕方が有りません、我々はここで引き揚げさせて頂きます」
 後のことは、奉行に任せて、亥之吉、三太、辰吉は戻っていった。

 それから三日後のことである。目明しが亥之吉を訪ねて福島屋へやって来た。捕らえた盗賊を拷問にかけたか、誰一人吐かなかったようだ。
   「亥之吉さん、お奉行がお牢の前に一人入れても良いと言っておられる、来てくださるか」
   「分かりました、では一番若い辰吉という、わいの倅を入れて貰いましょう」
 亥之吉は辰吉を呼び、何やら囁くと、辰吉は「うん、うん」と頷いて、目明しに付いて奉行所へ行った。

   「わしらは盗賊ではない、盗賊の魔の手から高麗屋を護ろうとしていた者達だ」
 牢の中に一纏めに入れられた男たちが騒いでいる。入ってきた辰吉をみて、一斉に睨みつけた。
   「お前は、三吉の用心棒やな」
   「そうだ」
   「何をしに来た」
   「お前らが高麗屋から一朱貰って、店を護ってやると言っていたのを証言してやろうかなと思ったりして…」
   「おう、頼む」
   「止めておこうかなと思ったりして…」
   「止めるな、証言してくれ、このままでは我らは何も悪事を働いていないのに、盗賊にされて島流しになるのだぞ」
   「島流し? 磔獄門の間違いではないのか?」
   「バカ言え、盗みも人殺しもしていないのだぞ」
   「そうかなぁ、ちょっと控の部屋で考えて来る」
 辰吉は牢の前から立ち去ったが、守護霊新三郎は盗賊の頭(かしら)に移っていた。牢番には「四半刻のちに、もう一度来ます」と言ってきた。

 お奉行は、辰吉を呼び寄せた。
   「実はなぁ、江戸でヤツ等が奪った千両箱は八つを下らないと読んでいるのだが、見付からないので、上方へ持ち去ったものとして、当所にもお鉢が回ってきたのだ」
 江戸の北町奉行は、辰吉に協力して貰えば何とか見つかるのではないかと、いやはや無責任にも上方へ押し付けてきたのだと言う。
   「辰吉は、霊占術ができるのであろう?」
   「へ? どなたがそんな嘘を言ったのですか?」
   「江戸の奉行じゃ、奉行は与力の長坂に聞いたと申したそうな」
   「え、長坂様、あの父亥之吉や、三太の兄貴と馴染みのあった長坂清三郎さまですか?」
   「いや違う、たしか清心とか申したが…」
   「そうですか、それはきっと清三郎さまのご子息でございましょう」
   「そなたは会ったことがないのか?」
   「ありません、霊占術も私ではなく、三太の兄貴でしょう」
   「お前の兄か?」
   「まあ、そんなところです」
   「お前は、霊占術が出来ないのか?」
   「出来ます、兄に習いました」
   「そうか、良かった、辰吉、千両箱の行方を占ってくれ、見つけたらお上から礼金を賜ることだろう」
   「わかりました、何とかお奉行のお役に立つように努力します」
   「うむ、頼んだぞ」

 再び辰吉はお牢の前に行き、きっかり四半刻(三十分)后に戻ってきた。
   「新さん、千両箱の在処は、分かったかい?」
   『上方には運んでは来ていないようだ、江戸の越中島にある相馬寺無縁墓地に埋めてある』
「江戸奉行の手抜かりだな」
   『どうやら、寺の住職も盗賊の仲間のようだ』
   「わかった、東町の奉行に言って、江戸へ連絡をとって貰いましょう」

