賢吉は当年とって十歳、北町奉行所与力長坂清心の手先として働く目明し長次の長男で、下に次男八歳と妹六歳がいる。賢吉は、度胸がよくて機転が利く。喧嘩には強いうえ、小さい子の面倒見がよく、近所の悪餓鬼が一目を置く存在である。
賢吉の無二の親友と言えば、長坂清心の長男、長坂心太郎である。歳は賢吉と同じ十歳、町の道場に通い剣道を習っている。屋敷にあっては、専ら賢吉が練習台である。
「やい、心太郎、痛ぇじゃねぇか、少しは手減しろよ」
「済まん、済まん、お前と練習すると、つい力が入ってしまう」
今日は、その練習風景を、賢吉の父親の長次が見ていた。
「こら、賢吉、お坊ちゃまを呼び捨てにするとは何事だ」
「心太郎も、俺のことを呼び捨てにしているじゃねぇか」
「坊ちゃんはお侍のご子息だから、町人のお前を呼び捨てにしてもいいのだ、身分を弁えろ、わしらは、長坂さまから頂戴するお手当てで、おマンマを食っているのだぞ」
「何でぇ、お手当てだけでは足りないと言っていたくせに」
「こらっ、何てことを言うのだ、長坂さまに聞こえたらどうする」
だが、しっかり聞かれていた。長坂清心が次の部屋で聞いたらしく、襖をすーっと開けた。
「長次、お前ら父子で言い争う振りをして、手当てを上げろと匂わしているのか?」
「いえ滅相な、決してそのようなことを匂わしておりません」
ばつが悪くて赤面する長次に、心太郎が助け船を出した。
「おじさん、子供に身分なんかどうでもいいのですよ」
「それにしても、お父上の前では、そんな口を利くとは…」
「ははは、父上の前でも、いつもこうですよ」
心太郎は、平然と笑っている。心太郎の父清心も、笑って見ているのだそうだ。そこへ、心太郎の母上が縁側から声を掛けた。
「心太郎、お茶が入りましたよ、お二人を茶の間にご案内しなさい」
長次が茶の間へ入るのを遠慮した。
「奥様、あっし等は、ここで頂戴します」
「そーぉ、美味しいお萩がありますのよ、旦那様と一緒に茶の間で戴きましょうよ」
甘いお萩が出されて、心太郎や、その妹、賢吉は大喜びでふざけていたが、長次は渋い顔であった。
「長次、どうした、何を浮かぬ顔をしている」
「いえね、倅ですが、身分を弁えずに、坊ちゃんたちとふざけまわって、あっしは肝が縮む思いでさぁ」
「拙者は身分の高い旗本ではなく、一介の御家人だ。それも拙者の親父は、元は同心だった。手柄をたくさん立てたので、時のお目付けの推薦で騎馬与力の職を頂いたのだ」
「お旗本でなくとも、乗馬も袴も許されたお侍です、われら庶民とは違います」
「大人はそうかも知れぬが、子供たちにはただの友達同士だ、固いことを言うな」
「へい、有難うごぜぇます」
そこへ、下っ引きの幹太が長次を呼びにきた。
「親分、てぇへんです、殺しです」
「そうかわかった、すぐ行こう、案内してくれ」
すっ飛んで行った父を追いかけて、賢吉も飛び出して行った。
「あなたもお出掛けになりますか?」
奥方が清心に訊いた。
「あいつら、場所がどことも言わずに行ってしまいよった、まあ任せておくとしょう」
死体が発見されたのは大川端で、建物もなにもない見晴らしの良いところだった。殺されたのは、呉服商成田屋銭衛門の店の番頭伊之助だそうである。番頭を知っている人の証言を訊いて、他の目明しが一っ走り成田屋に知らせに走った。
「親父、これはよく切れる刀で、一刀の元に袈裟懸けで殺られているぜ」
長次は驚いた。長坂様のお屋敷に居る筈の賢吉が、いつのまにか追いかけてきて、一端(いっぱし)の目明し気取りで死体見分をしている。
「何だ、お前いつの間に付いて来たのだ」
「えへへ、親父じゃ頼りないからな」
「この野郎、言わせておけば猪口才な、これが刀傷だという事ぐらい幹太でもわかるわい」
「親分、幹太でもわかるとは何です、幹太でもわかるとは」幹太が怒った。
「済まん、これは言葉の綾だ」
「日頃から、幹太はアホだと思っているから出た言葉じゃないですか」
「まあ、それは良いとして…」
「良くないわ」
「賢吉、おめぇ死体を見ても怖くはないのか」
