沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩315 その5

2011年04月24日 18時58分04秒 | 政治論
 沖縄戦の本質は「天皇問題」ということになる。「天皇問題」の本質は民俗学的問題であり、「天皇」が民衆にとっていかなる存在かを問うことだ。この場合民衆側の視点は「天皇」が皇居におわす特殊な日本人ということにあるのでなく「神のように」有難く常に心理周辺に漂うようなある超日本人的性格の「いわしの頭だがいわしでないもの」として認識されるものかどうかだ。彼はアメリカ人始めヨーロッパがキリスト教の「愛」を言う傍ら人殺し是認戦争をする矛盾を矛盾としない現実主義とは何かと考える。これはつまり「目には目を」の現実主義、復讐のためには手段を選ばない「対テロ戦争」であり心理学的には単なる逆上だが、国家がする明瞭な「平和に対する罪」の一種だ。彼らは自身の罪過を決して認めない。そして相変わらず「神」に祈る。人を殺した同じ手で。かれらの天衣無縫な楽天主義を日本人は決して受け入れられまい。恐らくは日本人の生活感覚が彼らよりもはるかに微妙に働くからだ。したがって天皇に関しても「いわく謂いがたい」何かによって微妙に関わっているのであろう。歴史的には(史料的には)1500年程度の間変わらずあった天皇という存在は近代化においても英国風立憲君主並みに生き続けたと謂えば誰でもそのレーゾンデートルを検証したくなろう。そういうものなのだが、近代個人主義はこうした微妙な存在に対しても微妙にバランスを取って対応する知恵を身に付けようとした。何故そうなったかといえばかかる微妙なアンタッチャブルな存在は一旦国家的に利用されると途端に機械的になし崩しに強制的に国民を心理的圧迫と脅迫的概念へ導く存在に変貌し最早あらゆる合理的思考を停止させる結果となるからだ。最もこれは一般的には戦後的理性だ。戦前も戦中も多くの国民は半ば無反省にこの存在の政治的欺瞞を盲目に受け入れた。(中断)

詩315 その4

2011年04月24日 09時45分32秒 | 政治論
 問題を整理すると、明治維新が持つ致命的性格である「旧支配階級-武士階級の下層部分-による上からの改革」と「王政復古という名のアナクロニズム」(権力実体のない権力媒体の絶対的成立)から出発した「近代日本」は「封建制」の持つ弊害の打破(四民平等、身分制廃止、職業選択の自由、等)を通じて徐々にその改革の実を挙げながらも、一方で「欧化」という欧米同化策が「伝統」文化思潮の衰退消滅を加速し、例えば夏目漱石の文学に追究された「個人」と「国家」の相克にみる自己矛盾分裂破綻という精神の闇を助長し(啄木の所謂「時代閉塞」)、「理性の無力」という悲劇的自己批判に潰えた芥川龍之介に至って、時代は「富国強兵」「殖産興業」が当然に帰結するところの戦争へとひた走る。東京裁判は「文民統制」が機能しなかった政府の罪過につきただ一人文官から広田弘毅に絞首刑を宣告した。吼える獅子キーナンでさえこれを量刑間違いと指摘しているが外交官であり外務大臣経験もある彼が首相時に軍部の独走を回避できなかった無力さは万死に値するという評もあるにはある。彼の弁明が一切なかったために逆に国家非常時の文官の責任の所在が後世に教示されなかったという禍根はあるようだ。但し彼の思潮に右翼的傾向がなかったわけでなくむしろ「黙認」という安全地帯の軍拡推進者だったかもしれない。いずれにしろシビリアンコントロールは機能せずに軍部は独走し内閣の一角を占めるにいたり、日本は打ちてし止まんの戦時体制一色となっていく。当然ながら軍隊は平和使節ではないし相手を殺すことが職務である。この思潮を突き詰めれば人類滅亡を企図するということになる。何のために?原爆に手を染めた人類は「平和利用」という名の核生き残りを図った結果原子力に関わる致命的な事故を頻発しやがて自分の首を絞めることにも見切り発進することになろう。世界史におけるシビリアンコントロールは残念ながら多くの欺瞞に満ちた内実の、アメリカ主導のコジツケでしかなく、到底評価できないものがある。こういう、決して本質的に連携しない世界の動向にグローバリズムと称して国際派を気取って見せても袈裟の下の鎧は誰でも見透かされている。物量と人的資源に任せて強行されてきたアメリカ世界制覇計画は自国の財政危機と共に縮減せざるを得まい。
 さていきなり天皇問題だが「いわしの頭も信心から」の伝でいけば日本人の信仰心における「無神論」的「汎神論」のひとつの伝統的な表現形態に偶然現れた神輿として主に上流階級の思潮にあった建国神話観から発祥したらしい天皇氏族にまつわる神話的伝承文化が専ら貴族的放恣に依拠する実質で日本史の内に根付いたのだった。民衆は恐らく基本的には「汎神論」に近く自然神崇拝の延長上に偶像崇拝せず固定化しない一種の信仰生活を育んだものと思われる。仏教もキリスト教も勿論決定的な影響力はなかった。時の権力者がこれらを利用し弾圧した歴史は少なくとも近代以前は民衆に深く関わることもなかった(勿論例外はある)。ところで皇民化教育の成果とはいえマインドコントロールされた日本人が「天皇神格化」に加担し表面的にはあらゆる「天皇のため」的行為を率先実行した近代史が戦争そのものの元凶かどうかはわからない。封建的滅私奉公の心理と「忠心」の奨励乃至美化は王政復古というアナクロニズムの罪過であり爬行的近代化の証明だ。しかしながら特攻隊員の真情を慮るとき彼らが「天皇陛下万歳」を叫ぶことはなかったという事実から、国策としてあった「天皇絶対崇拝」の強権的押し付けは一種の脅迫概念としてのみあったのであろう。沖縄戦での「集団強制死」は本土でも起こりえたかという疑念がある。ここに沖縄の近代化の特殊性は見えるが「天皇問題」は沖縄戦では決定的だったというしかない。(中断)