雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺の日記「生き返った猫爺」

2016-08-28 | 日記
 昨夜、今夜と涼しい(室温29.5℃)が続いた。昼間も曇っていて、30度似内だった。猫爺ときたら、暑さのために平衡感覚が保てず、水槽の水温が上がり過ぎてアップアップの金魚状態だったが、なんとか生き延びたようである。願わくば、「このまま秋に成ってくれ」と祈る気持ちだが、なんと、秋も暑いそうな。「あのなー」

 眠るのが勿体ないので、さっき「サ〇ポロ一番味噌ラーメン」のミニカップを食べて来た。昼間は食欲が出なくてご飯の匂いを嗅いだだけで、「オエーッ」みたいな、悪阻(つわり)のような状態だったが、深夜に食べると美味いこと。

 即席ラーメンと言えば、TV番組で各家庭をまわって「買い置きベスト3」調査していたが、
   3位 〇清のチキンラ〇メン
   2位 明〇の中華〇昧
   1位 サ〇ポロ一番みそラ〇メン
 だそうであった。3位は、簡単でよいのだが、具を入れないと半分ほど食べると飽きて残してしまう。
         2位は、スープの味が良くて飽きないのだが、煮込むのが面倒くさい。
         1位のカップ麺は、味噌味が美味くて、チョロッと具が入っていて嬉しい。
 とは、個人の感想であって、ランキングに乗せられたのでも、好みを押し付けるものでもない。


 深夜に爺が夜食を食っているさまを想像すると、さぞかし気味が悪いだろう。
   「み~た~な~」

猫爺のいちびり俳句「涼しいトイレ」

2016-08-24 | 日記
   ◇夕立や 気温下げずに 湿度上げ

 歳を取ればこの暑さは、食欲はおろか生きる気力さえも減退してしまう。

   ◇つくつく法師 試しに一度 かぎり鳴き

   「うわ、暑い、まだ時季じゃなかった。俺としたことが‥ 」


 それは(/・ω・)/おいといて


 銅メダルを取ったアスリートが、感想を訊かれて‥ 「甘酸っぱい」を連発していた。なるほど、伝わってくる。銅をとった嬉しさを「甘い」、金を取れなかった悔しさを「酸っぱい」とその心の内を表現したものであろう。あまり取沙汰されるような表現ではないかも知れないが、素直で清々しい表現だと猫爺は思った。

 だが、昭和初期爺としては、「甘酸っぱい」で心を表現するのは青春であった。恋をする甘美さと苦悩を味覚で表現したものだ。昭和初期の詞人は、初恋の味を「カ〇ピス」と表現した。流行した歌なので、氏の銀行口座にはたんまりと、氏の邸宅には「カ〇ピス」五年分くらいは送られてきただろうと關係ないが卑しい猫爺は想像する。

 ネットを散歩していると、この「甘酸っぱい青春」という表現に反発意見が述べられていた。「私は青春期を甘酸っぱいと感じたことなど一度もない」みたいな少々ヒステリックな意見だった。
 そりゃあそうだろう、恋をしてもそのまま結婚へとゴールインして、素晴らしいご家庭のまま維持しているなら、「酸っぱい」知らずであろう。反面、猫爺みたいな奴は、苦悩ばかりで「甘さ」知らずである。

 この「甘い」「酸っぱい」というのは、当たり前のことながら比喩表現であって、青春真っ只中の若者のどこを舐めても「甘酸っぱい」体の部分はない。精々「しょっぱい」部分があるくらいだろう。「え、それはどこ?」ご想像に任せるとして、「甘酸っぱい」のは、心である。舐めてみたいのなら、若者の心を舐めさせてもらうといい。平成の若者なら、ピリ辛いかも知れないが。(特に意味なし)

 本日の脱線談義、これにて‥

   ◇我が家では トイレが一番 涼しいぞ◇  (季語「涼し」)

 29.4度なり。
 

 

 

