蕾がめいっぱい膨らんだ桜の木の下を、文太と梨奈(りな)が黙って歩いていた。梨奈ときたら未だに小学生の時の習慣で文太のことを「お兄ちゃん」と呼ぶものだから、知らない人は完全に兄妹(けいまい)だと思っている。小学生時代は梨奈の方が高かった背丈が、今では文太の肩ほどしかない。 中学一年生の頃までは、クラスの中で一番小さくて「チビ」と呼ばれた文太だったが、すっかり追いついて、もう誰もそんな呼び方をするものは居なくなっていた。
「梨奈は高校を卒業したら、進路は決めているの?」 文太が口火を切った。
「今日入学して、もう卒業後の話」
「俺たちは立ち止まることは許されないし、ニートとか親の脛をかじるという選択肢はないだろ」
「それって、選択肢じゃないでしょ」
「まあ、そうだけど」
「そうねぇ、18才になったら施設には居られないから、まず如何に生きて行くかよね」
「それなりの理由があれば、20才までは置いてくれるそうだが、居辛いよな」
梨奈は深刻そうなことを言う割には、文太と同じ学校に入れたことが嬉しくて浮き浮きしていた。二人が入学したのは、公立高校の普通科である。
「お兄ちゃんは、医者になると言っていたわね、東大の理3を受けるの?」
「特待か、奨学金の給付が受けられる大学であればどこでもいい」
「お兄ちゃんなら、東大も確実だと思うけどな」
「俺は、研究者ではなく臨床外科医になるのだ」
文太は独り言のように呟いて、梨奈の方に向き直り、優しい口調で言った。
「梨奈は、まだ考えていないの?」
「働きながら定時制の看護師学校に行くつもりだったけど、自分独りの力では無理だと思ったの。それに…」
「それに何?」
「動機が不純だし」
「不純って?」
「お兄ちゃんと一緒に働きたいなんて」
「別に不純じゃないよ」
梨奈は、告白のつもりだったが、文太はサラリと受け流した。梨奈はがっかりしたが、
「二人は双子の姉弟なのだ」と、諦めた。
文太のことを「お兄ちゃん]と呼んでいるが、本当は梨奈の方が半年ばかり早く生まれているのだ。
夏休みが近付いたある日、梨奈がクラスメイトの彩恵里(さえり)を連れてきた。彩恵里は数学の授業が難しくて分からないという。文太も数学教師の教え方があまりにも下手くそだと常々思っていた。自分の教え方のまずさを棚に上げ、分からない生徒を阿呆呼ばわりする。これでは数学が嫌いになる生徒を増やしてしまう。文太は、自分が教えてやることにした。
放課後、教室に残って一つ一つ丁寧に教えると、すぐに覚える。
「それみろ!」
文太は心の中で数学教師に言った。
「阿呆はお前だよ」
それから暫くは復習と称して放課後に勉強を見てやったが、それを担任の教師にチクった奴がいたらしく、二人は担任に注意されてしまった。
「家でやれ!」
どうやら、文太に「下心あり」と痛くもない腹を探られたようだった。 それなら、私の家に来てほしいと彩恵里に頼まれ、一旦は断ったが、「どうしても」 と、言われ、「夏休みまで」と約束したうえ承知した。この時、文太の胸によからぬ予感が過ぎった。
予感は当たった。彩恵里の母親に「家に押しかけるなんて非常識」と、追い返されたのだ。 ここでも「孤児!」と、冷ややかな嘲笑を浴びせられた。
文太は何も反論せずに、黙って引き揚げた。玄関に背を向けたとき、彩恵里の泣き叫ぶ声が聞こえた。文太は自分の軽率さを反省しながら、帰途についた。
翌朝、彩恵里が走り寄ってきて「昨日はごめん」と、言った。
文太は「いいよ」 と、流したが、彩恵里は申し訳なさそうに「本当にごめん」と、何度も頭を下げた。
夏休みに入ると、文太は施設の許可を取りアルバイトを始めた。某有名運送店の荷物の仕分けだが、単純作業で、自給750円と文太にとっては悪くない。中学を卒業した時点で、新聞配達がしたかったのだが、まだ原付の免許が取れる年齢ではなく、新聞販売店に尋ねてみたが、自転車または徒歩で配達できる区域は人気があって配達員の空きが無かった。文太にとってアルバイトは、何かを買いたいのではなく高校卒業後の生活資金として貯金するためである。
