沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩590 日本という国 3 ヤマトゥとウチナー3

2015年04月21日 20時16分13秒 | 政治論

 現代日本の右翼、国粋主義系軍国主義は、基本的に女性的な思考法を旨とするように見掛ける。かといってフェミニストかと言えばそうではない。彼らが必ずいう「何何脅威」というのは単なる煽情的文言ではなく、彼ら自身身の危険に晒されている、という意識にあるから出てくるのだと思われる。身の危険、というのは大概「夜道の女の独り歩き」というようなあけすけな直接的状況に際して使われる文言に違いない。つまり夜道を女性が一人で歩かなければならないような重大な用件を、彼女に押し付ける誰か、が間違っているのであろう。危険を感じるなら「夜道」を避け、一人でそこを歩くことをせず、頼まれてもそういう用事を果たそうと思わなければよい。これで彼女の脅威は直接的には解消する。さて、次は家にいて起こる泥棒対策だ。三面記事には女性の一人暮らしが襲われるというような、住居自体が彼女を守護し切れない事情による犯罪事件があふれている。ではどうするのか。女子の体力筋力では抗しきれない圧倒的な暴力には、同様な対抗的暴力で戦うしかない。どちらにしろ彼女はひとりだ。身を守る為に彼女は相応の手立てを講じるに違いない。多くの場合彼女の対抗行為は正当防衛とされる。ところで、何故それが女性でなければならないのか。この女性は何故ひとりなのか。何故一人で敵と戦わなければならないのか。何故彼女は自分自身のために敵を想定し、敵を倒す手段を講じるような境遇に置かれているのか。抑々、こうした三面記事事件には絶対的な真空に近い「非人間的条件」が重なり合っている、という感じがされる。この、特殊に際立って条件的に組み合わされた「確率」の低い事件のために、この「女性」を国家に置き換え、仮想敵をでっちあげて日本の右翼、国粋的軍国主義者は再軍備、と言っているのか。

 翻って、米国に従属し、「核の傘」という古びた幻想的欺瞞にすがりつき、自己の民が嫌がっている異国の軍隊のために基地を提供し、彼ら米軍が日本人の女子供を守っているなどというあり得ない「空約束」を後生大事に頼んでいる、という国家は確かに「自分で自分を守る」ことをしない情けない女性的な考え方をしているとしか言えない。ところが彼らは決してそういう事実を知らないわけではない。だから、彼らは自分たち乃至米軍が自衛隊が君たち女子供を守っていると女子供に思い込ませるように、言い含める言い方をしていることになる。

 問題は、既得権益とか利権的思惑に絡む軍産複合の矛盾に満ちた国家ぐるみのエゴイズムを、米国は戦後ずっと軍事的に正当化する行軍を続けてきたし日本はこれに全面的に賛同し追随推進してきた、ということにある。

 軍隊というものはその自国の住民にしろ他国の軍隊にしろその民にしろ、基本的にこれを守護しようという仕組みになっていない。何故かというと彼ら兵士は上意下達の指揮命令系統においてしか行動できないからであるし、この機械的にがんじがらめな統制力に抗して目の前の一人の弱者を救護する、という行動ができないようになっているからだ。彼らの任務はできるだけ多くの敵を殺すことである。たとえその命令が住民を守護せよ、というふうに発せられても、それは戦略的作戦上で考慮されたことにすぎず、もしそのために敵に付け込まれたとしたらその軍隊は国家の軍隊ではなくなる。私家兵隊や義勇軍ならまだしも(彼等にはこうした統制的状況が比較的緩いだろうから)、国防軍が様々な軍略的要件に基づいて部隊を展開するという場合に、一人や二人の住民の犠牲を深く考慮するなどということは考えようもないことだ。これらは沖縄県民が沖縄戦でまざまざと経験した軍隊の実相だ。海上保安庁、県警などという現代の公的な「安全第一?」の組織でさえ「自分を守ろうとしている」市民の排除に何らかの暴力をふるうことは既に辺野古で実証済みじゃないか。まして軍隊が自分たちを敵から守る、というような話をまともに聞けると思う方が間違っているといえよう。では軍隊とはいったい何を守っているというのか。国家である。しかしそれは国民国家ではない。国体、と言っていい。兵隊は彼らの脳内に、遠く故郷の係累たちの面影やなにやらを思い浮かべるのだろうが、しかしそれは彼らが闘い守ろうとしている本体ではなく、幻想に基づく感傷であり、彼らのしていることは、訳の分からない国体、という化け物のために命を懸けているということだ。(まだまだつづく)