沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩311

2011年04月12日 22時06分37秒 | 政治論
 何かが錯綜し混乱し何かがドサクサまぎれに動き出そうとしているという現状に今沖縄はある。被災地で「トモダチ」作戦とやら大いに活躍している日米の軍隊はよく考えるまでもなく「日米同盟」の人情的解釈からすれば当然以下の救援活動を展開していると誰かが思っても実情にそう遠くはないだろう。どこかの阿呆が北や中国など共産勢力が日本始めアジアを席巻しようと戦争準備しているなどと煽っているがその前に来た大災害は多くの国民を無残になぎ倒し軍隊など何の抑止にもならずましてあいつらが率先実用化した核の脅威を今まさに拡散しようとしているこの状況でなんで海兵隊抑止力が喧伝されなけりゃならんのだ?大災害だけじゃ済まないので戦争でも始めようというわけか?事ほどさように彼らが謂っていることは盗人猛々しいというに等しい。行き詰った普天間問題を針の穴ほどの可能性から突破できないかとここでも悲惨な人民の境遇も顧みないやからが蔓延っているということらしい。北沢の思惑には実に能無しの政治家根性を見せ付けられたようでホトホトあきれ果てた。「普天間固定化」は彼らの罪過に過ぎずこれをもって辺野古を陥落しようという情けない戦術に傾く岡田なんぞには誰も振り向かないだろう。ともかく今沖縄にドサクサまぎれに誘導されそうな米軍必要論なんていう非論理的なコジツケを決して許してはならない。

詩310

2011年04月12日 14時24分49秒 | 政治論
 レベル7が一体日本国民世界人民にとってどれほどの脅威なのかサッパリわからないにもかかわらずこうした段々にせりあがっていく危険性を目前にした一般民衆の不安とストレス切迫感は、この国と諸外国の原発行政に手を貸したあらゆる政財官学界の殺人的共謀者共の万死に値する不始末と断じて憚るまい。例えば再選された「天罰」都知事が原発の必要悪をいうのならまずは東京都にそれを作れということだし、(沖縄でいえば米軍の必要性をいうのならまずは己の地元に誘致しろということだな)広島長崎の原爆を必要悪といったアメリカは(戦争もおれたちのは正義の戦争だといった!!)、まあいいたいように謂わせとけ。彼らの中のクリスチャンとしての自家撞着を傍観するだけさ。日本沈没が物心両面でいよいよ現実化し始めた今、あらゆる議論の虚しさばかりが鼻につく。橋下君は東京壊滅を想定しているし、敗戦後の焼け跡のような、大津波の残骸の中に立ち尽くす東北の農漁民は窮迫しながら徐々に共同体的提携への模索を開始しているし、「無政府状態の危機管理」の下にあっては自力で自腹で多くを一から創建していくしかない。これはしかしながら、石原君のいう「一からやり直し」といったアッケラカンとした精神世界には程遠い。必ず官民がいたるところで対立衝突暴発する。つまりは非常事態宣言でなく戒厳令に近かろう。尤も、今や官のお粗末さは目に見えてわかられてしまったのだし、弱体化した官にあっては民が譲歩することもあろうか。いずれにしろ大災害は人災を伴ってこの国を大鉈ふるって改造しようとしている。改造されるべきなのは勿論戦後日本に病魔のように巣食った偏頗な精神のユガミであり、国民を再び戦前の皇国的支配並みの誤った方向へ誘導する右傾化したアナクロニズムであり、「民主主義」「自由」という思想の最も重大な検証を経ない「利己主義と傲慢」に満ちた価値観である。日本の自由主義経済はこの10年ほどで暗礁に乗り上げ、専ら米国頼みに陥った財政軍事教育の基本精神を根底から見直す必要に迫られている。東京大空襲は無辜の民を焦土の中に放り込んだが、GHQの方針は旧大日本帝国官僚の組織的残存に手を貸し、彼らは戦後を生き延びたのだった。つまり「大鉈」は霞ヶ関に振り下ろされるのかなと一瞬思ったりする。誰がそれをするのだろう。ヒトラーから反ユダヤ主義とゲルマニズムをとっぱらった「英雄待望論」になるのかなあ。指導者指導性を欠いた日本の民主主義が結局ただの「烏合の衆」を準備したとしかいいようがない今の民主政権なのだし。(中断)

