この国のことは曖昧さにおいて妥結するような風情で大方は経過していく。辺野古のことはこの国の国情、国民性、あるいは21世紀的現代的な落としどころのなさ、を示しているようだ。国家に関する安倍晋三の思惑は恐らくは中途で挫折するだろう。あれは余りに明治維新以来の大日本帝国近似現象表出においてアナクロニックにしか見えないのである。三権は分立せず自由采配を奪われて翼賛化し、メデアマスコミも密かにあるいはあからさまに圧力をかけられ、ジャーナリズムは批判的報道理念がトーンダウンし始めている。内閣と閣議が全体主義的にトップダウンの国策に権力を集中させている。言って見れば辺野古のことは安倍晋三が直接指揮しているのと変わりはなく、海保も県警も安倍晋三の命令通りに動いているのである。従って、菅は安倍のオウムだし防衛局は「お答えできかねます」程度の責任しか持ってない。こうした在り様にたまりかねて国家公務員労組は辺野古ゲート前24時間監視体制を「過剰警備」として撤回せよと要求している。つまり職員は県民市民との対立を望まないのにこれを強いられている、という状況に極度のストレスを抱え込まされている、ということだ。
復古主義が一概に悪いとは言えない(ルネサンスはまさに人間復興を旗印とした)が、明治維新が「王政復古」とは言い条、明治天皇親政の実(じつ)はこの天皇の崩御をもって維新の大義を全うしたことになるわけで、実際上は藩閥新政府の独壇場で経移したというのが真相だった。つまり王政は形式的に復古したのであって、事実上政治も国策も旧支配階級の有力者が欧米風「近代化」を模して「立憲君主制」ではなく「立憲議院内閣制」の新しい幕藩体制を構築する流れであった。曲がりなりにも「近代化」は成ったが、その内容は決して民衆、大衆、民本的には自然的有力性を備えずにむしろ旧体制側の権力構造において特権的に支配されていたものだ。この近代化が負った当然の悪弊は昭和に入って急速にこの国を一方へ偏向させていく。2.26事件が持つ象徴的な意味は、結局権力を握り始めた軍部においてさえ、近代化から置いて行かれた民本救済の義憤が滾っていたということになるが、ここでも皇道派にあっては特権的な士官将校クラスが「上から目線」で農村の惨状を眺めた結果で、決してこれが大きな理念的うねりを形成することなく所詮は陸軍内部の政治的勢力争いに利用されただけではあった。
欠けているのは常に民衆、である。
安倍政権が間違っているのは、大戦前に復古することがこの国の栄光を取り戻すことではなく、この国の維新以来の近代化のあゆみと同じような、「民意」に添わない偏向した国策によって国際的に孤立し、最終的に大衆の支持を失い瓦解するということだ。
辺野古のことはこの安倍晋三の国策姿勢の文脈で見ておく必要がある。(つづく)