バイトの帰り道、彩恵里(さえり)が待っていた。相談したいので喫茶店に入ろうと誘われた。文太は生まれて此の方、喫茶店に入ったことはない。丁重に断って、相談は学校が始まったら教室で聞こうと説得した。だが、勉強のことなら断ろうと思っている。親が拒絶していることを、無理に押し切るほどのものではない。彩恵里を恨んだりはしていないが、「俺がなんとかしてやろう」なんて、熱血心めいたものは失せている。彩恵里は裕福な家庭のお嬢さんだ。家庭教師を頼めば済むことじゃないか。文太はそう自分に言い聞かせた。
夏休みが終わったが、彩恵里は文太の基へ相談に来なかった。教室で隣あっても、態度がよそよそしくツンとしていた。そればかりか、文太にこれ見よがしに他の男子生徒と仲良くして見せた。文太は「こいつ、何か勘違いをしているな」と思った。
文太は彩恵里のことを好きでも恋をしている訳でもない。ただクラスメイトとして見ていただけだ。恋の駆け引きごっこなど、「笑止千万だ」と文太は苦笑した。
梨奈もまた、文太のことを避けているようだ。考えるに、俺の草食男子的振る舞いが彼女達に取って気に入らないらしい。どうやら彩恵里が噂の源らしく、男子生徒の間では、「文太はゲイだ」と、真しやかに囁かれていた。
「ゲイ、上等じゃねぇか」
文太は、肯定も否定もしなかった。文太はもっと勉強もアルバイトもしたい。今は煩わしい恋愛沙汰よりも、時間が欲しいのだ。
放課後、文太が教室の掃除をしていたら、今まで話もしたことが無い隣のクラスの橋元翔平が声をかけて来た。
「今日、一緒に帰りませんか?」
「えっ、なになに、どうしたのだい?」
今まで一度も話をしていない生徒だったので、文太は訝しく思えた。
「ちょっと、訊きたいことがあります」
翔平は丁寧な言葉遣いで言った。
「よし、わかった、掃除が終わるまで廊下で待っていてくれ」
「うん」
暫くはふたり肩を並べて黙って歩いていたが、思い切ったように、翔平が口を開いた。
「クラスメイトが高倉君のことをゲイだと言っていました」
「そうかい」
文太は興味なさげに言った。
「本当ですか?」
「えっ、いやそれは…」
文太は言葉を濁したが、それが面倒な事になるとは気付かなかった。
「では、ボクと付き合ってください」
文太の手を取って無理矢理に握手をした翔平は、目を輝かせて今きた道の方へ走り去った。残された文太は、走り去る彼の後姿を見ながら思った。
「また厄介なことにならなければよいが…」
次の日、学校の廊下で文太に翔平が声をかけて来た。
「高倉さん、携帯の番号を教えて下さい」
「俺は、携帯を持っていないのだ」
「親が持たせてくれないのですか?」
「いや、そうじゃない。俺は親も兄弟もいない孤児なのだ」
児童養護施設で育てられたことも話した。
「そうすか。施設では携帯を持たせて貰えないのですね」
「うん」
「では、ボクの親にもう一台買わせて、高倉さんに持って貰いましょう」
「だめだ、そんなことしたらすぐにばれて、俺は詐取で警察に訴えられるよ」
「いいっすよ。親は忙しくて、ボクのことなんか構っていないから」
「俺は携帯なんか要らない。絶対にそんなことするなよ、俺は今少年院には入りたくない」
少年院でも勉強はできるとしても、アルバイトが出来ないからだ。
「もし、携帯なんか持ってきたら、俺は君とは口を利かないからな」
数日後、翔平は他の生徒に頼んで、文太の基へ携帯を届けた。文太は腹を立てていた。隣の教室へ行き、人前で翔平に携帯を返えした。
「あれだけだめだと言ったのに、何故こんなことをする!」
文太は声を荒立てた。
「君とはもう口を利かない」
聞いていたクラスメイトは、異様な雰囲気を感じたに違いない。翔平は悔し涙をひとつぶ零した。
翌日、翔平の父親が職員室に怒鳴り込んで来た。高倉文太という生徒が、わしの息子から金を巻き上げた上に携帯電話まで買わせたと喚いた。
「高倉文太を出せ!」
えらい剣幕である。男の担任教師は、文太を教室へ連れに来た。担任から話を聞いた文太はきっぱり否定した。
「そんなことはしていません」
翔平の父親の目を見据えて言った。父親は文太に殴りかかろうとしたが、担任が中に入り止めた。