「怖くねぇ、何で死体が怖いのだ、何もしないではないか」
「ふーん、幽霊にとり憑かれるぞ」
「それが?」
死体を見るのが怖いどころか、手で傷口に触れている。これには「ガキのくせして度胸がある」と、長次も驚いた。
「親父、それだよ」
成田屋の主人が殺られたのなら、もしかしたら商売仲間の恨みを買ったとも思えるのだが、殺られたのは番頭だ。
「幽霊に刀で殺られたのか?」
「親父、バカか、幽霊が刀で人を斬るのか」
「親父に向かってバカとはなんだ」
「それは良いとして…」
「良くないわい」
「番頭さんは、見てはいけない物を見てしまったのだ」
「幽霊か?」
「親父、ちと幽霊から離れられないのか」
「済まん」
番頭が殺されていたのは、大川端の道だ。あの河岸の近くには、川船が着く。もしやご禁制の品を抜け荷買いしている悪徳商人が、その積み下ろしの現場を見られたとか。または大奥の奥女中が、芝居の役者と逢引しているところを見られたとか。島抜けしてきた流罪人が、上陸するところを見られたなど。
「お前なぁ、それは芝居の見過ぎだぞ、お父つぁんに内緒で芝居小屋に行っていたな」
「そんなに小遣いをくれないではないか」
辻斬りとも思い難い。旗本の殿様が名刀を手に入れて、どうしても人を斬りたかったのかも知れないが、旗本とて試し斬りはひとつ違えばお家断絶、その身は死罪となり、切腹さえ許されない。武士にとっては屈辱の極みである。
それを、あのように見晴らしの良いところでやるだろうか。親父の言う通り、そんな芝居がかった動機ではないかも知れない。案外、番頭が奉公しているお店(たな)の中でのいざこざが高じた結果の犯行かも知れないと、賢吉はそう考えていた。
「親父、俺、張り込んでみる」
「どこを?」
「呉服商成田屋を」
「バカバカ、子供にそんなことをやらせたと長坂様に知れたら、十手取り上げだ」
「十手なんか何だ、俺が作ってやるぜ」
「お上の十手を勝手に作ったとなりゃぁ、手が後ろに回るぜ」
「十手の話は、こちらに置いといて」
「そんな処に置くな」
翌日の昼下がり、賢吉は成田屋の店先で石蹴りをして独りで遊んでいると、店の戸が開いて中から丁稚と思しき子供が出て来たので、賢吉は声をかけた。
「成田屋さんは、今日はお休みかい?」
「うん、番頭さんが亡くなったので、殆どの人はお葬式に満福寺へ行った」
「ご病気で亡くなったのかい?」
「知らないのかい、殺されたのだ」
「あ、昨日の騒ぎは、成田屋さんの番頭さんだったのか、たしか辻斬りに遭ったとか、恐いねぇ」
「そうじゃないよ、店の誰かが浪人を雇って殺させたのさ」
「番頭さん、誰かに恨まれていたのだねぇ」
「それも違うよ、番頭さんは優しくいい人だった」
この丁稚は、よく旦那様に叱られていたが、殺された番頭さんが庇ってくれていたという。
「そんな良い人を、誰が殺したのだろう」
「知らない」
「そんなこと、子供に分かる訳はないよな」
「うん、だけど旦那様と奥様の間に子供が居ないので、番頭さんは嫁を貰って夫婦養子になるところだった」
「わぁ、番頭さん悔しかっただろうな、俺、気の毒で泣いてしまいそうだ」
「おいら、年季が明けても、番頭さんの元で働こうと考えていたのだ」
そのとき、店の中から呼ぶ声が聞こえて、丁稚は慌てて店の中に消えた。
賢吉は家に帰って来た。借家ではあるが長屋ではない。オンボロながら一軒家である。
「親父、ただいま…、ってまだ真っ昼間だ、居る訳ないか」
腹が減ったので、朝の残りを弟と妹と共に掻っ込んで、プイッと飛び出した。父親がいる筈の番屋へ行く積りなのだ。
「親父、居るかい」
父親と同年輩の目明し、仙吉が番をしていた。
「お前の父つぁんは、長坂様に呼ばれて北の奉行所へ行ったぞ」
「おじさん有難う、奉行所へ行ってみる」
「こら待て、奉行所は遊び場所ではないぞ、ここで待っていろ」
「長坂様にも用があるのだ」
仙吉が止めるのを無視して、賢吉は番屋を飛び出した。
北町奉行所の門前で、門番に止められた。
