沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩333 その4

2011年07月08日 08時17分59秒 | 政治論
 菅も民主党も鳩山が普天間問題で辺野古に回帰した時点においてその実態が決して革命的でもなく改革路線でさえなくむしろ旧帝国官僚的保守停滞固定路線から一歩も出ることなく中途半端な小手先の目くらましに終始し、「やることはやっても成果が国民の目に見えてこない」とごまかし、大震災においては権力者目線の言動において民主とは名ばかりの無能な優等生根性を発揮し、いまもって自分たちはいったいなにがしたいのかまるで雲をつかむような袋小路を右往左往するばかりで埒が明かないばかりか放射能汚染の進行にある現況を打開する画期的政治的英断をやり遂げない女々しき落ちこぼれ政権の正体を曝して恥じ入ることもなく最早手がつけられない状態にありながら深刻な国民の身の上にはなんらの顧慮もなく恐るべき不毛な時間の浪費に墜落して終わった。国民はこの2年間いったい何が起こったのか訝しく思っている。自民時代の体たらくにはむしろ嘲笑程度で収まったものを民主政権については余りの失望感に笑うに笑えないやりきれない無力感に真夏の酷暑は一段と強烈な鞭を加えている。少なくとも被災地、原発被害者、もとより普天間住民などこの国の施策無策悪しき無責任体質から生じさせられた多くの被害国民は今や政治の絶望的実態に鑑み、地方自治の優位性に想いをいたし地域共同体の草の根的実力を評価し、嘆きの天使から脱却しおのずから鼓腹撃壌的状況を創出すべく日頃の自己自身を最大限生かすべく、中央政権の瓦解崩壊雲散霧消を念願しつつ新しい日本の国土に人間らしい普通の生活実質を模索するということだわさ。果たして甲斐があるか。

詩333 その3

2011年07月05日 22時44分45秒 | 政治論
 「沖縄の負担軽減」という日本側の要望に関して示す「日米合意」に見られる「辺野古固執」の意味、沖縄群島にこだわる理由と県内新基地建設を80%県民が拒否している事実に対し現状無視の態度を執るアメリカの植民地主義乃至占領地意識、乃至沖縄差別、飛行場以外主要施設を着々建設中の辺野古を見る限りアメリカは「住民に嫌われても基地を存続させることにためらいはない」と宣言しているようなもので、彼らと日本政府が沖縄県民のあきらめを目指していることは間違いない。15年が20年になることを彼らはためらわない。メアがいうように辺野古停滞は普天間固定化で軍事的経済的にも彼らにとってなんらのデメリットもないのだ。「沖縄の負担軽減」とはむしろアメリカの負担軽減としてしか功利的には意識されてはいない。彼らに地域住民の福利厚生など眼中にないことはわかりきったことだ。普天間の危険性について住民側に立って顧慮するなんてことはこの殺人部隊には全くない。「普天間固定化」はそういう意味になる。勘違いするな。この問題の主役はアメリカでも日本政府でもない。普天間飛行場周辺住民と辺野古住民であり永年基地公害に悩まされてきた県民だ。彼ら日米政府が強制執行に踏み切ったとき日本とアメリカに最大の劫罰が下されるだろう。そのとき泣きを見るのは彼らである。(中断)