「何かの間違いでしょう、高倉はそんな子ではありませんよ」
「現に息子が泣いて打ち明けている」
これは翔平の復讐らしいなと、文太は思った。担任は、「それでは、こうしましょう」と言った。
「翔平君にも来て貰いましょう」
職員室を出て行こうとする担任に、翔太の父は声を掛けた。
「今日は学校をやすんでいる筈だ」
「念の為に見て来ましょう」
担任は職員室を出て行った。翔平の父親は、憤懣やるかたない面もちではあったが、文太の毅然とした態度に圧倒されたのか、黙って担任を待った。文太は、担任の言葉が嬉しかった。今まで、学校の先生が自分を信じてくれたことはなかったからだ。
「翔平君は来ていませんが、クラスの子供達が来てくれました」
翔太の父親は、担任が他の生徒を連れてきたのが腑に落ちなかった。
「何の為に?」
「昨日、高倉が携帯を返したときの事を証言するためです」
三人の生徒が頷いた。
「高倉君が、あれだけだめだと言ったのに、何故こんなことをすると怒って翔平君に携帯を返していました」
「高倉君は、もう君とは口を利かないとも言っていました」
別の生徒も証言した。
「お父さん、常日頃お金を巻き上げていた生徒が、口を利かないなんて言いますかね」
「息子が金を出すのを断ったからだろう」
「それでは、すぐに知れてしまう携帯電話を買わせるなんてことをするでしょうか」
「なんでも良いから、警察を呼んでくれ、話はそれからだ」
「高倉君の将来がかかっています」
なんとか穏便にという担任を制して、文太が口を開いた。
「先生、僕は構いません。呼んで下さい」
「しかし…」
近くのビジネスフォンの受話器を取り、文太が110番に掛けて担任に受話器を渡した。
派出所の警察官が自転車で駆け付けてきた。文太は警官に財布を見せなさいと言われ、差し出した。中を調べていたが、財布の中にはポチ袋くらいの小さな封筒が入っているだけだった。
「これは?」
お巡りさんが訊いた。
「多分、お金だと思います」
「多分って?」
「まだ開けたことがないからです」
「どうして手に入れたのかな?」
「小学生の時、お巡りさんにいただいたものです」
文太は経緯を説明した。財布を拾って届けたが、6ヶ月以上が経っても落とし主が現れなかった。文太は権利放棄をしていたので、お巡りさんがポケットマネーから出してくれたのだ。
「ご褒美と言って下さったものです」
「中を見てもいいですか?」
「どうぞ」
お巡りさんは鋏を借りて封をきった。中から、1000円札と、二つに折った名刺が出てきた。疑われては可哀想と、当時のお巡りさんが気を使ってくれたものだ。
「あれっ、この人は私の先輩だ」
警察官はそう言い、電話を掛けてくれた。先輩警官は、「可哀想に、文太君また疑がわれているのか」と、笑いながらこうも言ったそうだ。
「彼は、何が有っても恐喝なんかしないよ」
文太は心の中で感謝した。
「やっぱりあの人はお父さんだ」
2年生になった文太は、生徒会長に選ばれた。選ばれたというよりも、少しの時間でも受験勉強に励みたい生徒たちに押し付けられた感があった。文太は生徒会長が為すべきことを真面目に果たした。アルバイトも受験勉強にも、粉骨砕身の努力をした。
二年生の担任も、東大合格を保障してくれた。いや、文太にとって、大学に合格するだけではだめである。特待生か奨学金の給付が必須である。その為には、もう余計なことに構ってはいられないのだ。梨奈とも、施設で挨拶をする位なもので、じっくり話し合うことはなかった。一時は、お嫁にしたいと思った彼女だったが、姉弟で貫こうと思う文太であった。
最近、梨奈と付き合っている男がいると知ったときも、文太は寂しさを堪えて梨奈に言った。
「しっかり繋ぎとめろよ」
それは、兄貴としての励ましの言葉だった。
3年生の文太は、何者も近寄りがたい鬼気さえ漂う努力の人であった。その努力の甲斐あって東大理科3類に合格した
「さあ、これからが本当の苦労が始まるのだぞ!」
両手で自分の頬を叩いた。
梨奈は、採用されて2年目の警察官と婚約した。警察官と聞いて、文太はあのお父さんのような巡査部長のことを思い浮かべた。梨奈の結婚式には、何を置いても出席するぞと、心に決めていたが、梨奈からの招待状は来なかった。