「こら待て、坊主また遊びに来たな」
「遊びじゃないやい、長坂様と親父に用事だい」
門番が「こらこら」と、止めるのを無視して、ちょこちょこっと入っていった。
「親父いるかい?」
「おお、長次の倅か、長次は裏の厩で、長坂さまと話をしている」
長坂清心は与力で、与騎とも書き、馬にも乗れるのだ。数えるときは、一人二人ではなく、一騎、二騎である。
「親父、ここだったのか」
「こらっ、こんなところまで押しかけるとは恐れを知らぬガキだ、お牢に入れるぞ」
「えっ、本当かい、入る、入る」
「お前はバカか、お牢に駄菓子は売っていないのだぞ」
「咎人が入れられるところだろ、一回入りたかったのだ」
「お牢に入れば、かるくとも百叩きの刑、重いと市中引き回しのうえ磔獄門になる」
「市中引き回しって言うのは、馬に乗って江戸の町を回るのだろ、乗りたい、乗りたい。
「磔獄門はどうする?」
「それは、親父に譲る」
「お前は、長坂様の前で父親を弄(なぶ)っているのか」
長坂清心が、父子の会話を呆れて聞いていたが、堪らずに口を挟んだ。
「長次は、御役目の最中だぞ、遊ぶなら家に帰ってからにしろ」
「あ、忘れていました、長坂様にお伝えしたいことがあったのです」
「何だ、言ってみなさい」
「殺された成田屋の番頭のことですが、もうすぐ成田屋の養子になると決まっていたらしい」
「賢吉、それを誰から訊いた」
「成田屋の丁稚です」
「そんなことを喋ったのか?」
「優しくて好きな番頭さんが殺されたので、子供の俺に愚痴を言いたかったのでしょう、子供同士だから」
「よし、その線で調べさせよう」
子供の言うことなのに、長坂清心はあっさりと信じたのには訳があった。これまで、賢吉が調べたことや、推理をしたことは大抵当たっていたので、長坂は目明しの長次が言うことよりも息子の賢吉が言うことを信じる傾向にあった。
「事件は拙者たちに任せておいて、賢吉は我が屋敷に行ってくれないか、心太郎が賢吉に用があるそうだ」
「わかりました、すぐにお屋敷へ行きます」
賢吉は駆け出していった。
「心太郎、心太郎は居るか」
賢吉が叫んだので、奥方が出て来た。
「何ですか騒がしい、心太郎なら今お勉強中です、勝手口から茶の間に回って待ってやってくださいな、お菓子がありますよ」
「はーい」
出されたのは京菓子の松露饅頭だった。甘いお菓子が大好きな賢吉の目は点になっていた。
心太郎が勉強を終えて茶の間に入って来た。手には二本の木製十手と、木刀が握られている。
「これは、父上が賢吉と私のために誂えた練習用の木製十手だ、私と捕縄術と十手術の形を練習しましょう」
樫の木で作られていて、持つとずっしりと重い。それと、かなり使い込んだ古い木刀を一本手渡された。今までは心太郎と竹刀で練習していた剣道を、今日から木刀に持ち替えようというのだ。
「わっ、嬉しい」
賢吉は大喜びで木刀を撫でた。心太郎は、町の道場で習ったことや、父の清心に教わったことを、そのまま賢吉に教える。「人に教えることは、自分を磨く最良の鍛錬だ」とは、父長坂清心の言葉である。心太郎は、それを実行しているのだ。早速庭に出て、心太郎と賢吉の鍛錬が始まった。
「もうすぐ日が暮れますよ、お重に煮物と小魚の佃煮を入れておきました、皆さんで召し上がりなさいな」
食事の支度は、賢吉の役目である。今夜は飯を炊き、大根の味噌汁とお新香を切っておくだけで済んだ。
「親父、お帰り、事件はどうなった?」
「お前の言うとおり、浪人を雇って番頭を殺させたのは、成田屋銭衛門の甥、弥助だった」
弥助は、銭衛門に跡継ぎが居ないので、自分が跡目を継ぐものとばかり思っていたのに、番頭の伊之助を養子にして跡目を相続させると聞き、逆上して犯行を企てたものらしい。
「長坂様が褒めていたぞ」
「褒美はないのかい?」
「木製十手と木刀が褒美らしい」
「賢吉の捕物帳」第一回 大川端殺人事件(終) -次回に続く-
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