沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩589 「沖縄問題」という問題 5

2015年04月06日 09時24分58秒 | 政治論

 我々に関係しない頭越しの机上の想定に基づく様々な画策の内、国家政府がやろうとしていること一切は不可知(戦略的に理解すべからざるもの)なものとしてあり、そのうちのひとつには、沖縄の負担軽減と言いながら普天間飛行場を沖縄県に返還するのに何故同じ沖縄県内の辺野古に一大新軍事基地を拵えなければならないのか、全く理解できない、ということにある。これに対して政府関係者はじめ多くのよくわからない人々が口々に述べ立てたところは、やれ「抑止力」、やれ「地政学」、やれ「何だったっけ?」、やれ対中脅威、北朝鮮警戒などと彼ら自身にさえわからないことだったのだが、とうとう最後に言い始めたのが本土(ヤマトゥ)では基地を受け入れがたいというだけの「政治的な理由」なのだそうだ。

 このことを島尻安伊子自民県連会長がいみじくも言い放ったところは「住民運動に気圧されることなく政治として対峙する」というのだった。これを正確に理解できる脳というのは豆腐みたいなものであろう。

 この間の事情を理解することは簡単だ。要は、上記案件は政治家あるいは自民党の政治家又は政権内政治家が住民の意思に関係なく勝手に決めたところを推し進めるということであり、したがって当然住民が納得するはずもなく、又、納得させられるだけの正当な理由は初めから全く存在しない、ということを彼ら自身が白状したわけだ。そして「対峙」という文言に明瞭に含まれる正体こそ、「国家的な弾圧、市民排除行為」を治安維持法的に断行する、という国家意思、あるいは政権方針又は安倍晋三独裁体制そのものとして確認しておかねばならないのだ。この確認から戦略的に言えることは、事ここに至ってこの事案は確実に反動に属し、民主政への挑戦又は欺罔的例外のでっち上げという、驚くべき国家犯罪だということ。彼らの今後やることは結局、国民の目から如何にこの真相を隠し通し、既成事実を積み上げ、辺野古崎海域に他県から運び込んだ得体の知れぬ土砂をぶち込むか、だ。彼らの脳髄に組み込まれているのは、如何にしてもその軛から逃れ得ようもない米国という存在への無限投資であり、「奴隷」然とむしろ積極的に進んで尻尾を振りその凋落気味の覇権主義に追随するという至上命令である。この至上命令は一体どこから来たのであろうか。

 その大元は吉田ドクトリン(国防軽負担経済復興優先)だが、この伝でいくとこの国は敗戦国処遇という自身の境遇から70年経た今も新たな未来へ一歩も踏み出せず、安倍晋三自身が言う「戦後レジーム」の木乃伊取りが木乃伊になるまさにその張本人に成り下がった、ということでしかない。

 このドクトリンの功罪は高度経済成長とバブルの崩壊、そして中国に追い抜かれた現在、という実態から、その役目を完全に終えたどころかこれから脱却しなければ鎖国でもしない限り到底日本人としてアイデンティティを確認できはしないということがわかろう。

 彼らの辺野古への米軍新基地建設は間違っている。間違いをそうでないように持っていこうとするヤマトゥ政府の嘘八百に付き合っている暇はない。沖縄県は金輪際、ヤマトゥの「捨石」「「太平洋の要石」「防波堤」になってはならない。それを許せばこの国の国民の為にもならない。言って見れば沖縄の闘いは単独の孤立した個別的なものではなく、全世界が注目している普遍的な闘いなのだ。(まだまだつづく)