 それから十日後、高麗屋宗右衛門が番頭と共に福島屋へ「亥之吉さんに会いたい」と、やって来た。
   「はい、番頭の亥之吉でおます、どうなさいました?」
   「お約束の物をお持ちしましたのや」
   「わい、何か約束しましたかいな?」
   「それ、盗賊の魔の手からわしらの命とお店を護ってくれた方に百両のお礼をしますと…」
   「へ? あれは盗賊の仲間に払うと言いはりましたのやろ」
   「それを言われると面目ない」
   「どうぞ、わいらに気を使わないでください」
   「お奉行さまから亥之吉さんの大活躍をお聞きしました、おまけに江戸で奪った千両箱の在処まで突き止めはったひそうやおまへんか」
   「それは、あのー、新…」
   「ご子息の手柄と言いたいのですやろ」
   「いえ、それはその…わいではなくて…」
   「あれだけの手柄を立てておいて、何と奥ゆかしい」
 麻で編んだ銭袋に入った銀百両を手渡された。上方で流通しているのは、金の小判ではなくて、丁銀と呼ばれる銀貨で、一両は六十匁(225g)であるとして、百両ともなれば、二十二キログラム以上の重さである。
   「うわぁ、こんなに頂戴してええのだすか?」
   「へえ、店の者、みんな亥之吉さんに感謝しとります」
   「ほんなら、遠慮のう頂戴しまして、有意義に使わして貰います」
 
 亥之吉は、受け取った銀六貫匁を三吉の鷹塾を建てるのに役立てようと言った。同じことなら、新築の建物にしてやりたいのだ。三太も辰吉も異論はなかった。

 それから更に十日後、江戸からお使者が十数人の護衛と共にやって来た。亥之吉、三太、辰吉の三人は、東町奉行所に呼び出された。
   「其方たちの働きで、盗賊が一網打尽に出来た、盗賊達が奪い盗って集めた八千両も無事発見することが出来て、幕閣のお歴々も、誰一人腹を切らずに済んだことを慶んでいると言うことだった。
   「そこで、江戸からお使者が報告に訪れて、其方たちに礼を言いたいそうである」
   「幕閣のお使者をご案内致しました」
 奉行が控える部屋の襖が静々と開かれて、二人の若いお使者が導かれて入って来た。三太がその使者を見上げて、「あっ」と、声を漏らした。
   「長坂清心さまと、清之助さまではありませんか」
 奉行が三太を咎めた。
   「今日のお二人は、お上のお使者ですぞ、三太、慎みなさい」
 だが、清心と清之助が三太の元へ走り寄った。
   「三太さん、お久しぶりです」
   「お父さまは、おかわりありませんか?」
   「はい、元気です、この度も一緒に上方まで行くと困らせたのですよ」
   「それは良かった、お父様には色々とお世話になったのですよ」
   「それは、父も三太さんに助けられたと申しておりました」
 いきなり三人で世間話を始めたものだから、奉行が困惑している。
   「これ、その話は後でゆっくりしなさい」
   「あ、これはお奉行様、失礼いたしました」
 清心、三太から離れて、お奉行に挨拶をした。
   「長坂どの、先に用を済ましなされ」
 長坂清心は、亥之吉たちの前に進み出て、「お上から申し下されました」と、書状を出して読み上げた。
   「この度の其方たちの働きを讃えて、褒美をくだされ申した」
 奉行所役職の侍が、三宝を持って入ってきた。亥之吉たちの前に三宝を置き、掛けた袱紗を取ると、更に一押しして亥之吉の膝元まで三宝を進めた。こちらは小判である。葵の御紋が入った帯で封印した、切り餅が八つ、二百両である。思わず亥之吉は奉行の顔色を窺った。奉行は「うん」と一つ頷いた。遠慮などしては無礼であるぞと識らしめた頷きである。
   「ははぁ、有難き仕合せにございます」
 
 その夜、奉行所を辞した清心、清之助の兄弟は、亥之吉の滞在する福島屋に泊まった。夜遅く三太もやって来て、江戸での子供の頃の出来事など楽しく話をして、翌朝早く帰って行った。お絹が作った弁当や旅の必需品を持たせ、辰吉が船着場まで送っていった。
   「お父上清三郎さまによろしくお伝えください」
   「辰吉さんも、お父さんや三太さんに、江戸へお越しになった時は、必ず我屋敷を訪ねてくださるようにお伝え下さい」
   「ありがとうございました、さようなら」
 清之助も、船上で手を振って別れを告げた。

 「第二十一回 上方の再会」  -続く-  (原稿用紙17枚)

