沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩491 問題 2 イジメ

2013年11月18日 11時10分31秒 | 政治論

 学校教育、イジメ、など現行次世代問題に頭を痛める成心ある現代社会は、これらを解決解消するためどうしてもそこに全体主義的な画一的統一的対処法を求めるようになる。本来、民主主義とはこうした集中制に馴染まない本質を有していることは了解されよう。例えばイジメは、何人かの就学年代たちが一人のターゲットに集中的に何らかの攻撃を加えることに始まって、強迫性脅迫で囲い込み、彼に著しいストレスを持続的に与える、という形質で、隠蔽的に存在する。つまり、イジメは、概ね集団的な塊が少数の弱者に対して行う虐待行為である。これは観念的に言えば、「民主制のバランス」が崩れた状態ということになる。但し、この集団的な塊の構成員それぞれが強者かどうかは未知数であり、単に塊としての力学が一つの強度を保持すると言うに過ぎないかもしれない。ここでは、就学者という大きな集団における等し並の「民主制」が分裂し、自然淘汰的に差別と振り分けが進み、別の新たな集団と個を生み出した、という現象といえる。恐らくは学校生徒における内部的な細分化は二次元程度の視点で説明ができるのかもしれない。かつて受験地獄と称された学歴偏重の時代には、逆にこれらの個が集団を蹴落とすという内容のアンバランスを生んだ(その蹴落とされた集団からみれば、優越的に個が抜きん出たという認知に終始するのだろう)。それは基本的に自由競争という制度的な有り様によって人間社会ではありきたりの傾向として今後も存在し続けるだろうが、一方「落ちこぼれた」生徒が社会に出て、一般的に生活者の集団である人間社会の中で、かつて彼を「蹴落とした」優越的個の集団(政治家、官僚、資本家)が作り出す「全体的画一的」制度により、何らかの実情に沿わない状況からストレスを被るということが起きる。これもある意味イジメの内容を有している。何故なら、優越的個は同時にこれに拠る何らかの集団によって保証され、巨大化し、別の集団を分裂させ吸収し制覇することになるからだ。「民主教育」という呼称が本質的な意味を持つならば、実際にその実践内容を、事細かに検証しなければならない。イジメを失くす、ということは、画一的統一的な教育方針が始まりでなく、微細に個別的に実情を洗い出し、臨床的なデータを積み重ねることによってしか正確には成果を挙げ得ないだろう。(つづく)