沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩398 沖縄からのメッセージ 23

2013年03月12日 07時48分45秒 | 政治論
 ふつつかながら自身のブログを赤面再読していると、自ずから染み出す傾向というのに合わせようという意識が働くようで、進歩のない枯死寸前の文章傾向へ落ちていく気がされる、というのはどうでもいいのだが、名護漁協の辺野古埋め立て同意というのは勿論何年も進捗しない普天間問題の結論でも始まりでもなく、様々あった茶番劇の一例にすぎないことは了解されよう。
 同様に名護市民の一部から辺野古移設推進の要請があったことも、こうした形勢を意味することは、沖縄県民なら誰でも知っている。沖縄は例に漏れず一枚岩ではありえないし、逆に言えばこれを、国策の無理強いが地域住民の仲を切り裂く悲劇として捉えていることも事実なのだ。
 漁協は補償交渉において大きく国と隔たっている補償額について、むしろ妥協知らずの抵抗を示すべきなのだろうが、残念ながら彼らの頭の中では、貧窮に喘ぐ辺地漁業界と自身の街の財政的豊潤を願うばかりに、日米政府によって侵食されている郷土の惨状には思い至ってないかこれを後回しにしている。
 コンクリートから人へ、ではないが、古くて寂れていて見栄えのしない自然環境というのは、失われたときその真の価値に気づかされる、ということを、福島第一原発事故で故郷の土地が文字通り死滅した「帰還困難区域」指定住民の例に学ぶしかない。
 コンクリートで「スッキリした」景色を良しとするのは都会人の思考法であり、田舎者がそこに立つと、どこかむき出しにされて所在無く戸惑う姿しか見えてこない。欠けているのは自然が抵抗する人工への無際限のたたかいであり、人間がこの自然の法則においてひとり例外的に存在するわけではないということであり、異国からやってきて我が物顔に軍事基地を作ろうとしているのを、アメダマもらって黙って眺めているのは児戯に等しい。自己保存の法則からすればどうかすると「命懸け」で「非暴力不服従」行動に至るのが人間らしい意味の自然だ。(つづく)


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