辺野古の座り込みが「三里塚」とは意味も内容も相違することを本土人は少しも知らないが、それは沖縄県をその他の46都道府県と同一地平にあると国策的に思い込まされている実情からは仕方がないといえば言える。
筆者もまた彼らと同断であり、かつての沖縄に関する無知無関心傾向については今更慚愧に耐えない思いがする。現在でも沖縄認知に事欠き「ウチナーグチ」(沖縄方言総称)など及びもつかぬ複雑難解さに辟易する始末で、「沖縄のことは沖縄に」という諺言に依拠するしか方途はないという情けない状況だ。
この沖縄に関する無知さ加減から出発してこの6、7年のうちに見聞きしたところでは、改めて本土政府が加える沖縄施策の偏頗性、差別性に驚愕する日々の連続ではあった。
これに就きつらつら述べ立ててみたところで詮方ないが、ところで、原発が地方の僻村に押し付けられたのと、米軍基地がとりわけて沖縄に押し付けられた経緯は根本のところで相違している。この相違をしかじかと並べ立てる愚を犯す必要もないが、原点はどうしてもその歴史的事実に還元される。
「頭越し」政策強行は、この国と琉球沖縄との、歴史的な事実の培養が生んだ特殊な関係性から、国がその穏当な手立てを失って繰り出すのである。勿論米国がらみで、米軍が「銃剣とブルドーザー」で県民の私有地を強引に奪い取り、次々と軍事基地を建設していったあのやり方を事実上踏襲しようとしているのである。
「反発」というが、そうではない、裏切りと失望の歴史が助長した国への、本土への不信、不信頼性に極まる県民感情が消し難く実在する結果自然発生する、「国家対人民」という意味で悉く対立する「力学」にほかならないのだ。
つまり県民力は、国家権力に対峙するべく総じて通常の、本土並みのパワーエネルギーとは比較にならぬ根強さで抵抗する量にまで達している。この点も三里塚とはわけが違う。
ガンジーは言う、「非暴力」運動で必要なのは自己のうちにはびこる「臆病と不安」を日々取り除く作業にほかならないと。「こんなことしてても結局国家力にはかなわないのじゃないか、無駄なことはやめてさっさと金もらって普通の生活に戻るのがいいや」、と思うのは単なる「臆病からくる不安」に負けただけだ。通常の愛郷心程度ではこうした一時的な情感に打ち負かされるがオチだが、ここにあるのはこれまでもこれからも繰り返される本土政府と本土人による国内植民地政策に対する、絶え間無い「不服従」と「抵抗」の日々だ。(つづく)