―終― (原稿用紙18枚)
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「梨奈は高校を卒業したら、進路は決めているの?」 文太が口火を切った。
「今日入学して、もう卒業後の話」
「俺たちは立ち止まることは許されないし、ニートとか親の脛をかじるという選択肢はないだろ」
「それって、選択肢じゃないでしょ」
「まあ、そうだけど」
「そうねぇ、18才になったら施設には居られないから、まず如何に生きて行くかよね」
「それなりの理由があれば、20才までは置いてくれるそうだが、居辛いよな」
梨奈は深刻そうなことを言う割には、文太と同じ学校に入れたことが嬉しくて浮き浮きしていた。二人が入学したのは、公立高校の普通科である。
「お兄ちゃんは、医者になると言っていたわね、東大の理3を受けるの?」
「特待か、奨学金の給付が受けられる大学であればどこでもいい」
「お兄ちゃんなら、東大も確実だと思うけどな」
「俺は、研究者ではなく臨床外科医になるのだ」
文太は独り言のように呟いて、梨奈の方に向き直り、優しい口調で言った。
「梨奈は、まだ考えていないの?」
「働きながら定時制の看護師学校に行くつもりだったけど、自分独りの力では無理だと思ったの。それに…」
「それに何?」
「動機が不純だし」
「不純って?」
「お兄ちゃんと一緒に働きたいなんて」
「別に不純じゃないよ」
梨奈は、告白のつもりだったが、文太はサラリと受け流した。梨奈はがっかりしたが、
「二人は双子の姉弟なのだ」と、諦めた。
文太のことを「お兄ちゃん]と呼んでいるが、本当は梨奈の方が半年ばかり早く生まれているのだ。
夏休みが近付いたある日、梨奈がクラスメイトの彩恵里(さえり)を連れてきた。彩恵里は数学の授業が難しくて分からないという。文太も数学教師の教え方があまりにも下手くそだと常々思っていた。自分の教え方のまずさを棚に上げ、分からない生徒を阿呆呼ばわりする。これでは数学が嫌いになる生徒を増やしてしまう。文太は、自分が教えてやることにした。
放課後、教室に残って一つ一つ丁寧に教えると、すぐに覚える。
「それみろ!」
文太は心の中で数学教師に言った。
「阿呆はお前だよ」
それから暫くは復習と称して放課後に勉強を見てやったが、それを担任の教師にチクった奴がいたらしく、二人は担任に注意されてしまった。
「家でやれ!」
どうやら、文太に「下心あり」と痛くもない腹を探られたようだった。 それなら、私の家に来てほしいと彩恵里に頼まれ、一旦は断ったが、「どうしても」 と、言われ、「夏休みまで」と約束したうえ承知した。この時、文太の胸によからぬ予感が過ぎった。
予感は当たった。彩恵里の母親に「家に押しかけるなんて非常識」と、追い返されたのだ。 ここでも「孤児!」と、冷ややかな嘲笑を浴びせられた。
文太は何も反論せずに、黙って引き揚げた。玄関に背を向けたとき、彩恵里の泣き叫ぶ声が聞こえた。文太は自分の軽率さを反省しながら、帰途についた。
翌朝、彩恵里が走り寄ってきて「昨日はごめん」と、言った。
文太は「いいよ」 と、流したが、彩恵里は申し訳なさそうに「本当にごめん」と、何度も頭を下げた。
夏休みに入ると、文太は施設の許可を取りアルバイトを始めた。某有名運送店の荷物の仕分けだが、単純作業で、自給750円と文太にとっては悪くない。中学を卒業した時点で、新聞配達がしたかったのだが、まだ原付の免許が取れる年齢ではなく、新聞販売店に尋ねてみたが、自転車または徒歩で配達できる区域は人気があって配達員の空きが無かった。文太にとってアルバイトは、何かを買いたいのではなく高校卒業後の生活資金として貯金するためである。