  「第二十二回 幽霊の出る古店舗」へ

猫爺の連続小説「江戸の辰吉旅鴉」 第二十回 師弟揃い踏み

2015-06-01 | 長編小説
 暇人辰吉は、当分三吉の鷹塾に寝泊まりすることになった。親バカお絹は、せっせと料理の腕を振るって、美味しい物を差し入れしている。ついでに、今日は米、明日は味噌、魚に野菜と、「甘やかし過ぎ」と、亥之吉に言われた程である。
   「なんやこれ、鷹塾で食料品のお店が出せる位持って来ている」
 辰吉が呆れ返っているが、三吉は苦労人、貧しい塾生達に少しずつ持ち帰らせている。鷹之助先生の意志を受け継いで束脩(入学金)や謝儀(授業料)は取らず、先生へのささやかな心付けである二十文程度の月並銭だけで、おまけに食材を貰って帰ってくるために、父親や母親がせめて三吉先生のお役に立てばと、荒屋の修理や三吉の着物を洗濯に来る。
   「お父さんも、お母さんも忙しいのに、どうぞ気を使わないでください」
 三吉もめいっぱい気を使っている。地回りは相変わらず三日と空けずにやってきては辰吉に追い返されている。

 ある日、ひょっこりと亥之吉と三太が鷹塾にやって来た。
   「あんなぁ、東町のお奉行が、わいに会ってくれることになったのや」
   「へー、どんな根回しをしたの?」辰吉が訊く。
   「江戸の北町奉行に一筆書いて貰ったのや、何でも大坂東町のお奉行と若いころ長崎奉行所で同輩やったらしい」
   「ははは、また虎の威を借るのか」
   「何をぬかす、わいが精出して北町奉行の手助けをして広げた人脈や、それに鷹之助先生の名を出したら、憶えていた与力が居ましたのや」
   「それで、乗り出してくれるのか?」
   「いや、今はそれどころではないと言って、わいのすることに目を瞑ってくれるそうや」
   「それだけか?」
   「そうや、今大坂にナンチャラ組という非道働きの盗賊団が江戸から流れてきて、大店を襲っては店中の者を皆殺しにして千両箱を奪って去る夜盗が出没しているのやそうな」
   「うわ、酷い、大店の人たちは、戦々恐々やな」
   「そうや、三太のとこも大店や、気ぃつけたりや」
   「へえ、がんばります」
 ナンチャラ組と名乗っている訳ではない。亥之吉が名を忘れたのだ。奉行所が十文、二十文の恐喝に人を掛けられないのもわからないでもない。
   「目を瞑ってもらうだけで十分や、わいらでごろつきの後押しをしている同心を炙りだしてやる」
   「同心と言うても、本当かどうかわからへんと思うけど」と、三太。
   「そやな、ハッタリかも知れんな」

 と、話しているところへ、ごろつきが九人ずらり。その内一人は頰被りをしている。
   「何や、また人数増やしおったな」
   「三吉の用心棒も増えとるやないか、丁度良かった、今日こそは大坂の煩いおっさんと若造二人、叩きのめしてくれるわ」
   「大坂の煩いおっさんて、わいのことか?」
 亥之吉が不満気に聞き質す。
   「そうや、お前や」
   「そんな殺生な、まだこんなに若いのに」
   「黙れ、糞爺」
   「えっ、今度は糞爺か?」
   「そやそや、折り畳んで腰の曲がった爺にしてこましたる」
   「酷いやないか、わいまだ若造やで」
   「なんかしてけつかる、すでに杖を突いているくせしやがって」
   「アホ、これは杖やない」
   「糞桶担ぐ棒やろ」
   「当たり」

 辰吉が焦れて、口出しをした。
   「お父っつぁん、面白くもない掛け合い漫才やってないで、早く喧嘩しようぜ」
   「まあ待て、コイツおもろいやないか、ええ漫才師になれるで」
   「誰が漫才師や、いてもたろか」
   「どこへ行くのや?」
   「アホか、殺したろかと言っておるのや」
   「さよか、折角もりあがっとるのに、何処かへ行かれたらどんならんなと思うたのや」
 男の仲間も焦れてきた。
   「兄貴、何をしょうもないことを言い合っているのです、座が白けていますやないか」
   「座とは、何や? ここは寄席か」

