不信仰の時代には「しるし」は決して与えられないだろう、というのは福音書にあるイエスの言葉だが、では何が示されるのかというとヨナのしるしだという。ヨナという代名詞が指すのは彼ヨナが神の罰により3日3晩魚の肚中にいたことらしい。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8A%E6%9B%B8
3日という符号はイエスが架上に死してのち3日後に甦るという福音書の中心的エピソードに重ねた、ということと解釈されている。つまりイエス自身の運命の予告ということだ。信仰によって与えられるしるし(証明....神の実在の証明)は、その反対のしるしのみであり、完全な信仰が得られるしるしは最終的に復活という現場を見ることに尽きる、ということになる。何故なら、イエスを裏切ったのはまさに彼の弟子ユダであり、彼を十字架に!と叫んだのはその出自たるユダヤの民衆であった。一方この世の権威であったローマが示したのは「この判決に私の責任はない」というピラトのつぶやきであり、誰一人イエスの悲劇を止めることはできなかったのである。これが不信仰の時代が求めて得られる「しるし」であり、完全な信仰のみがその死からの復活の現場に立ち会うということになる。
筆者はクリスチャンではないのだが、芥川龍之介の「西方の人」「続西方の人」に描かれたジーザス・クライストという人には大変に興味が惹かれる。現代は本質的に悲劇の時代である(D・H・ロレンス)。本質的に悲劇的な時代が与えられるのは確かに「平和」でも「正義の実現」でもない。現代人はむしろその反証の場面以外には決して立ち会えないという具合になっている。一体「神」はあの東日本大震災と原発事件を東北の人々に降りかけて何を言おうとしているのだろう。神を信じる信じないは別としてこういう疑問を全く持たない者には何を言っても始まらない。
有権の国民の半数以上が参加しない(投票率 10道県知事選47.14%、41道府県議選45.05%で過去最低)統一地方選挙の結果に、果たして民意は反映されたと言えるのか。組織票がらみで選挙戦略に長けた与党自公政権側が勝利した、と言っても、結局はこの国の国民性を今更に確認するだけの話であろう。敢えて言うならこの投票率が示すのは、自公政権への隠れた反対票が半数以上あるという意味でしかない。しかしもっと言うなら民意はその姿を隠してはいけない、という民衆への警告でもある。民意が隠れれば議席という権力切符が無造作に体制側に付与される、ということだ。ここに民主的合理性の周知徹底が必要な日本的事情がある。単純に言えば「言うべき時に言うべきことを言い続ける」という姿勢が求められる、ということになる。この民主政確保の基本的在り様が示されている国内ただ一つの自治体が沖縄県だと言える。
今日も今日とてそぼ降る雨中に名護市辺野古キャンプシュワブゲート前には移設反対の民意を表現する座り込みが続けられている。かかる現状に眼を向けない為政者に、邪悪な時代の象徴を見るとすれば、彼らが画策する「戦争のできる国」復帰政治こそ我々が叩き潰さなければならない第一の標的であり、その大元たる安倍晋三とその一派には「気違いに刃物」である政権を持続させてはならないのだ。(まだまだつづく)