詩309

2011年04月07日 14時54分25秒 | 政治論
 明治維新が元来支配階級であった下級の武士群から波及し遂行されたことは、この国の近代化が上からの改変という性質を内包した爬行的展開を繰り広げたという評価はすでに歴史学上の常識だが、富国強兵極端な欧化思想など偏頗な文明開化の挙句欧化した当の欧米的価値によりファシズムと評価され「民主主義」と対峙され壊滅すべき敵とみなされ追い込まれ逃げ場を失った結果見事に打ちのめされ飼い馴らされた近代現代日本の視点からだけでなく、例えば「第三国」中国のアジア的近代性への脱皮という、東洋的視点からもその歴史的誤謬を問いただされねばならないような事情にある場合、沖縄が明治政府の廃藩置県によりその近代日本の国家的一員とされたとき日本史における沖縄自身の近代化の内容が問われることになるのは当然であろう。歴史学が史実に則って歴史観を展開する創造的学問であるとするなら、例えば「同化策」、明治政府の戦争に関わった沖縄、皇民化教育、沖縄戦という流れにおいて、如何に日本における沖縄を評価するかという論理展開をしなければ一切の議論は遊び(すさび)にすぎないわけだ。「同化策」は沖縄自身の功罪だがそれを始めたのはまぎれもなく明治政府の「琉球処分」である。奇妙なことだがこの無血戦争は対等な敵同士の戦闘ではなく明治政府の「囲い込み」という実質に極限する結果となったといわざるを得ない。やや精神的に過ぎる抵抗はあったものの琉球は日本国に強制的に組み込まれたのだ。この事実は近代日本がこの一地方に対してその後繰り返した多くの罪過の発端であり、因源であり、沖縄戦にみる悲惨で黙視できない住民虐待に決着する動機そのものといえる。いうならば琉球処分は、日本の近代化の奇形性が沖縄において具現化した非常に不幸で堪忍ならざる行為であった。しかしながら今日沖縄は最も基本的な開化の結果として日本人であることに充足したのであり、独立も中国朝貢も現実的議題ではない。問題はいつも琉球処分に始まった、この国と沖縄の非対称性であり差別的現状であり、その最たるものが米軍基地に象徴されるこの国の対米追随根性であり、その一切の薄汚い掃き溜め的処遇として偏在する米軍基地被害公害ということになる。(中断)

詩308

2011年04月06日 08時28分31秒 | 政治論
 この国の向かう先が相変わらぬ対米追随アンチスピリチュアルな「自由民主主義」に定まっていることは今更謂わずともよい。恐らく己がつらと姿に気づき慙愧して狼狽するには半世紀以上を要するだろう。衆愚の極みは如何に真実を最善の解答に確定しようが多数決の原理においては残念ながら永久に最善より現状を選ぶことだ。この多数決の原理はある種の権力者などには実に都合のよい権力の巣窟保全機能といえる。ここでは最もわかりやすい正義が「過激」であり、例えば「一足す一は2」が2.15くらいになるのだし、もっと単純にいうと、「公」という安全地帯が明らかに「私」の殺人を無罪とするのにためらいはしないというわけだ。かくして人は気づく。こうした国家的国際的不条理を統括しない国際的安全保障などないと。だから人民は名誉ある孤立を覚悟する。むしろあらゆる外力が強制的に人民をそこへ誘導する。今この国にあるこうした決定的な境遇が果たして人民の決定的な意思確定状況足るかといえば否というしかないが、共同体幻想をも打ち破る沖縄でいう「ユイマール」は精神として昭和30年代当時まで回復できるかどうか、少なくとも政治や政党政治家にはなんの希望も見出せないが、民衆の中に落ちたかもしれない種は必ず芽を出すと確信する。

