明治維新が元来支配階級であった下級の武士群から波及し遂行されたことは、この国の近代化が上からの改変という性質を内包した爬行的展開を繰り広げたという評価はすでに歴史学上の常識だが、富国強兵極端な欧化思想など偏頗な文明開化の挙句欧化した当の欧米的価値によりファシズムと評価され「民主主義」と対峙され壊滅すべき敵とみなされ追い込まれ逃げ場を失った結果見事に打ちのめされ飼い馴らされた近代現代日本の視点からだけでなく、例えば「第三国」中国のアジア的近代性への脱皮という、東洋的視点からもその歴史的誤謬を問いただされねばならないような事情にある場合、沖縄が明治政府の廃藩置県によりその近代日本の国家的一員とされたとき日本史における沖縄自身の近代化の内容が問われることになるのは当然であろう。歴史学が史実に則って歴史観を展開する創造的学問であるとするなら、例えば「同化策」、明治政府の戦争に関わった沖縄、皇民化教育、沖縄戦という流れにおいて、如何に日本における沖縄を評価するかという論理展開をしなければ一切の議論は遊び(すさび)にすぎないわけだ。「同化策」は沖縄自身の功罪だがそれを始めたのはまぎれもなく明治政府の「琉球処分」である。奇妙なことだがこの無血戦争は対等な敵同士の戦闘ではなく明治政府の「囲い込み」という実質に極限する結果となったといわざるを得ない。やや精神的に過ぎる抵抗はあったものの琉球は日本国に強制的に組み込まれたのだ。この事実は近代日本がこの一地方に対してその後繰り返した多くの罪過の発端であり、因源であり、沖縄戦にみる悲惨で黙視できない住民虐待に決着する動機そのものといえる。いうならば琉球処分は、日本の近代化の奇形性が沖縄において具現化した非常に不幸で堪忍ならざる行為であった。しかしながら今日沖縄は最も基本的な開化の結果として日本人であることに充足したのであり、独立も中国朝貢も現実的議題ではない。問題はいつも琉球処分に始まった、この国と沖縄の非対称性であり差別的現状であり、その最たるものが米軍基地に象徴されるこの国の対米追随根性であり、その一切の薄汚い掃き溜め的処遇として偏在する米軍基地被害公害ということになる。(中断)