 胡座をかいていた亥之吉が、天秤棒を持って立ち上がった。
   「ほんなら、頃合いもええ、コイツらを退治してやろか」
   「よっしゃ、九人まとめて畳んでやろう」
 三太と辰吉も棒を持って立ち上がった。その時、掛け合い漫才の男が叫んだ。
   「ここにおられる頬被したお方はなぁ」
   「水戸のご老公か?」
   「ちゃうわい」
   「もしや、暴れん坊の…」
   「アホ、ここは大坂や、そんな訳ないやろ」
   「何や、ただのおっさんか」
   「このお方はなぁ」
   「その頬被をしたお方は?」
   「わいらの親分や」
   「そのお方が同心ですか?」
   「親分、コイツ等をどうしましょう」
 親分は「チッ」と舌打ちをして言った。
   「お前はバカか、わしを同心だと言ってしまったから、殺すしかないだろう」
   「わし、同心やと言っていませんが…」
 同心は、ムスッとしている。
   「コイツが親玉らしい」亥之吉が言うと、
   「おお、聞いた、聞いた、正体を暴いてやる」辰吉は小さいときから喧嘩好きである。

 初めての親と、子、孫弟子の揃い踏みである。
   「殺したらあかんで」
 亥之吉が叫んだ。
   「わかっとります」と、三太。
   「骨は折ってもいいのか?」辰吉である。
 亥之吉と三太の本気の喧嘩を、見るのは辰吉に取って初めてである。亥之吉師弟は、大暴れして九人の内六人は打ちのめしたが、ゴロツキどもの親分とそれを護っていた二人は、倒れている六人を見捨てて逸早く逃げてしまった。
   「追うな、追うな、何れは頬被りを剥いでやる」
 だが、捕らえた六人の口は固かった。親分の名を言えと責めても、「知らぬ」と、口を噤んだままである。そこで辰吉の守護霊新三郎に探って貰おうと新三郎に探りを入れて貰ったが、皆知らないようである。

 亥之吉は意外な手に出た。捕らえた六人を全部解き放したのだ。
   「お前らを捕らえて奉行所に突き出したところで、大した罪にもならん、どうせ親分に強要されて鷹塾を襲っただけや」
 六人の男達は、我先にと逃げ去った。

その夜、ゴロツキ共は祝杯を上げていた。
   「ざまぁ見ろ、俺達を捕まえても、手も足もでないやないか」
   「そうと分かれば、どんどんショバ代をふんだくってやろうや」
   「しかし、罠かも知れない」
 さすが、親分と呼ばれる男である。亥之吉の魂胆を見抜こうとしている。
   「暫くは、三吉から小銭を巻き上げるのは止めておけ」

 亥之吉は、自分の立てた作戦を二人には話しておこうと考えた。
   「ええか、わいは三吉さんを助ける為にだけ乗り出したのやないで」
 地回りの小銭稼ぎは隠れ蓑で、きっと大物と結びついていると亥之吉は考えた。
   「あの九人の内、八人の顔は憶えているな」
   「へい、大体は」辰吉である。
   「へえ、しっかりと」三太である。
   「もー、辰吉は頼りないなぁ」
   「それなら、覚えておけと言ってくれたら一生懸命憶えたのに…」
   「まあええわ、あの内の誰かが、どこか大店に出入りしているのを突き止めるのや」
 東町のお奉行には明かしておいたが、親分が東町の同心であれば、作戦が筒抜けになる。動くのは亥之吉たち三人だけにした。
   「そやけど、ひとつ問題があるのや」
 亥之吉がぽつりと言った。
   「わいら三人、天秤棒をもっとるさかい、目立ってしゃあない」
   「ほんまや」
   「この度は、天秤棒を持たずに、本物の杖にしようと思うのやが」亥之吉の提案である。
   「わいは、座頭の市さんから借りた仕込み杖や」
   「わっ、凄い」
   「嘘や、ただの棍棒や」
   「三太は、この金剛杖や」
   「わっ、お遍路さんみたいや」
   「辰吉はこの竹や」
   「何だ? これ、ひょっとこの火吹き竹じゃないか」
   「文句言うな」