猫爺のエッセイ「エスカレーター」

2016-08-22 | エッセイ
 こんな状景を見た。 茶髪の母親の後を追って、三歳にも満たないだろうと思われる男の子が誰の手も借りずにエスカレーター乗った。
   「さすが現代っ子だ」
 感心して見ていると、エスカレーターの中程へ来たとき男の子はクルッと振り向くと両足を揃えてピョンと一段飛び降りた。エスカレーターが上がるとまた一段飛び降りるものだから母親と離れて行く。五回繰り返したところで母親が上階に着き振り返って注意をした。
   「何をしとんねん、早よ上がって来なさい。置いて帰るよ」
 子供は遊びを止めて、上がって行った。普通なら、「危ないよ」と、注意をしたいところだが、その素晴らしく安定した動作に、「危ない」なんて感じが全くないのだ。

 猫爺は、内村航平さんの見事な「着地」を思い出していた。
   「もかしたら、この子は十八年後のオリンピックのマットで見事な演技を決めて、拍手を受けているのではないだろうか」
 十八年後など猫爺はこの世に存在するわけはないのだが、空想するのは猫爺の勝手だ。「頑張れよ」と、心で応援して、その場を去った。

 思えば最近、エスカレーターに乗るのを恐がる子供なんて見たことがない。昔々その昔、猫爺が若かりし頃にはよく居たものだ。いや、大人でさえもエスカレーターの乗るところでタイミングが取れずに躊躇している人が居たものだ。

 もっと昔々には、エレベータに恐くて乗れない人が居たという話を聞いた。また、エレベータに乗るのに履物を脱いで入り、降りる時に履物が無くなっているのに気付き大騒ぎをしたという笑い話もあった。
 だが、あれは嘘に違いない。そんな昔は勿論、昭和二十年代でも、エレベータには「エレベターガール」と呼ばれる係員が乗っていた。もし、履物を脱いで乗る人がいたら注意をした筈である。
   「お待たせ致しました。上へ参ります」
 デパートでは、売り場の案内もしてくれた。
   「ドアが閉まります。ご注意ください」
 ユニフォームに白い手袋の美人エレベータ嬢が、優しく丁寧に案内してくれたものだ。
   



猫爺のエッセイ「お盆玉」

2016-08-21 | エッセイ
 猫爺には耳慣れぬ言葉なのだが、もう普及しているのであろうか、テレビのクイズ番組で「お盆玉」というがあるのを知った。鈍い爺にもすぐ理解ができる。お盆に里帰りをしてきた孫たちにあげる「お小遣い」であろう。
 ネットで検索して教えて貰ったのだが、「お盆玉」という言葉自体は、ある紙袋などを扱う印刷会社が提案して、それに郵便局が乗っかっりポチ袋を売り出したものらしい。なるほど、正月の「お年玉」に対して、盆には「お盆玉」とは郵便局が乗っかりたくなるであろう商魂である。「お盆玉は、郵貯銀行へ」かな?

 猫爺とて、分からないわけではない。年に二度帰って来る可愛い孫の喜ぶ笑顔が見たい。「お盆玉」が習慣化すれば、孫たちもお爺ちゃん、お婆ちゃんに「お盆玉ちょうだい」とねだることが出来るし、貰えるか貰えないか気を揉むこともない。

 だが、遠くの外孫はそれでよいとしても、内孫や近所に孫がゴロゴロ居るお爺ちゃん、お婆ちゃんは大変だろうなあと思ってしまうのは、猫爺が貧しいからであろう。

 誰が決めたのだろうか、お盆玉の相場というのがあるそうで、小学生ならば1,000円~3,000円、中学生ならば3,000円~5,000円、高校生ならば5,000~10,000円程とか。富山県あたりの裕福なお爺ちゃん、お婆ちゃんなら小学生には百万円程度、中学生には五百万円程度、高校生ならば1千万円以上を相場としている家庭もざらにあるに違いない。

 お盆玉の習慣は、江戸時代からあったというが、それは少し違うのではないだろうか。商家などに奉公する使用人に、小遣い程度の額や品物を与えたのは、日頃安い賃金、または年季奉公の場合は当人は殆ど無報酬で働いているのだから、使用者の外面対策であったように思う。また、それと「お盆玉」とは意味合いが違っているように思う。

 習慣化すれば、都会に住むサラリーマン夫婦なども、孫だけとは限らず「お盆玉」を子供にも与えることになるだろうが、そもそもお盆とは「盂蘭盆」のことで、先祖を供養する行事である。子供や孫を喜ばせる目的の祭りではないのだから、そんな流行など無視してもよいと爺は思うが、世間で習慣化すれば、「そうはイカのキン〇マ」かも。(注・昭和初期のギャグ)

   ◇盆過ぎて 来るべく時季の 待ち遠し◇    暑いっ!

