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塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

正論、その窮屈さ

2019-04-21 01:23:33 | 日記
 最近思うことに、正論は相手を精神的に追い詰めるのではなかろうかという点です。

 フジテレビが「絶対正義」でしたか、少し前まで放送していたと思いますが、

 「私、何か間違っている」

 という台詞は、完全に相手を袋小路に追い詰めていました。

 僕も同様で

 「お前の年、俺は家族全体を養っていたぞ」
 「ばあちゃんの年金には一切手と付けなかったから、ばあちゃんは金に不自由しなかったからな」

 と父が言えば、僕はもう縮こまって何も言えませんからね。

 正論は正論という名の通り、筋が通っているからこそ説得力があるわけですが、相手を心理的に追い詰めてまで用いることもないのではないでしょうか。

 父に言われなくとも、僕は僕自身で

 「何て不甲斐ない人生何だろうか」
 「大学時代にもどって、また教科書を読み直したいなあ」

 といつも思いますからね。

 昨年のワールドカップからビデオ・アシスタントレフェリーが導入され、ボックスエリア周辺での反則は、かなりの確率でPKの判定となります。

 1966年大会のジェフ・ハーストのゴールに代表される

 「得点か否か、ラインを割っているのか否か」

 という議論から解放されたことは、審判にとって心理的負担が少なくなったと言えるでしょう。

 しかし、この技術に頼りすぎることが審判の裁く力そのものを減退させることが無いようにしないといけませんよね。

 チャンピオンズリーグもワールドカップも、上位に進出すればするほど高額のボーナスが支給されますから、些細な出来事が成績に直結し悲喜こもごもが生まれます。

 これまでプラティニは審判の裁きが人間臭さ、つまり

 「人間である以上、ミスは起こり得る」

 という態度でしたが、今後はよりドライな形で裁くことになるのでしょうか。
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