沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩333 その2

2011年07月04日 15時02分43秒 | 政治論
 かつて「ノーと言えない日本人」ということが盛んに言われた時期がある。最近では民主政権の初めに鳩山氏が対等な日米関係などといっていたが結局対等どころか恒久的な隷属関係が明るみにでてしまったことで事態は落ちるところまで落ち込んだ。維新の渦中、西郷と勝が薩摩藩邸で江戸無血開城を決した場面は日本史に残る日本人的な交渉形態を暗示する。この政治的交渉の根幹は無辜の民をあたら砲弾の下に無情に曝すことの無益無駄残忍さなど考えられる限りの不当性につき政治的に回避する方策として「無血開城」を訴えた勝の心根に西郷が同調したということにある。そしてこの近代的民主的解決策の模索こそアメリカが先の大戦で「原爆投下」を決する前に日本側と休戦しても交渉すべき人間的尊厳の示し方であったはずだ。こうした「究極の選択」場面でのアメリカの功利主義を日本人は断罪しなければならない。「同じ人類である無辜の民の頭上に悪魔の兵器を炸裂させる」という手段の決定は人類史上にむしろ汚点を残しただけであろう。やってきたかもしれない一時的な平和は次の冷戦を準備したに過ぎない。マイケルサンデルの対話形式講義の優れているのは政治哲学の根本にある「哲学」の部分につき多くを示唆することになる、その可能性の豊饒と論議の展開における多様性の検証機能だ。こういう方法はまさしく民主政治のありかたそのもの、議論を上下し能う限りの現状分析を施し、政治が最終的に目指すのは何かを不断に問い続けること、だ。(中断)

詩333

2011年07月04日 00時11分18秒 | 政治論
 ハーバードマイケルサンデル「白熱教室」ではないが「一匹の迷える羊」を探しに行くキリストの話から政治哲学の根本問題を引き出すのは容易である。一方開国を迫る黒船に恐怖して朝廷にお伺いを立てる幕府というもの、あるいは国家数千年の歴史に画期的な変革を齎した明治維新において「王政復古」を掲げなければならない新政府というもの、そして所謂民主化を金科玉条とする戦後日本の最初の取っ掛かりに天皇免罪を実現するアメリカと日本のA級戦犯たち、というもの、一見どうみても時代錯誤または論理的矛盾としかいいようのないこうした日本の政治の実態を、我々特に戦後世代は厳格に批判しかつ実態の内容を検討しそこに日本国民の「何が」隠れているのか、どんな実質が見えてくるのか具に調査する必要があるように思える。サンデル氏の対話式講義の出だしに氏は「5人の死と一人の死」を取り上げ方法的具象性において人がどう感じ考えその行為を正当化するかにつき実験的に問答する。すぐに原爆投下を連想するのはアメリカと日本だけだろう。しかし実際アメリカの原爆投下は「5人の死とひとりの死」の問題そのものである。ただそれはアメリカの言い訳、「戦争を終わらせるために原爆は正しく使用された」という言葉によって喚起されたことだ。これは原爆を実際に使用しその悲惨さを目の当たりにしたはずの為政者がためらいもなく言ってのけた言葉だったがために多くの日本人を極度に刺激した。現在大半のアメリカ人は一般にこの評言を是認し訂正することはまずない。原爆記念館の中を通過したものさえも殆ど例外なく同じ事を言う。だから「原爆は多くの人民を救うためにはどうしても必要なものだった」という考え方こそアメリカ人の政治哲学つまり「5人の人間を救うためには一人の人間の死はやむを得ない」という考え方はアメリカ式の政治的思潮を形成していると判断できる。そこでマタイ伝かなにかにあるキリストの言がアメリカ人にどう解釈されたのか大いに気になる話ではないか。この話は少しばかりニュアンスを異にするが「99匹が無事なのだから迷える一匹についてはその運命にまかせたら」という弟子に対しキリストは「人の子は失われたものを救いに来た」といい、「一人でも滅びるものがあれば主の意でない」と答える。アメリカ人は「仮託」しない。つまり大向こうにお伺いを立てるようなことはしない。キリスト教を国教にすることもないし頑としてあるのは個人の自由意志、自律する思考転回の断固たる独立性だ。自由や民主性にまだ慣れてない日本人は恐ろしく優柔不断であり一切が実にあいまいなのだ。だからむしろ感情的にこうしたアメリカ人の物の考え方に腹を立てるが、実際は伝統的な思考方法の相違でしかない。だから日本人は自律する日本人的思考方法でこうしたアメリカ的な割り切り方に真っ向から反立することだ。ここから同じ人間の立場で対話が始まる。アメリカ人の原爆に関する評言は決して許容できないが、そのアメリカに原爆を使わせたのはほかならぬ日本の戦争指導者である。彼らもまた断じて許容できない行為において罪がある。(中断)