 

 

猫爺のいちびり俳句「真夏日の幽霊」

2016-08-19 | 日記
 毎晩、オリンピック中継を視ているので、寝不足もいいところ。それでも病院通いは欠かせないので、ヨタヨタと出掛けるのだが、病院の待合室でスヤスヤと寝てしまう。

 それがきまりが悪い訳でも、通院が億劫なのではない。涼しい待合室で睡眠がとれて、一時間や二時間待たされたとしても退屈しないのだ。順番がくればチャンと起こしてくれる。有難いことづくめである。

 真夏日続きの熱中症対策に、病院へ行って日中は待合室で眠るという手もありそうに思えるのだが、看護師に顔を憶えられているのと、精々午後一時まで。その時間が過ぎる灯りが消え、辺りには誰もいなくなっていて、病院の関係者にホームレスだと思われ、叩きだされてしまうであろう。

    ◇真夏日や 幽霊ごときで 涼めぬ夜◇

 

猫爺のエッセイ「心霊写真」

2016-08-08 | エッセイ
 夏になると、恐怖番組がもてはやされる。番組を作成する側も、てっとり早く安上がりで視聴率が稼げる「最恐の番組」だとか、「本当に有った」とか恐怖を煽りたてた番組が多々放映される。

 そのなかでも、100%馬鹿々々しいのが「心霊写真」である。 一時、大流行して霊能者だとか霊媒師とかが荒稼ぎをしたであろう時代があったが、ちょっと大人げない写真家が悉く分析して、心霊写真と言われていた写真の謎解きをしたものだ。

 その結果、猫爺などは霊能者と自称する輩の「平然とした嘘」に唖然としたものであった。

 ひとつ思い出した一件がある。 中学校の卒業写真だが、二十年程経ったある日「幾ら数えても一人多い」と気付いた男性が居た。写真をよく観察すると、最後列に一人眼鏡をかけた記憶にない男子生徒がいた。しかも、彼は胸から下が消えかかっていたのだ。
 
 この写真をテレビ番組に持ち込み、スタッフともども写っているクラスメイトの家々を回り、この消えかかっている男子生徒のことを尋ねてまわったが、知っている者は居なかった。 

 そこで番組は、霊能者にこの写真を見せることにした。
 
   「何年か前にこの学校で亡くなった生徒が、自分も卒業写真に写りたくで出て来たもので、このまま放置しておくと、写真の持ち主に禍を為すかも知れない。きちんと浄霊して、霊の行くべきところへ送ってさしあげましょう」

 ところが、テレビでこの写真を見た他のクラスの生徒が名乗り出た。

   「そこに写っているのは俺です」

 どうやらこの男子生徒君は悪戯好きで、他のクラスに紛れ、教科書で顔を隠して写ろうとしたものであった。「もう、シャッターがおりたかな」と思い、教科書を下げたときにシャッターが押された。
 当時のフィルムは、ガラスを用いた乾板(かんぱん)と呼ばれる比較的感度の低いものであったため、シャッター速度が遅く、動いているものはブレてしまうのだ。

 
 言えることは、心霊写真なるものは100%無い。偶然そう見えるものや、作為、カメラのトラブルなどによるものが心霊写真と呼ばれているだけである。

 仏教では、霊は「非物質的な存在」と位置付けされている。その非物質的な存在が、光を反射して写真に写り込むことはない筈である。

 心霊写真を取り扱ったどんな番組でも、「霊能者」の釈明は放送されない。多分、今後の心霊写真番組の為に、釈明はタブーとされているのだろう。

 このような番組に、猫爺は四字熟語を造った。「故意画策」 PDの外のスタッフたち、写真提供者とその周囲の者、霊能者、スタジオのオーディエンス(キャーキャーと怖がって見せる人たち)の故意の画策だと思っているのだ。

 そうだろう。写真が出来上がったとき、担任の教師が気付かないわけがない。当時の生徒たちだって知っていた筈だ。卒業写真なら、写真に合わせて生徒の名前を書いた人も居ただろう。そして、誰よりも「心霊写真ではない」と知っていたのは、霊能者であった筈だ。(再稿)