詩307

2011年04月05日 16時22分11秒 | 政治論
 議論のための議論、反対のための反論、論理的展開をしない戯言、こういう無駄な女々しい机上の空論に付き合っている暇はない。要は自民政権時に旧帝国体質官僚共が決して日本再建方向に見合ったわけでない一切の誤った施策に大きく関与しつつこの戦後日本を牛耳ったばかりか今やこいつらがでっちあげた様々の文教財政軍事政策の無様な結果が露骨に国民を窮地へ追いやっているという由々しき事態なのだ。一切は馬鹿政治家共がおのれの本分を見失い、最も傾注すべき細心にして大胆な国家施策の方向性を一度として自分の手で決定付けようとしないそのていたらくだ。そしてこの作動しない国家ダイナモのまえでトンチキ共はアメリカ様をご本尊に押戴いてああでもないこうでもないとくだらぬ政局論やら愚にもつかぬ目先の政権闘争、挙句は素人にさえ可能な単純解決策の実行にも教科書的幼稚な対応しか思い浮かばない「頭の悪さ」である。勿論「保守停滞主義」者どもの威張り腐ったにやけたふんぞり返りも我慢ならないが、こいつらなどはまずはどうでもよい。まずは戦後日本をその精神において堕落させ機能不全を招来させた日米軍事同盟を破棄し、国家防衛と国家保全と国民主権の本質的実効性を検証し、政治家も官僚も有識者もない、ただ常に最も人民のために有益となる計算された正確な政策立案のみを目指す会議を立ち上げることだ。そうした草の根人民会議を今すぐにあの震災の瓦礫と破壊されつくした集落のなかに実現すべきだ。そして西日本以南のあらゆる自治体が東で回転を始めた相互扶助精神に賛助し大きな国民のうねりと化すべく行動を開始するがいい。それをしもなにかしら揶揄するこの国の腐った偽善者どもには鉄拳を食らわすがいい。

詩306

2011年04月03日 15時18分34秒 | 政治論
 我々が直面している現在の日本の状況がデスパレートな状況であることは間違いない。誰も東京首都圏大震災が間近と予感しないものはいない。中国北朝鮮テロ脅威よりはるかに現実味を帯びていることに注意しなければならない。一方はある程度の国際社会の抑制機能と、期待はできないが信頼はできる人間の理性により外交的に食い止めることができる相手であるし、元来アメリカ覇権主義主導の仮想敵にすぎないから、日本独自の視点さえ確保できるならまずは過剰な反応に歯止めを加えることは可能だ。しかるに原発という性急過ぎた文明歩調の鬼っこは一般住民には到底受け入れられない恐るべき危険物件でありこの東日本大震災によって不幸で愚劣で情けない実態が白日の下に曝されたことはさすがの推進派も認めないわけにはいかないだろう。原発行政などという妻妾同居の醜悪な政治とは手を切ることだ。元々アメリカがためらいもなく落とした原爆に対して怒り心頭に発して当然なのにかかわらず、その張本人のアメリカ「思いやり予算」はこのドサクサに一気に予算化しやがった。まさに「馬鹿につける薬はない」。戦争の脅威とはなにか。アメリカのどこにこの国を国際的孤立へ誘導する陰謀があるのか。何ゆえにすでに凋落の兆しさえある他国の軍隊頼みを国税を駆使して続行するのか。見えてこないこの国の現今政権の方向性を被災地の人々は複雑な感情と乱れる生活への不安感のなかで大変な不幸感とともにむなしく眺めるしかない。政治への絶望はしかし人民の最後の落城ではない。歴史は必ずこのような無様な政治家どもをあざ笑い人々は手探りででも一歩目を刻む。いずれにしろ寄らば大樹の政治家がアメリカに尻尾を振り続ける事実には無際限な阿呆さを見るばかりだ。「神の業」は見えないものにはやはりただの事象にすぎず、見えるものにはハッキリと確信を与えたということか。彼もまた多くの盲目な群れにあって右往左往しているにすぎないのだが。