バイトの帰り道、彩恵里(さえり)が待っていた。相談したいので喫茶店に入ろうと誘われた。文太は生まれて此の方、喫茶店に入ったことはない。丁重に断って、相談は学校が始まったら教室で聞こうと説得した。だが、勉強のことなら断ろうと思っている。親が拒絶していることを、無理に押し切るほどのものではない。彩恵里を恨んだりはしていないが、「俺がなんとかしてやろう」なんて、熱血心めいたものは失せている。彩恵里は裕福な家庭のお嬢さんだ。家庭教師を頼めば済むことじゃないか。文太はそう自分に言い聞かせた。
夏休みが終わったが、彩恵里は文太の基へ相談に来なかった。教室で隣あっても、態度がよそよそしくツンとしていた。そればかりか、文太にこれ見よがしに他の男子生徒と仲良くして見せた。文太は「こいつ、何か勘違いをしているな」と思った。
文太は彩恵里のことを好きでも恋をしている訳でもない。ただクラスメイトとして見ていただけだ。恋の駆け引きごっこなど、「笑止千万だ」と文太は苦笑した。
梨奈もまた、文太のことを避けているようだ。考えるに、俺の草食男子的振る舞いが彼女達に取って気に入らないらしい。どうやら彩恵里が噂の源らしく、男子生徒の間では、「文太はゲイだ」と、真しやかに囁かれていた。
「ゲイ、上等じゃねぇか」
文太は、肯定も否定もしなかった。文太はもっと勉強もアルバイトもしたい。今は煩わしい恋愛沙汰よりも、時間が欲しいのだ。
放課後、文太が教室の掃除をしていたら、今まで話もしたことが無い隣のクラスの橋元翔平が声をかけて来た。
「今日、一緒に帰りませんか?」
「えっ、なになに、どうしたのだい?」
今まで一度も話をしていない生徒だったので、文太は訝しく思えた。
「ちょっと、訊きたいことがあります」
翔平は丁寧な言葉遣いで言った。
「よし、わかった、掃除が終わるまで廊下で待っていてくれ」
「うん」
暫くはふたり肩を並べて黙って歩いていたが、思い切ったように、翔平が口を開いた。
「クラスメイトが高倉君のことをゲイだと言っていました」
「そうかい」
文太は興味なさげに言った。
「本当ですか?」
「えっ、いやそれは…」
文太は言葉を濁したが、それが面倒な事になるとは気付かなかった。
「では、ボクと付き合ってください」
文太の手を取って無理矢理に握手をした翔平は、目を輝かせて今きた道の方へ走り去った。残された文太は、走り去る彼の後姿を見ながら思った。
「また厄介なことにならなければよいが…」
次の日、学校の廊下で文太に翔平が声をかけて来た。
「高倉さん、携帯の番号を教えて下さい」
「俺は、携帯を持っていないのだ」
「親が持たせてくれないのですか?」
「いや、そうじゃない。俺は親も兄弟もいない孤児なのだ」
児童養護施設で育てられたことも話した。
「そうすか。施設では携帯を持たせて貰えないのですね」
「うん」
「では、ボクの親にもう一台買わせて、高倉さんに持って貰いましょう」
「だめだ、そんなことしたらすぐにばれて、俺は詐取で警察に訴えられるよ」
「いいっすよ。親は忙しくて、ボクのことなんか構っていないから」
「俺は携帯なんか要らない。絶対にそんなことするなよ、俺は今少年院には入りたくない」
少年院でも勉強はできるとしても、アルバイトが出来ないからだ。
「もし、携帯なんか持ってきたら、俺は君とは口を利かないからな」
数日後、翔平は他の生徒に頼んで、文太の基へ携帯を届けた。文太は腹を立てていた。隣の教室へ行き、人前で翔平に携帯を返えした。
「あれだけだめだと言ったのに、何故こんなことをする!」
文太は声を荒立てた。
「君とはもう口を利かない」
聞いていたクラスメイトは、異様な雰囲気を感じたに違いない。翔平は悔し涙をひとつぶ零した。
翌日、翔平の父親が職員室に怒鳴り込んで来た。高倉文太という生徒が、わしの息子から金を巻き上げた上に携帯電話まで買わせたと喚いた。
「高倉文太を出せ!」
えらい剣幕である。男の担任教師は、文太を教室へ連れに来た。担任から話を聞いた文太はきっぱり否定した。
「そんなことはしていません」
翔平の父親の目を見据えて言った。父親は文太に殴りかかろうとしたが、担任が中に入り止めた。
「何かの間違いでしょう、高倉はそんな子ではありませんよ」
「現に息子が泣いて打ち明けている」
これは翔平の復讐らしいなと、文太は思った。担任は、「それでは、こうしましょう」と言った。