   写真は、猫爺がそれらしく(?)合成したものです。御免なさい

猫爺の短編小説「続・赤城の勘太郎」第三部 懐かしき師僧  (原稿用紙12枚)

2016-08-07 | 短編小説
 傷ついて寝込む辰巳一家の貸元の命を取るべく、猪熊一家の親分子分三人が戸の突っ張り棒を力ずくで折って入ってきた。 そこには、子分たちの姿は無く、傷ついた辰巳一家の貸元が寝かされているようであった。
   「今、とどめを刺して楽にしてやるからな」
 連れて来た一人の子分に、「殺れ」と、もう一人の子分に「布団を捲れ」と命じた。

 布団が捲られると同時に、白く光る長ドスが一人の子分の長ドスを弾き飛ばし、返すドスの切っ先が猪熊の右足内腿を刺した。「うっ」と呻いて俯せに倒れた猪熊の躰を押し退けて、布団に寝かされていた男は起き上がった。
   「お、お前……」
   「待っていたぜ、猪熊の」
 寝かされていたのは、紛れもなく辰巳の貸元だった。
   「くたばったと思ったのか」
 猪熊の二人の子分は、驚いて壁際まで逃れた。
   「生憎だったなァ、皮を斬られたぐらいでくたばる程、わしは柔じゃねえぜ」
   「騙しやがったな」
   「騙し討ちにしたのはお前だぜ」
   「糞っ」
   「怪我で動けなくなった振りをして、お前の出方を見てやればこの始末だ」
   「辰巳の子分どもはどうした。 逃げてしまったのか?」
   「周囲で待機している。 さっき呼びにやったから、揃って戻って来るだろう」
   「勘太郎はどこに居る?」
   「今頃、猪熊一家で大暴れしているだろうぜ」
 やがて猪熊親分は両手で傷口を抑えて、黙り込んでしまった。


   「ごめんなすって…」
 猪熊一家の門口に若い男が立った。 男がひとり顔を出したが、慌てて奥へ下がった。
   「勘太郎だぜ、勘太郎が来やがった」
   「あいつ若いが、腕が立つそうだ」
   「辰巳の復讐に来やがったのだろう」

 長ドスを振り回して挑んでくる子分を、勘太郎は躱しながら両一家の喧嘩を計画的に扇動した半五郎を探したが居なかった。 勘太郎を追って来て逆襲されたときに何処かへ逃げてしまったのか、それとも、何処かに隠れて成り行きを窺っているのか最後まで姿を見せなかった。
   「辰巳の貸元を襲った仕返しは、親分ともども悉く簀巻きにして千曲川へ沈めてやるから楽しみにしておけ」
 勘太郎のハッタリが飛んだが、猪熊の子分たちは悉く腕に痣を作って、戦意も恐怖も感じない様子であった。


   「親分、ただ今帰りやした」
   「おぉ、勘太郎か、ご苦労だった、それで首尾は?」
   「存分に暴れてまいりやしたが、半五郎の兄ぃは逃げてしまったようです。 親分は?」
   「作戦通り、猪熊を懲らしめてやった」
   「止めを刺すのですか?」
   「いや、それには及ぶまい」
 今まで医者が来ており、猪熊の手当をして帰ったそうである。
   「医者はどう言ったのです?」
   「四、五日は安静にして、十日も温和しくしておれば、傷は塞がって歩けるようになるそうだ」
 寝所まで勘太郎が覗きに行くと、猪熊の枕元で二人の子分が正座して項垂れていた。 勘太郎の姿を見るや、ビクッとして後退りした。
   「医者は、四、五日動かすなと言っているが、連れて帰るか。 それともこのまま此処に居るか?」
 勘太郎が二人に尋ねると、「此処に居る」と答えた。 間もなく、辰巳の子分衆が戻ってきて、以前の辰巳一家を取り戻した。