  それから亥之吉たちは地回りを張っていたが何事も起こらず、相変わらず縄張り内で小商いをする行商人や露天商人からショバ代と称する小銭を取っていた。その額は、二十文程度で、払う方も諦めているようだった。
 三太と辰吉も、亥之吉が「放っておけ」というので、手出しはせずに傍観していた。ところが、別の男たちが、大店にも要求しているのがわかった。店主は地回り達が要求する額がせいぜい一朱(二百五十文)と少額なので、気に留めるでもなく、払いながら盛んに頭を下げている。
   「有難うございます、どうか宜しくお願いします」
 店主は寧ろ喜んでいるようにも見える。地回り達が去った後、亥之吉はこの大店の店主に声を掛けてみた。
   「福島屋の亥之吉と申しますが、今の方々はどなたで」
   「ああ、福島屋さんのお方ですかいな、いえね、あの人達が夜盗から店を護ってくれるのですよ、それもたった一朱で」
   「強そうな人たちでしたから、一安心ですね」
   「そうです、そうです、福島屋さんもお願いをしたらどうです」
   「教えていただいて、有難うございます、ぜひ店の旦那様と相談してみます」
   「それがよろしいわ」
   「ところで、どのようにお店を護ってくれますのやろか」
   「日が暮れて店を閉めたあと、十人体制で表を見張ってくれるのやそうです」
   「その命がけの仕事を、たった一朱で引き受けてくれるのですか?」
   「そら、盗賊に襲われて護って頂いたときは、別にお礼をするつもりです」
   「どれくらい渡せばよいのです?」
   「百両くらいかな? そんなのをよこせとは、あの人たちは言いませんが…」
   「わかりました、帰って旦那様に言います」
   「あ、そやそや、護ってくれる方々の中に、火盗の同心も忍んでいますのや」
   「お名前は?」
   「伺っとりますが、他人に漏らすなと口止めされていますので」
   「さよか、いえ決して訊きません、迷惑になったらいけませんからね」
   「すんません」

 亥之吉は、辰吉に尋ねた。
   「今の話、聞いたか?」
   「はい、聞きました」
   「手を打ったか?」
   「はい、すでに新さんが探りに行きました」
   「よっしゃ、流石わいの倅や、よう気が付いた」
   「いえ、新さんの判断です」
   「なんじゃいな」
 三太が笑っている。

 暫くすると、使いに出かける小僧さんに付いて、新三郎が出てきた。
   「お父っつぁん、同心は火付盗賊改方の同心片岡恭太郎やそうです」
   「わかった、ほんならあのゴロツキどもの塒近くで、ヤツ等が帰ってくるのを待とう」
   「夜盗が襲撃するお店を探るためですね」
   「三太、それはもうわかっている、何人で何時に襲うか知るためや」
   「わかっているとは、どのお店です?」辰吉が訊いた。
   「今、わいが店主に話しを訊いていた、あの大店やないかいな」
   「えーっ、あそこはヤツらが護ってくれているのと違うのか?」
 辰吉は納得がいかない。
   「三太はもう分かったか」
   「へえ」

 先回りして、暫く待っていると、小銭集めの三人が帰ってきた。新三郎がその内の一人に憑いて塒に入っていった。やがて、大店に顔を出した地回りも戻ってきた。

 四半刻(三十分)も待ったであろうか、漸(ようや)く新三郎が戻ってきた。
   「遅かったなぁ、何か別のことを探っていたのか?」
   『火盗の同心の上に、陰の親玉が居るような気がして探っていたが、やはり同心が親玉のようだった』
   「そのように新さんが言っています」
   「分らへんがナ、ちゃんと通弁してくれんと」
 辰吉が新三郎の言葉を伝えた。
   「それで、襲うのは何人で、何時や」
   「十人で、丑の刻(午前一時)に襲うそうです」
   「わかった、今から奉行所へ行く、付いて来い」
   「何だ、俺達が捕えるのではないのか」辰吉、不満そう。
   「お前、その竹で闘う積もりか、一旦戻って出直しや」
   「あ、そうだった」

  「第二十回 師弟揃い踏み」  -続く-  (原稿用紙16枚)

   「第二十一回 上方の再会」