「翔平君にも来て貰いましょう」
職員室を出て行こうとする担任に、翔太の父は声を掛けた。
「今日は学校をやすんでいる筈だ」
「念の為に見て来ましょう」
担任は職員室を出て行った。翔平の父親は、憤懣やるかたない面もちではあったが、文太の毅然とした態度に圧倒されたのか、黙って担任を待った。文太は、担任の言葉が嬉しかった。今まで、学校の先生が自分を信じてくれたことはなかったからだ。
「翔平君は来ていませんが、クラスの子供達が来てくれました」
翔太の父親は、担任が他の生徒を連れてきたのが腑に落ちなかった。
「何の為に?」
「昨日、高倉が携帯を返したときの事を証言するためです」
三人の生徒が頷いた。
「高倉君が、あれだけだめだと言ったのに、何故こんなことをすると怒って翔平君に携帯を返していました」
「高倉君は、もう君とは口を利かないとも言っていました」
別の生徒も証言した。
「お父さん、常日頃お金を巻き上げていた生徒が、口を利かないなんて言いますかね」
「息子が金を出すのを断ったからだろう」
「それでは、すぐに知れてしまう携帯電話を買わせるなんてことをするでしょうか」
「なんでも良いから、警察を呼んでくれ、話はそれからだ」
「高倉君の将来がかかっています」
なんとか穏便にという担任を制して、文太が口を開いた。
「先生、僕は構いません。呼んで下さい」
「しかし…」
近くのビジネスフォンの受話器を取り、文太が110番に掛けて担任に受話器を渡した。
派出所の警察官が自転車で駆け付けてきた。文太は警官に財布を見せなさいと言われ、差し出した。中を調べていたが、財布の中にはポチ袋くらいの小さな封筒が入っているだけだった。
「これは?」
お巡りさんが訊いた。
「多分、お金だと思います」
「多分って?」
「まだ開けたことがないからです」
「どうして手に入れたのかな?」
「小学生の時、お巡りさんにいただいたものです」
文太は経緯を説明した。財布を拾って届けたが、6ヶ月以上が経っても落とし主が現れなかった。文太は権利放棄をしていたので、お巡りさんがポケットマネーから出してくれたのだ。
「ご褒美と言って下さったものです」
「中を見てもいいですか?」
「どうぞ」
お巡りさんは鋏を借りて封をきった。中から、1000円札と、二つに折った名刺が出てきた。疑われては可哀想と、当時のお巡りさんが気を使ってくれたものだ。
「あれっ、この人は私の先輩だ」
警察官はそう言い、電話を掛けてくれた。先輩警官は、「可哀想に、文太君また疑がわれているのか」と、笑いながらこうも言ったそうだ。
「彼は、何が有っても恐喝なんかしないよ」
文太は心の中で感謝した。
「やっぱりあの人はお父さんだ」
2年生になった文太は、生徒会長に選ばれた。選ばれたというよりも、少しの時間でも受験勉強に励みたい生徒たちに押し付けられた感があった。文太は生徒会長が為すべきことを真面目に果たした。アルバイトも受験勉強にも、粉骨砕身の努力をした。
二年生の担任も、東大合格を保障してくれた。いや、文太にとって、大学に合格するだけではだめである。特待生か奨学金の給付が必須である。その為には、もう余計なことに構ってはいられないのだ。梨奈とも、施設で挨拶をする位なもので、じっくり話し合うことはなかった。一時は、お嫁にしたいと思った彼女だったが、姉弟で貫こうと思う文太であった。
最近、梨奈と付き合っている男がいると知ったときも、文太は寂しさを堪えて梨奈に言った。
「しっかり繋ぎとめろよ」
それは、兄貴としての励ましの言葉だった。
3年生の文太は、何者も近寄りがたい鬼気さえ漂う努力の人であった。その努力の甲斐あって東大理科3類に合格した
「さあ、これからが本当の苦労が始まるのだぞ!」
両手で自分の頬を叩いた。
梨奈は、採用されて2年目の警察官と婚約した。警察官と聞いて、文太はあのお父さんのような巡査部長のことを思い浮かべた。梨奈の結婚式には、何を置いても出席するぞと、心に決めていたが、梨奈からの招待状は来なかった。
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