沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩591 辺野古のこと 2

2015年04月27日 08時41分24秒 | 政治論

 安倍晋三も菅義偉もその言動に一頃の威勢が若干失せた感があり、この跳ねっ帰り内閣が当然に辿る自滅的失墜の一本道の見えてきた気配は、ややもすればぬか喜びさえ喚起しないものでもないようなのだが、戦略的精神的「琉球独立」の民族自決気運は県内各自治体でいや増しに高まってきているというような状況にある、というのは、勿論俗流政治論的な意味でのありきたりな「夢物語」のこころみではない。

 今、安倍晋三独裁政治家が目指している大日本帝国復活の手の込んだ仕掛けは、その見るからに単純そうなアプローチに似合わず、極めて実現性の高い手法で全体主義の世界観に基づきほぼ犯罪一歩手前の、法律ぎりぎりのところで、瑕疵を巧みに糊塗しながら、体制影響力希薄な民意は徹底的に無視し、戦後民主主義の完全な形骸化を図りつつ、凡そ知性や学識、見識、実証性、論理性、倫理的なものとは完全に縁を切って、只管に(彼らの言う粛々と)かつての地獄門へ急迫していると言える。

 このためにこそ、琉球沖縄が抱え込まされた、普天間返還という一事のためにスッタモンダしている日米政府の「植民地主義」公害に、身を賭して立ち向かわざるを得ず、図らずもこの反基地行動が見据えている精神性の裡に「琉球の独立」という新たな現実的要請が芽生え始めている、ということだ。しかし現段階では県民の内面にこれが根を下ろす気配はない。この、琉球独立という具体的な政治的課題がクリアされるのは飽くまで流動的な時代的偶成であり、必ずしも直ちにそのための「島ぐるみ闘争」へ直結するものではない。しかしながら、現今安倍政権が民意を踏みにじりつつ実行している辺野古移設蛮行は、戦後「祖国復帰運動」の島ぐるみ闘争が轟然たる爆発的エネルギーとなって噴出したあの時季の米国政府対応とうり二つの圧力暴力圧政となっている事実には既に県民殆どが憤激しているところであり、これが県内各地での自治体ぐるみの反対運動を激化させていることに、「琉球独立」現実化への道が見えてくる可能性が出てきた、ということになる。

 何故あの返還前島ぐるみは日本国への従属を準備してしまったのか。むしろ中国でもよかったのではないか。そこでは琉球国の本来的な政治的バランスが朝貢、冊封、の習い性となって純然たる「独立心」を阻害したともいえるのではないか。逆に言えば所詮弱小民族の武断的無力意識に気圧されて本来あるべき精神的な意味の「独立心」を達成してなかったのではないか。瀬長亀治郎はそのため日本国復帰を暫定的に肯んじるしかなかったのだが、さて、こうした精神的なカテゴリーで捉えられた「独立心」というのは、時と場合によっていきなり発生するものではなく、元々、錬成鍛錬熟成させるべきものであり、その機会がこの普天間問題において与えられている、と考えるべき、と推察する。筆者は移住者だが、現今の煮え切らぬオキナワ的不如意のためにヤマトゥでは絶えてなかった百年の敵に遭遇したような気分に駆られている。そして、この気持ちが県民のうちにはどのように受け止められ、どうしようとしているかを知りたいと思う。移住者の筆者でさえ、安倍政権が我々の目の当たりにさせる沖縄の現状には耐え難い屈辱感をおぼえ、戦後保守政権が牙城を設え既得の権益にどっぷり浸って辺地過疎地僻遠地を蔑ろにしてきたその堕落した国政に鉄槌を下したいと切に願う。(つづく)