「近代的開明」という視点からすれば、アジアはヨーロッパによってその頑迷な封建的根性の惰眠から叩き起こされ、無理やり、広い世界史の中の近代的展開と革新的変貌の必要性につき覚醒を促され、混乱、錯綜、自覚、行動、という段階を経てその歴史的転換に辿り着いたことになる。だがこれは欧米史観であり都合のよい弁明にすぎないので、世界史の最も正確な定義を追究するならアジアは欧米列強の帝国主義的侵略に対する抵抗闘争脱却の人民的展開の末、彼らから国土と民族を奪取しこれら一切の闘争を通じて自らの近代的脱皮に成功したのである。しかしながら日本はたった数年間のすったもんだの末黒船の脅威に気圧されながら開国し、下級ながら支配階級だった若い武士たちによって出身階級の解体運動に奔走大政奉還させ王政復古するという、アジアにあっては特殊な近代化の道を辿り始めた。この王政復古という、岩倉らの政治的「大号令」宣言が実質的効力として王権を復活させたわけでないのは当然だが、例えば幕府が黒船来航時に国家としての外交的主体を朝廷に依拠した事実は、時の権力者の本質的主体性又は自律性が所詮他力本願であることを示し、この精神構造は結局責任回避にのみ長けた日本の国家権力の正体を意味しているような気がされる。つまりはこの国の実質的権力主体が国民の手にない、歴史的には民衆の手を経ない近代化の弊害が不気味な危険性の浸潤を惹起しているということだ。東日本大震災及び原発事故における国家的狼狽はこの辺からも想像できよう。ある意味この国が独裁者を排除する基本的消極的心情性格を古来から有しながら一方で大事における勇断の気力に欠け、衆愚的に混乱愚策に走るという、国民が一身を託すには余りに不甲斐ない実態にあるというしかない。先の大戦を総括するにこの戦争は決して民主主義対全体主義ではなく(ナチスドイツの国家的集団犯罪とは意味が違う)政治的無責任国家対普通の近代国家という括りだ。日本はその近代化において決定的に錯誤した。(中断)