沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩398 沖縄からのメッセージ 29の2

2013年03月29日 16時29分49秒 | 政治論
 いずれにしても政治上護憲と改悪改憲の関係は、表面上背叛しながら実は同根異夢の過誤を犯している。つまり戦後日本は、領土的には東西分裂(東をソ連に西を米国に)の憂き目を見なかったにしろ、実質的には、平和憲法の偏頗な奇形的解釈(自衛隊と日米安保)により「コミュニズム対カソリズム」の浮き足立った西洋的確執を、戦後民主主義というまがい物?で覆い尽くしたということだ(なんという気色の悪さか)。
 だがこの体たらくは、近代日本が維新後開明されて以来、実は自ら運命的に準備したなれの果てではあった。
 こういう場合にも「護憲」の立場では、第一章「象徴天皇」は何げに黙認されるのだろうか。例えば沖縄では、明治政府以来の日本政府と琉球自体の同化策によって、本土以上に激越に皇民化教育がなされ、実際に沖縄戦では「戦陣訓」とともに、「集団強制死」や軍民混淆の無差別玉砕戦場に叩き込まれる間接的因源となった、その「天皇制」こそ、戦後日本から追放されるべき諸悪の根源のようにさえ考えられるのは当然なのであり、これは実体験に基づく実感である以上、先般の「主権回復の日」問題同様到底無視、軽視し得ない実在する沖縄の民衆的感情と認識しなければならない。
 本土決戦と一億玉砕完結行為(それが如何に間違った選択だとしても)が実施されていたなら、日本国民はなべて沖縄同様一家全滅などの悲惨を極め、「天皇制」に対し現状とは違う感情を持ったのではないか。
 政局的党略的「護憲」の質は劣化している。憲法9条は何故保存されるべきか。この問いは、再軍備画策派の突き上げに伴い戦略的に語られなければならないことには変わらないが、一方、自身が的確な現状認識に立って明瞭な規範を持するバランスを保つことができるかどうか絶えず検証しなければならない。
 二律背反は、その総合的効力を発揮するため、強固な意志として実践しなければ到底止揚飛躍はかなわない。「オキナワ」がその根源である。この実体験の地は、天皇制を否定し9条の理念的精神性を死守する。実体験せずに、むしろ「ポツダム宣言」受諾によって窮場を脱した形の本土一般が、非戦意思や「玉虫色」の天皇制容認拒否を積極的に、ノンポリ的に己の行動倫理基盤とするはずもない。これが実態だ。ここにも本土と沖縄の歴史的分断の決定的な断面が厳然と立ち現れる。(つづく)