   「親分、勘太郎は旅に出ます」
   「儂の養子になる為に帰ってきたのではないのか」
   「俺らは元僧侶です、俺らの心にいる阿弥陀様が人を斬らせません」
   「そうか、やくざには成れないってことか」
 勘太郎は親分の前で正座し、この度のことは親分が引き起こしたことだと、生意気な説教をして詰め寄った。子分には、義理人情に厚く、度胸千両の子分たちが揃っているのに、子分に目を向けずに自分のような若造を養子に据えようとしたことが原因だと非難した。
   「泰吉兄ぃだって、命をかけて親分を護ろうとしていやした」
   「そうだったなぁ」
 せめて今夜は、ここに泊まっていけという親分を振り切って、勘太郎は旅にでた。口には出さなかったが、今夜泊まれば、それは下働きの勘太郎ではない。一宿一飯の義理に縛られる旅鴉だ。やくざ一家の屋根の下に、五年も下働きとして暮らして来た勘太郎である。義理と掟に縛られて、命を落とした旅鴉も見た。何ら意趣遺恨もない男を斬って、後悔に苛まれる旅鴉も知っている。 一時、やくざのふりをした勘太郎であったが、ほとほとやくざ渡世に嫌気がさしている勘太郎なのである。

 
 勘太郎はすでに従兄弟の浅太郎が住職に就いた西福寺に草鞋を脱いでいた。 いまでは、浅太郎改め。住職の曹祥(そうしょう)和尚である。
   「勘太郎、よく来てくれた。元気そうで何よりだ」
 住職の曹祥が勘太郎の無事を喜び、こころから迎えてくれた。
   「兄ぃも、すっかりお坊様らしく成りなすった」
   「勘太郎に見せたいものがある」
   「俺らに?」
 曹祥は勘太郎を西福寺の墓地に連れていった。 墓群の中に、「俗名・勘助」と書かれた粗削りの小さな墓石があった。川石に曹祥が彫ったものであろう。
   「御遺体は昌明寺にあり、真寛和尚さまがご供養してくださっているのだが、この墓には勘助叔父が死んだときに着ていた血の付いた単衣の寝間着が埋まっている」
 曹祥は、毎日この墓に来て、経をあげて供養しているのだという。
   「おとっつあんは、自害したと忠次郎親分から聞かされた」
   「そうだが、義理と掟に挟まれて、自害を止められなかった拙僧の落ち度だ」
 曹祥は、生涯この西福寺で、叔父勘助を供養するのだという。
   「浅太郎兄ぃ、恨み続けて済まねえ」
   「いや、恨まれて当然だ」
 
 勘太郎は、今日にも旅に出ようと思ったのだが、村人たちが寛延という名を聞きつけて集まって来た。 彼らの思い出にある可愛い小坊主が、童顔だが逞しく成人した男となって自分たちの前に居ることが信じられない様子であった。
   「寛延さま、今夜は私たちが夕食を用意しますので、ぜひとも寺に泊まっていってください」
 村人たちは、ここがお寺であることをすっかり忘れているようで、野菜に混ざって猟で仕留めた野鳥や、魚なども持ち込まれた。
   「寛延さま、濁り酒などいかがでしょうか」
   「寛延さま、こちらは雉の肉にございます」
   「待ちなさい」
 一人の村人が制した。
   「寛延さまは、今このような恰好をしておいでだが、真は和尚様ですぞ」
 村人たちのあいだで、わあわあ言っておりますと、寛延は落ち着きはらって声をかけた。
   「浄土真宗の開祖でいらっしゃる親鸞聖人は、鳥や魚、お酒もお召し上がりになりました」
 当時、僧侶は生き物を口にしないしきたりであったが、袈裟を外すと僧侶ではないと理屈をつけて平然とそれらに箸をつけていた。その中で、親鸞聖人はいつも袈裟を外さずに仏教では「殺生」と言われて避けていた鳥肉や魚などをお召し上がりになった。ある人がその訳を尋ねたところ、親鸞聖人はこうおっしゃった。
   「わたしは有難く生き物の命をいただいています。 僧侶として鳥や魚に感謝して、魂をお浄土へ導いてあげるために袈裟は外しません」
 その夜、勘太郎は鱈腹食い、調子に乗って鱈腹飲み、だらしなく目を回してしまった。

