日本人が素通りしているのは近代日本の国家的国際的検証の1点だ。明治維新が徳川封建体制を瓦解させ日本が国家としていうところの近代化に成功したことは歴史学的にも評価されるし維新の偉人たちにけちを付けるが物ではない。問題は王政復古という実質が真に日本人の内に存在したのかどうかだが、例えば中国は最後の西太后をもって旧権力の一切を放逐し、と同時に外民族支配から脱却し、更に欧米列強の侵略干渉を徐々に打ち破り人民の共和国をともかく打ち立てた。その後の歩みを十全に許容する気はないが、この場合比較近代化評価という1点からいうと日本の近代化は王政復古なる旧権力実質の復活という時代錯誤を犯したのではないか、もしくはここにも従属的精神傾向を見るのは早計か、このことは徳川幕府が所謂陽尊陰卑(表面上尊重するが実質は傀儡)をもって扱った京都公家勢力という事実からも伺えるように、日本人の悪癖とでも言おうか、少なくとも先の大戦がもたらした(とりわけ沖縄戦に如実に現れた)皇民化教育の罪過の因源となったことは事実であろう。そして国際慣習常識に照らしたとき国民主権の実質的実現が天皇制によって明瞭に疎外された歴史的事実を隠蔽した東京裁判は明らかに日本人の精神的錯綜を助長したといえる。一方天皇制という制度としてではなく(「象徴」などという曖昧なものとしてではなく)法文化しない日本人における天皇の存在意義の実質的評価をすることは意外に重要な事案である。東京裁判が極めて政治的で「見せしめ」的で報復的なことはすでに多くの証言から明らかだが、この裁判をもってして日本が自身で本質的に近代日本を検証したことにはならないと戦後の日本人は自覚しなければならない。とりわけ若い世代を中心にこのことを徹底的に掘り下げなければ日本の真の未来は開かれないのだ。戦後66年の時間経過は近代日本の総ざらえという精神的文化的オーバーホ-ルが受容できる(国際的対外的に)ものと受け取るべきだ。(中断)