沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩491 問題 4の3

2013年11月21日 22時31分34秒 | 政治論

 現人神がただの人になった戦後は、かつて幻想的に仮託し得た天皇朝廷を陽尊陰卑的にも依拠し得なくなった時代として、当然今までに無い様相を呈している。為政者は、「民主化」の果てに自身の「民」を喪失し(元々なかったのだが)、権威たるべき「民」に仮託すべき根拠さえ見出せず(天皇からも自ら手を引き)、保守は保守の、革新はそれなりに多数決原理を神とし党派的抗争を繰り返す、本来性のない政争に明け暮れる議員報酬盗りの詐欺師集団に堕した。「お代官様」政治にあえぐ一般大衆はやがて馴化され、不本意ながら不如意な生存を強いられる。これを無感動に受容する習いは封建の世の圧制に押し潰された「物言えぬ民」に同じい。物言う民の琉球人は同じ日本人でありながら、同じ日本人に対する対し方でない対し方で襲い掛かる「お代官様」が、してならないことをする以上、これに抗議し諫止しようとし体を張って、させまいとする。その姿は彼の風土と気候、ヒトとの関わり具合が織り成した独特の柔和さで性格づけられているが、もしかすると下手に切れやすい本土人の有り様よりも「抵抗力」があるのかもしれない。琉球における「民主化」は、米国軍民政府の手で維新後の日本国が強制した「同化」と「皇民化」を取っ払い、琉球文化の称揚と礼賛、奨励によって独自性を回復する、という流れを生んだ。琉球にとって民主化とはなんだったのか、というと、まさに独自性において「人民」となることだった。それは彼の歴史が被抑圧支配民族系だったということよりも、「自覚」において歴史を認識し、ここから、あらゆる場合に応じて自己を選び取る精神の働きが紡ぎ出され、重要な価値観の転換が行われた、ということだ。(つづく)


詩491 問題 4の2

2013年11月21日 09時04分28秒 | 政治論

 残骸のような己の過去に目を向けるのは単に頭脳の海馬にちょっとした刺激を与えて、滅びいく脳内環境をリフレッシュしようという果敢無い試みに過ぎない。近代化は天皇制を随伴して破局の一途を辿った。支配階級で無為徒食の下級武士がおっぱじめた維新は、結局、藩閥政府やら極端な欧化主義、官憲の自由主義弾圧、あるいは民衆的権威乃至検認を持たずに体制化した天皇絶対主義など、根本的な矛盾を抱えて最先端先鋭化を諮った。支配階級的政体を根とした近代化が、うまくいくはずはない。案の定、この国は肉体を持たない火星人のような頭でっかちの奇形児よろしく、無鉄砲な突進により崖ふちを蹴って真っ逆さまに玉砕の谷底へ落ちていった。担がれた天皇に無罪性があるかといえば、東条英機が司法取引(東条に何の得も無いのだが)してこれを論証する連合国策に協力し、不訴追の決定をなさしめたことが全てであって、それ以上でも以下でもなく、相変わらず腑に落ちない歴史の禍根として、東京裁判史観の批判対象そのものでありながら、これの先陣を切る右翼連中が自身の手で天皇を裁かない矛盾に彼等の非論理性がある。占領政策の円滑にして穏便な進展など日本人の知ったことじゃあるまい。天皇制は明らかに連合国の不実な画策によって生き残った。戦後「民主化」の片手落ちがこの天皇不訴追だということに気が付かねばならない。その無条件の存在の永続化によって、この国の責任主体は無責任となった。幻想的仮託がこれだ。(つづく)