沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩315 その8

2011年04月27日 10時11分15秒 | 政治論
 世界史がファシズム対民主主義からコミュニズム対カソリシズムへ、更に現代的にはどこに対立軸をみるかということになる。しかしながら残念なことに近現代史においてこうした対立的歴史観を単純に措定しても少しも判然しない複相的要素が至る所に散見され、高校教科書的分類のいかに機械的かを思い知らされる。専らゲルマンドイツを巡る二つの大戦がさながら枢軸国日独伊の画策された謀略のごとくファシズムに括られた欧米史観はまさに都合のよい原理主義であり、ふたつの軍事裁判の内実は到底世界史的意義のある理念的価値観を示さなかった。ここを見誤ってはいけない。日本は国際社会のなかで欺瞞に満ちた連合国の「提携」により形成された戦後体制により単なる「敗戦国」としてのみ出発させられ、敗戦総括も覚束ぬままアメリカ世界制覇計画と軍事費捻出の片棒を担がされその圧倒的支配下におかれ戦後66年を過ごしたのだ。今後日米軍事同盟が解かれない限り日本は永久に「敗戦国」の憂き目だけを味わうことになる。それは欧米主体の世界史においては彼らの思う壺なのだが、ただ多くのアジアの独立国が欧米侵略の歴史に楔を打ち戦後次々とかかる支配力から脱出していったのをみると希望はただ、アジア東洋の世界史観を打ち立てたときには同じアジアの日本にも可能性が残されているかもしれないということだ。これはしかし戦後政治が陥った功利的国策的官僚主導の誤った非理念的な「自由民主主義」ではだめなのだ。十分に検証され試行され確認された確固とした理念、に基づく国民の国民による国民のための政治を実現しない限り救われない。(中断)