沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩589 「沖縄問題」という問題 2

2015年04月03日 14時50分35秒 | 政治論

 菅官房来県、翁長知事との会談、なんてのには何の関心もない(彼らが自ら言っていたように辺野古移設反対の翁長知事と何の話をするというのか、全く無駄なことだ)が、知事の言う、沖縄県の意思をはっきりと伝える、という姿勢には何の問題もない、と言える。現代世界史という場にこれ(沖縄問題)を投げ込めば、安倍晋三菅官房らの言い分には何らの正当性もないことは誰の目にも明らかだ。とは言え、この国においてはこの世界常識がまともに通用するような「民主的合理性」という地盤に欠ける国民性にあるので、相変わらず米国傀儡の国情に丸め込まれて無知無関心無責任な政治状況と共に奇妙な「沈黙」へ逃避するがおちだ。

 沖縄県は今、ある意味ではかつてない虚無主義に包まれているかも知らない(ユイマールとイチャリバチョーデーの邦なのに?)。60年安保闘争の渦中、官邸でその喧噪?を聞きながら定めし岸信介はどこまでも「小さなニヒリスト」であっただろうと三島由紀夫は書いているが、菅などの見せる「粛々と」姿勢には悪意さえ感じられ、この官房のニヒリズムに対しては「憎しみ」に近い感情が湧いてくる。恐らくこういう県民感情はあのコザ暴動で見たような憤激を伴って、確実に意思統一された一つのエネルギーとして噴出するのが自然な気がされる(その意味では近代民衆運動の最も理想的な形質をコザ暴動は証明して見せた)。しかし今、日米政府の致命的な落ち度や米軍米兵の不始末が齎すのは「暴発」ではなく、確固とした「独立精神」に基づく「離反」「分離」「民族自決的最後通牒」というものでなくてはならない。琉球沖縄においては、既にヤマトゥ的なものへの「同化」を誘発するような、琉球処分時の混沌とした精神状況とは縁がない。この対日的価値観の崩壊は、自民政権の強硬姿勢が図らずも招いた自爆的な現象にすぎず、古琉球以来伝統的に息づいてきた琉球アイデンティティのたゆまずに横溢する文化的生命力に「チルダイ」する気配は微塵もなかったのだ。

 県警や海保の組織暴力は見るから脅迫的恫喝的傾向を示している(大概の暴力的排除などは司法が堕落しているこの国では必ず不起訴となる)。これも、正確には、個人の自由思考を遮断する上意下達の指揮命令系統にあって、トップの安倍晋三がどんな極悪人でも(ヒトラー並の)、あるいは殺せという命令でも、これに従うべく機械的にコントロールされた職員には到底批判的に不服従の抵抗をするよすがはない。これが国家犯罪、あるいは一般に国家的な弾圧行為と言われる暴力の極めて由々しき温床であり手段と化している。米軍の志願兵は大抵貧民層出身であり、中流以下の階層では結局「食うために」仕方なく軍隊に入るという。そして彼らの生育環境では日々暴力殺人放火など劣悪犯罪に日常的に取り囲まれ、被害感情を醸成し、かつ殺人志向に至る者が大半だという。国は彼らの「殺したい」という無意識の欲求を利用するのである。ある意味、県警や海保の職員は国家の機械的利用手段にすぎず、この事実を認識しない限り彼らの中から「造反者」を出すのは容易ではない。現在辺野古で連日繰り広げられている愚かしい人間対人間の闘争は、彼らが信じ込まされた「粛々たる職務」に忠実なために行われているのであり、現代世界史の場に突き出されれば直ちにその愚行さ加減に気づこうというものなのだ。(まだまだつづく)