masaring

自己チューの進行形日記でshow。

盆踊り大会でライブ。

2008年08月15日 | masaringは、芸術家!??

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【家の庭では白とピンクの百日紅が盆踊り。今日も昔の物語。】

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盆踊りは歴史的には村落社会において、夏の夜の
娯楽と村の結束を強める機能的役割を果たしていた。

私の住む地域でも25年位前までは小学校の運動場で
地域の青年団が主催して「盆踊り大会」を開催していた。

もっと遡る。私が子どもの頃は町内会単位で開催。
我が家の二軒先のお寺の境内でも開催されていた。

私が地域の青年団に入った頃は、すでに青年団も
斜陽期に陥っていたが、各小学校単位で開催されていた。

この時期。私たちは毎晩、役員に連れられて各地区の
盆踊り大会の会場へ車で走った。

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「お互い様」とはニュアンスがちょっと違うが、自分の
地域の盆踊り大会にも来てもらうための表敬訪問だ。

もちろん、各地区の青年団員が輪の先頭になって踊り、
青年団員の後を子どもがそして女性層が、さらには

昔とった杵柄とおっちゃん達も輪に入って踊り
踊りの輪は二重・三重と広がり、どの会場も賑やかだった。

私の盆踊り用の青の蝶々柄の浴衣も毎晩大活躍だった。

どの会場でも夕刻からスピーカーで盆踊り曲を流す。
夕闇と共に提灯に灯をともす。開会時刻に主催者の挨拶。

そして踊りの始まり。各地区共踊りの曲は四曲程度だった。
ポピュラーな「炭坑節」で始まり、ご当地「かつらぎ音頭」。
昔から伝わる「やっちょんまかせ」。そして「河内音頭」。

盆踊りは一部と二部があった。一部が終わると休憩。
主催者が参加者にアイスクリームと団扇の振る舞いだ。

久々に会った人達の談笑の輪があちこちに出来た。
そして第二部。終了はどこの地区も午後10時だった。

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昭和52年(1977年)。我が地区の青年団の団長の提案。
「今年の盆踊り大会。何か変わったことしょうらよ!」

その2年前は会が始まるまで、また休憩中も岩崎宏美さんの
発売されたばかりの「ロマンス」を流しつづけ好評だったのだ。

昭和51年に私は結婚した。その頃の常識として、結婚したら
青年団を退団するのだが、どういう訳か私は盆踊り目当てで
まだ活動していたのだ。(家族のブーイングは凄かった。)

そして盆踊りの休憩中のイベントの計画を密かに開始した。
運動場の隅に選果場からリフトでパレットを運び舞台を作り、
バックネットに照明器具を取り付けた。

舞台の上では、「まっちゃんバンド」がフォークギターを
エレキに持ち替えてスタンバイ。メンバーの弟にドラムを頼んだ。

一部が終わった。会場の提灯の灯りが消えた。会場真っ暗。

突然バックネットに用意した照明が一斉に点灯して
「まっちゃんバンド」のライブが始まった。

《当時はライブとは呼ばずコンサートと呼んでいたネ。》

♪渚に揺れながら、、、。みんな唖然としていた。
その間スタッフはアイスと団扇を参加者に振舞った。

わずか15分のライブ。皆さんご存じの「およげたいやきくん」
「ビューティフルサンデー」等を演奏したと記憶している。

そのライブが盛り上がったかどうかは想像にお任せしよう。

それから6年後、我が地区の青年団も消滅。盆踊りも消えた。
今は小学校も移転し、小学校跡地は新興住宅地となった。

盆踊り大会でライブをしたその場所。昨夜通ったらそこに
家を建て越して来た親子四人が庭先で花火を楽しんでいた。

そう、あのライブを覚えている人はもう誰もいない。
しかし、まっちゃんの青春は確かに存在したのだ。

もしかしたら、心だけはまだあの頃のままかも知れない。

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それでは音楽。確かオープニングの曲。あれ以来、虜になり
カラオケの機会があれば必ず歌う。下↓をクリックしてね。

センチメンタル・カーニバル

 

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【私、もうひと花咲かせられるかな。モミジアオイ様如何です?】

コメント (8)
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