沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩398 沖縄からのメッセージ 22の3

2013年03月09日 11時01分42秒 | 政治論
 この世のメフィストフェレス(悪魔)は犬になったりしながら、陰と嘘と臭気を好み、神に挑戦したりして人を誑かし誘惑し試み、その魂を食い物にする。人はこの者と知らずに「取り憑かれ」試みられるが、ファウスト博士のように自らこれを請じ入れることもある。
 原子力エネルギーは屡々こうした類の(悪魔的)禁断の果実のように看做されるが、その人類史上における超え難い危険性については、子々孫々の時代にまで残留する危険極まりない塵芥として、永続的に手の付けられない「厄介もの」になるということであり、今すぐ全世界の原発を停止廃炉してさえ、その処理には永遠的に莫大な費用と手間を要するという、まさしくメフィストフェレスの悪魔的勝利を受認せざるを得ない有様だ。
 ある意味人類は、この悪魔の贈り物によって贅沢感と獣欲を充足したと言っていいのかもしれず、一方その代価としての計り知れないストレスは、今やチェルノブイリ、スリーマイル、更には「フクシマ」の惨状に如実に現れているということになろう。
 しかも「戦争を終わらせるために」落としたといってはばからず、引き続く広島長崎の酷たらしい原爆体験と遺伝的後遺症さえ意に介さず、戦後世界が繰り返した核実験の可視不可視に渡る被害は、到底人力の管理に収まらない地球規模の、あるいは宇宙規模の汚染となって、向後いよいよ人間の生活生存環境に浸潤していく。
 我々個人の一生はたかだか80年に過ぎず、苦楽の度合いは様々だろうしいずれなんらかの苦悩に見舞われることは避けがたい。死は間違いなく誰にも訪れるし、遅いか早いかの違いしかなく、医学は健康的長寿を最終目標にしながら、肉体的精神的苦痛の寡い人生のために、科学技術的に進歩しようと努力しているとしても、「死すべき運命」の人間に数値的限界は如何ともしがたい。
 にもかかわらず、人は目の前にある危険を避けたいと無意識に思い、押しなべて緩和拡散された「危険性」への政治的策略を金銭的代価をもって受け入れるには、アクロバット的に己を誤魔化すしか方途はないのだ。
 「国策と人民」の究極的関係性は、こうした風情の究極の「命のやり取り」にほかならない。
 沖縄県国頭郡東村高江で、今まさに、危険性ばかり突出している産軍複合国策の産物、MV22オスプレイのためにヘリパッドを建設せんと、日米の戦争屋たちが住民識者協力者の、夜も日も明けぬ監視抗議活動のわずかな間隙をぬって、沖縄県本島北部「やんばる(山原)」と呼ばれる亜熱帯樹林の、希少生物豊富な生命維持帯に押し入っている状況だ。
 アメリカ本土にいくらでも訓練場を見つけられるはずなのに、わざわざ反米反基地活動で沸き立っている沖縄くんだり、「金のために」条件がいいとて軍事展開するアメリカどもには呆れ果てるが、これを進んでよしとする日本人・日本政府本土人というものには度し難い無神経さを感じる。(つづく)