沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩398 沖縄からのメッセージ 27の4

2013年03月23日 12時50分48秒 | 政治論
 辺野古の座り込みが「三里塚」とは意味も内容も相違することを本土人は少しも知らないが、それは沖縄県をその他の46都道府県と同一地平にあると国策的に思い込まされている実情からは仕方がないといえば言える。
 筆者もまた彼らと同断であり、かつての沖縄に関する無知無関心傾向については今更慚愧に耐えない思いがする。現在でも沖縄認知に事欠き「ウチナーグチ」(沖縄方言総称)など及びもつかぬ複雑難解さに辟易する始末で、「沖縄のことは沖縄に」という諺言に依拠するしか方途はないという情けない状況だ。
 この沖縄に関する無知さ加減から出発してこの6、7年のうちに見聞きしたところでは、改めて本土政府が加える沖縄施策の偏頗性、差別性に驚愕する日々の連続ではあった。
 これに就きつらつら述べ立ててみたところで詮方ないが、ところで、原発が地方の僻村に押し付けられたのと、米軍基地がとりわけて沖縄に押し付けられた経緯は根本のところで相違している。この相違をしかじかと並べ立てる愚を犯す必要もないが、原点はどうしてもその歴史的事実に還元される。
 「頭越し」政策強行は、この国と琉球沖縄との、歴史的な事実の培養が生んだ特殊な関係性から、国がその穏当な手立てを失って繰り出すのである。勿論米国がらみで、米軍が「銃剣とブルドーザー」で県民の私有地を強引に奪い取り、次々と軍事基地を建設していったあのやり方を事実上踏襲しようとしているのである。
 「反発」というが、そうではない、裏切りと失望の歴史が助長した国への、本土への不信、不信頼性に極まる県民感情が消し難く実在する結果自然発生する、「国家対人民」という意味で悉く対立する「力学」にほかならないのだ。
 つまり県民力は、国家権力に対峙するべく総じて通常の、本土並みのパワーエネルギーとは比較にならぬ根強さで抵抗する量にまで達している。この点も三里塚とはわけが違う。
 ガンジーは言う、「非暴力」運動で必要なのは自己のうちにはびこる「臆病と不安」を日々取り除く作業にほかならないと。「こんなことしてても結局国家力にはかなわないのじゃないか、無駄なことはやめてさっさと金もらって普通の生活に戻るのがいいや」、と思うのは単なる「臆病からくる不安」に負けただけだ。通常の愛郷心程度ではこうした一時的な情感に打ち負かされるがオチだが、ここにあるのはこれまでもこれからも繰り返される本土政府と本土人による国内植民地政策に対する、絶え間無い「不服従」と「抵抗」の日々だ。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 27の3

2013年03月23日 07時53分06秒 | 政治論
 平成25年3月22日午後、沖縄において完全な「日陰者」である沖縄防衛局にとっては、「辺野古埋め立て」申請手続書類も容易には提出することがかなわぬらしく、この度も一昨年と昨年年末の環境アセス及びその補正書提出と同じく「こそこそと」担当受授印もないままに書類入りダンボール数個を受付に押し込んでそそくさと去ったという。実情がこのような有様なのにかかわらずその行為は「号外」となって大々的に喧伝されるという、甚だ不相応な見苦しい国家軍拡事業の強行姿勢ということになる(目取真俊氏「海鳴りの島から」)。今更言うまでもなく、このような憎々しげなやり方で1割にも満たない懐柔籠絡成果をして米国国家安全保障傀儡政府である日本政府が、最終段階への片道切符(まさに特攻精神ではないか)を沖縄県に投げつける行為は、9割に及ぶ、日米安保そのものの忌避感に覆われた県民の反感怒号を呼ばずに済むわけがないだろうに。先の政権時にあからさまに噴出した県民感情は元々辺野古座り込み等前提的にあった「条件付き普天間返還」に対する、10数年に及ぶ徹底した反対姿勢のほんの部分的な表徴に過ぎず、いかにも「進捗している」かのように喧伝するメデアマスコミはじめ本土の偏頗な報道姿勢とは裏腹な県内情状を、多くの本土人は知る由もないとして、さて同じ日本人にありながら、こうした日米安保強行路線を何げに黙認する卑劣さを、やり過ごすその精神的堕落につき多くの識者がいかにも知ったふりして「フムフム」とひとりごちる傾向は、残念ながら到底承認承服できないものとしてある。一方申請ねじ込み行為に対する県知事の反応は、彼の本性を垣間見せる甚だ危険な「変節」の匂いがしたのは筆者だけだろうか。この特異な日本政府の有りようとは別に、米国国内事情が財政危機から国防予算に関し戦々恐々としていることを彼ら政府官僚は焦燥の念とともに見つめていることだろう。「普天間固定化」は(海兵隊受け入れグアムインフラ整備の遅延及び緊縮財政から)事実上向後数年にわたっては確実視されているし、「負担軽減」の実効性はとうの昔に破綻している。いかに嘉手納以南基地返還が実施(何年かかるのか知れたものじゃない)されてもその状況に格段の変化はない。米国シンクタンクあるいはニューヨークタイムス、上院議員などには辺野古移設不可能認識移設見直しの意見が当然に沸き起こっている。それは彼らの事情に過ぎないが、沖縄の主張は、沖縄戦で代表的に体験された悲劇、「国内差別」の本質、に基づく「非戦」「反安保」意思であり、米軍基地からの世界戦争発進行為を不作為に担保しなければならない罪過負荷への忌避感である。彼らが扇動する「共産主義」脅威論はなんらの説得力もない。彼らのやっていることは産軍複合経済主義の醸し出した軍需貪り行為にほかならない。(つづく)