詩333 その2

2011年07月04日 15時02分43秒 | 政治論
 かつて「ノーと言えない日本人」ということが盛んに言われた時期がある。最近では民主政権の初めに鳩山氏が対等な日米関係などといっていたが結局対等どころか恒久的な隷属関係が明るみにでてしまったことで事態は落ちるところまで落ち込んだ。維新の渦中、西郷と勝が薩摩藩邸で江戸無血開城を決した場面は日本史に残る日本人的な交渉形態を暗示する。この政治的交渉の根幹は無辜の民をあたら砲弾の下に無情に曝すことの無益無駄残忍さなど考えられる限りの不当性につき政治的に回避する方策として「無血開城」を訴えた勝の心根に西郷が同調したということにある。そしてこの近代的民主的解決策の模索こそアメリカが先の大戦で「原爆投下」を決する前に日本側と休戦しても交渉すべき人間的尊厳の示し方であったはずだ。こうした「究極の選択」場面でのアメリカの功利主義を日本人は断罪しなければならない。「同じ人類である無辜の民の頭上に悪魔の兵器を炸裂させる」という手段の決定は人類史上にむしろ汚点を残しただけであろう。やってきたかもしれない一時的な平和は次の冷戦を準備したに過ぎない。マイケルサンデルの対話形式講義の優れているのは政治哲学の根本にある「哲学」の部分につき多くを示唆することになる、その可能性の豊饒と論議の展開における多様性の検証機能だ。こういう方法はまさしく民主政治のありかたそのもの、議論を上下し能う限りの現状分析を施し、政治が最終的に目指すのは何かを不断に問い続けること、だ。(中断)

詩333

2011年07月04日 00時11分18秒 | 政治論
 ハーバードマイケルサンデル「白熱教室」ではないが「一匹の迷える羊」を探しに行くキリストの話から政治哲学の根本問題を引き出すのは容易である。一方開国を迫る黒船に恐怖して朝廷にお伺いを立てる幕府というもの、あるいは国家数千年の歴史に画期的な変革を齎した明治維新において「王政復古」を掲げなければならない新政府というもの、そして所謂民主化を金科玉条とする戦後日本の最初の取っ掛かりに天皇免罪を実現するアメリカと日本のA級戦犯たち、というもの、一見どうみても時代錯誤または論理的矛盾としかいいようのないこうした日本の政治の実態を、我々特に戦後世代は厳格に批判しかつ実態の内容を検討しそこに日本国民の「何が」隠れているのか、どんな実質が見えてくるのか具に調査する必要があるように思える。サンデル氏の対話式講義の出だしに氏は「5人の死と一人の死」を取り上げ方法的具象性において人がどう感じ考えその行為を正当化するかにつき実験的に問答する。すぐに原爆投下を連想するのはアメリカと日本だけだろう。しかし実際アメリカの原爆投下は「5人の死とひとりの死」の問題そのものである。ただそれはアメリカの言い訳、「戦争を終わらせるために原爆は正しく使用された」という言葉によって喚起されたことだ。これは原爆を実際に使用しその悲惨さを目の当たりにしたはずの為政者がためらいもなく言ってのけた言葉だったがために多くの日本人を極度に刺激した。現在大半のアメリカ人は一般にこの評言を是認し訂正することはまずない。原爆記念館の中を通過したものさえも殆ど例外なく同じ事を言う。だから「原爆は多くの人民を救うためにはどうしても必要なものだった」という考え方こそアメリカ人の政治哲学つまり「5人の人間を救うためには一人の人間の死はやむを得ない」という考え方はアメリカ式の政治的思潮を形成していると判断できる。そこでマタイ伝かなにかにあるキリストの言がアメリカ人にどう解釈されたのか大いに気になる話ではないか。この話は少しばかりニュアンスを異にするが「99匹が無事なのだから迷える一匹についてはその運命にまかせたら」という弟子に対しキリストは「人の子は失われたものを救いに来た」といい、「一人でも滅びるものがあれば主の意でない」と答える。アメリカ人は「仮託」しない。つまり大向こうにお伺いを立てるようなことはしない。キリスト教を国教にすることもないし頑としてあるのは個人の自由意志、自律する思考転回の断固たる独立性だ。自由や民主性にまだ慣れてない日本人は恐ろしく優柔不断であり一切が実にあいまいなのだ。だからむしろ感情的にこうしたアメリカ人の物の考え方に腹を立てるが、実際は伝統的な思考方法の相違でしかない。だから日本人は自律する日本人的思考方法でこうしたアメリカ的な割り切り方に真っ向から反立することだ。ここから同じ人間の立場で対話が始まる。アメリカ人の原爆に関する評言は決して許容できないが、そのアメリカに原爆を使わせたのはほかならぬ日本の戦争指導者である。彼らもまた断じて許容できない行為において罪がある。(中断)

