沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩490 現実 5 姥捨て

2013年11月07日 10時39分42秒 | 政治論

 認知症患者とまで言い切れない老人が、恐らくその生い立ち、性格、気質からくる攻撃的妄想癖の虜になる(これについては、例えば脳の「海馬」の萎縮という観点で医学的に、物忘れ、物盗られ妄想という現象解明の根拠とするらしい)ということが起こると、それは徐々に歯止めが利かずやがて生活全般に及んで周辺余人をその雰囲気だけで囲い込む。そのこと自体は重大なことではないが、周辺余人にかかる精神的なストレスというのは、単純に扱えない部面があり、よくよく自己分析しないと多くの悪弊を混同し一緒くたにすることもある。自身のなかの全体主義だ。難しいのは、この攻撃的妄想老人と日々向き合う場合のこちら側の有り様にある。こうした老人が介護保険の対象となるのは「要支援1,2」で、そのコンセプトは「予防介護」となっているにはいるが、すでに十分介護すべき案件を抱えていることは、周辺家人が百も承知のことであって、恐らくこの「要支援」には家人の止むに止まれぬ窮状が隠れているのだ。それは彼等(妄想老人)が、物のしまい忘れ、紛失、のたびに自身の「ボケ」を認めずにこの事態を「物を盗られた」と判断(従って正確には思い込みだが)し、家人の誰彼にあらぬ嫌疑を掛けて止まない、という行為の連続により、その家人が精神的に「参ってしまう」ということだ。で、多くの忠告は「できるだけ顔を合わせない」生活パターンを造出せよという。この老人をデイサービス、ショートステイ、老人集会に送り出し、体のいい「姥捨て」状態にしつつ、自分も彼が在宅時には外出するとか。何のために?(つづく)