平成23年(2011年)3月11日午後2時ごろ東北地方を襲った大地震はやがて巨大津波を引き起こし三陸宮城福島北関東の東海岸に山となって押し寄せ忽ち日本中を恐怖と悲しみと苦痛のどん底に突き落とした。今なお被災地には本震並みの余震が断続的に起こり人々の心臓と血管を痛撃して止まない。「神も仏もあるものか」どうして「天」はいつも権力のとりでにはさしたる被害を及ぼさないのだろうか。何故弱者にのみ決定的徹底的に現象するのだろうか。生活の基盤を根こそぎ奪われ、今後の保証は一切なく瓦礫の中に呆然と立ち尽くす哀れな境涯を誰が救えるのか。あまつさえ大津波に破壊された福島の原子力発電所はいつ収束するとも知れない無際限の恐怖を世界中にばら撒き、福島は無論のこと北関東の農漁民の活計の手段を奪い取り、今後益々競りあがる危険性との直面を余儀なくされている。今更こうした惨状の責任を問うたところで「神」も政府も資本家も何も決して応えることはないのだが、腹の底には怒りのマグマが沸々と煮えたぎっており、地団太踏む思いを如何ともしがたい。人間にとって忘れたころにやってくる天災を憎悪する気にはなれないが最愛の肉親をムザムザ奪われ係累を殺される人々にとっては怒りとも憎しみとも後悔ともつかぬ複雑だがはっきりした悲しみだけはいやでもついてくるに違いない。しかしながら湧き上がり抑えようもない感情のなかにはささやかながらもいくつかの笑いや扶助し合う心地よさもないわけではない。掛け値なしのこうしたコミュニティの持つ本来的な全人性は元々人間が群落のなかで培ったであろういわく言いがたい「人の手のぬくもり」なのかもしれない。そうだ、ここからしか動かない人間の生活というものがある。ここにだけあったフル回転の人生というものを、図らずも大災害が揺り起こそうとしている。「神」は一体何を企図してこの惨たらしい地獄絵に人々を引きずり落としたのか。今、宇宙や世界は人間に何を伝えようとしているのか。精神や霊魂が存在するのなら今まさに命がけでこうした問いに向き合うべきではないか。とはいえ日々の暮らしの生々しいヤリクリ、苦労、不足がちな物資食料、をなんとかしなけりゃ、生きた心地もしないのだ。