詩332

2011年07月02日 08時46分43秒 | 政治論
 原発を巡る株主総会の決議などというものこそこの国の資本主義が文民統制機能を欠いているなによりの証拠だ。地域住民と国民による原発に関する直接投票を実施し辺野古同様今後必ず暗礁に乗り上げるはずの国策方針の実態を明らかにすることだ。辺野古の愚策はアメリカ覇権主義軍拡路線の強行突破実態を明らかにした。普天間固定化こそアメリカの強権主義の行き詰まりを証明することになる。ケネデイがニューフロンティアを掲げたとき彼は、国が何をしてくれるかでなく自分が国に対し何ができるかを問えと国民に語りかけた。この精神は民主主義の根幹であるが同時に国、国家というものに対して国民が実感的にどう感じ考えるかを明らかにすることだ。国と国民の綱引きなどという愚劣な国情にある現今日本は国民が、自己の住する国家が国民の国民による国民のための国家でないことを実感しているといわざるを得ない。ということは、純粋に国民のための政治ができない代議士、党派派閥政局運営といったどうでもよいことを優先する体質に陥らざるを得ない現在の日本の議会制民主主義というものが完全に行き詰っていると断ぜざるを得ない状況であろう。この事実はむしろ鳴り物入りで出発した現民主党政権がここまでものの見事に演じてくれた茶番劇により背景にある官僚、財界、御用学者たちによって実質この国が牛耳られていることをいやでも証明した。もし真の愛国者というものがいるならこの事実に対し怒髪天を衝く憤怒に死に物になるにちがいないが、残念ながらそういう国士は影も形もない。だから力ない有識者、インテリ、アナリストたちは声を限りにいい続けなければならない、それしか君らにできる国民としての義務はないのだから。(中断)

詩331

2011年07月01日 18時58分37秒 | 政治論
 三島由紀夫という人は、基本的には戦後日本を全面的に根本的に堕落させた張本人は日米安保体制であり国策的に執られた「軽負担国防による経済復興」という吉田ドクトリンは日本人をエコノミックアニマルという「金の亡者」にしてしまったのでありそもそも国家の肉体であり精神である国民を腑抜けにし「死せる魂」にしてしまった、という戦後評価に立っていたわけだが「天皇陛下万歳」を除けば概ね同調できる内容であろう。彼の「文化防衛論」が説く「天皇」は彼が言う「文化」「日本文化」の現象する最適の偶像「仮託」するよりどころというふうに解釈される。しかしながらすでに戦後66年経過した現代日本においては「空文化」した日本国憲法という合理的断罪の挙句に「象徴天皇」の空文化も進み、いまやむしろ戦後民主主義盛んなる時代からは想像もできないほど次元が下がり、低レベルの空疎な論難に終始する有様だ。三島由紀夫の絶望と悲劇性は向後の現代文学においてさえ一種の興ざめな空気を醸すのに吝かでない。三島由紀夫の「天皇」はイデオロギーでも文学でもない。どうみても政治的「仮託」つまり権力志向における脆弱な放任主義にすぎない。一方「天皇」を問題にすることはあらゆる日本的問題性の視点からすれば今日明日に解決を期待し得ない微妙さを抱えていることも事実だ。吉本隆明氏がこの辺の事情を講演か何かで日本文化独特の「あいまいさ」に帰着するような言い方をしているが確かにそういうことかもしれない。大学法学部出身で法律的論理性を叩き込まれたという三島由紀夫のやや硬い合理性に裏打ちされた文体からは想像もできない「あいまいな」天皇に「仮託」するにいたった経緯を知らぬが、最も権力的自律性を要求される私設の軍隊を立ち上げたとき「天皇」はひとつの誘惑だったともいえるかも知れない。なにがいいたいかというと、こんにちむしろあらゆる意味で重大な問題性をこの「天皇制」が有するかも知れないという、暗示にすぎない。(中断)