 もう金輪際会わないと決めていた浅太郎に会って、誤解をしていたことを謝り、晴れて故郷へ戻る勘太郎の草鞋は軽かった。


 勘太郎の足は、赤城山の麓にある昌明寺に辿り着いていた。 勘太郎を迎えてくれたのは、師僧真寛であった。
   「真寛様、お懐かしゅうございます。 寛延です」
   「おぉ、寛延か、遅かったぞ」
   「どうなさいました?」
   「ご住職さまが一ヶ月前にご逝去なさいました」
 勘太郎は、「えっ」と驚きの声を発し、そのあと固まってしまった。「嘘っ」と咄嗟に言いかけて、言葉を飲んだ。僧侶の真寛さまが、このような時に嘘をつく筈がないと、不謹慎な言葉を思い留まったのだ。
   「ご住職さまは最期のとき、『寛延はどうしておるかのう』と、一言仰いまして息を引き取られました」
 第二の父とも思しきお方である。 まだ六歳の頃、この寺で実の父の死を悲しんだ。住職の死はその時に増して悲しい。 嗚咽している勘太郎の脇に小坊主が座り込み、真新しい手拭を差し出してくれた。
   「ありがとう、あなたの名は?」
   「はい、妙珍と申します」
 勘太郎の小坊主時代の名だ。 勘太郎がこの寺に来た時よりも二、三歳大きい。こちらの妙珍は、六ヶ月前にこの寺へ修行に来たのだという。
   「先のご住職さまは、お優しい方であっただろう」
   「はい、真寛さまよりお優しい方でした」
 真寛がツツツと妙珍の傍に来て、拳骨(げんこ)で頭を一つ軽く叩いた。
   「この妙珍も寛延と同じく、甘い顔をしていると還俗して『任侠の世界に生きる』と言い出すかも知れぬのでな、心を鬼にしているのじゃ」
 真寛は、笑っていた。

 勘太郎は、既に還俗が認められていると思っていたが、先の住職も、真寛もまだ許していないという。 勘太郎は、それから約一ヶ月昌明寺に滞在し、止める真寛に向かって丁重に頭を下げて、江戸へ向けて旅立って行った。   ―続く―

 猫爺の短編小説「赤城の勘太郎」
   第一部 板割の浅太郎
   第二部 小坊主の妙珍
   第三部 信州浪人との出会い
   第四部 新免流ハッタリ
   第五部 国定忠治(終)
 猫爺の短編小説「続・赤城の勘太郎」
   第一部 再会
   第二部 辰巳一家崩壊
   第三部 懐かしき師僧
   第四部 江戸の十三夜

猫爺のいちびり俳句「朝顔や」

2016-08-02 | 日記
   ◇朝顔や 初一輪の 威張り咲き◇

 葉は猫爺の掌より大きいのだが、花は小さくて浜昼顔の如し。 考えてみると、この紫色のチビ朝顔は生命力が強く、ほったらかしでも毎年花を咲かせ、毎年種を零している。草叢で果敢に花を咲かせる野生化した朝顔と言えるのだろう。

 浜昼顔を引き合いに出しているが、子供の頃は、須磨浦の砂浜に普通に咲き乱れていたのだが、もう本物を猫爺は何十年も見ていない。
 
 
   (/・ω・)/話は変わるが‥‥

 砂浜には、猫爺たちは「ヘコキムシ」と呼んでいた昆虫が居た。ネットで「屁こき虫」で検索すると、「カメムシ」がヒットするのだが、これは間違いである。「ヘコキムシ」とは、手塚治虫氏が子供の頃に愛していた?オサムシ(オサムシは屁をこかない)の仲間で、猫爺が探したところ、どうやら「ミイデラゴミムシ」がそれにあたるようである。
 
 この虫は、襲われるると「ブッ」と音が聞こえるくらい勢いよく「屁」をブッかます。この屁は、猛烈に臭いうえに高温である。蜘蛛くらいの虫であれば、気絶させる程の威力を持っているのだ。恐らく、蜥蜴でも手が付けられないだろう。

   (/・ω・)/脱線ついでに‥‥

 大阪泉佐野の金魚の放流が物議をかもしている。「金魚の虐待だ」というのが論点のようだ。虐待と言えばそうであるかも知れないが、縁日や夜店の金魚掬いもおなじこと。容器のなかで掬えば虐待ではなく、川で行えば虐待だと騒ぐのはどのような論議からくるものであろうか。
 食用の養殖魚を掬って食べるのは、虐待とは言わないのだろうか。活け造りの、まだ身がピクピク動いている魚を食うのは、虐待ではないのか。白魚の踊り食いはどうなのか。
 猫爺なんか、生きているアサリやシジミを熱湯にほり込んで殺しているが、これは虐待にはならないのか。虐待の定義とは、人間の都合によるものと心得たり。