塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

権力を持つ、持たないその違い

2013-09-11 01:48:54 | 日記
 その一方で指揮官としての権力を見せつけても受け入れられる人物とそうでない人物がいる事も事実です。

 前者の代表格がファーガソン、モウリーニョ、そしてダルグリッシュであるならば、後者の具体例はウナイ・エメリ、ラファ
エル・ベニテスでしょうか。

 エメリにしてもベニテスにしても、根っこが基本穏やかなのでしょう。

 言い換えれば目先の勝利と利益ではなく、むしろ視線はその先に向けられており、意味の無い舌戦には参戦しないという形が
あると思います。

 ですからベニテスがモウリーニョの後任としてミラノにやって来た際、クラブオフィスから

 「モウリーニョの栄光と幻影」

 を全て取り外すという形に出たことは、選手とスタッフに

 「ベニテスは器が小さい」

 と思わせてしまったのでしょう。

 じっくり構えてモウリーニョの功績を讃えながら、同時に自分の意図を選手に伝えてゆくには、きっと彼の神経は細かすぎた
のかもしれません。

 特にモウリーニョは

 「怒る、褒める」

 の針のふり幅が非常に大きく、彼の大胆な発言とジェスチャーをインテルの選手たちが受け入れていた側面もありますから、
ベニテスのそれはおとなしすぎたのかもしれません。

 僕は上司になった例もなく、とてもではありませんが他人に指示を出すという動作に長けているとも思えません。

 ただ選手というのは、時に冷静沈着な言葉よりも、大きな声ではっきりと革新に迫る意見を吐いてもらった方がやりやすい
のでしょう。

 モウリーニョがカリム・ベンゼマの「心」に訴えかけ、やる気を促したように率直な物言いができるかどうかも、指揮官に
は大切な要素だと言えます。
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