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塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

厳しい練習と言う前提は、本当に必要か

2015-09-02 00:42:30 | 日記
 学生スポーツで監督、顧問が選手を讃える際に

 「厳しい練習に耐えてきましたから、生徒たちは」

 と言います。

 同様に、生徒たちも厳しい練習に耐えてきたからと語ります。

 1996年の五輪最終予選、GKの川口能活は

 「Jで一流のFWと対峙してきから負けるはずがない」
 「あれだけの練習をしてきたから」

 を自分を鼓舞したと言います。

 そもそも、練習は厳しくなければ意味が無いのでしょうか?

 選手が自発的に

 「こんなメニューいいよね」
 「実戦してみたいな」

 と思える練習の方が、短時間で終わり、何より自分で考えたという達成感があるのではないでしょうか。

 米国はスポーツ科学の最先端として認知されていますが、学生でもトップになると水を飲まないと言います。

 これは彼らが敢えてやっていると聞きました。

 米国スポーツの多くはタイム、交代があり、攻守の入れ替えがある一方、給水のタイミングがアンバランスになりがちですから、「わざと」給水しない、時間を遅らせると言います。

 野球やアメフトは、守備の時間がそれぞれ異なる上に、ポジション(後者ならキッカー、パンター。ワイドレシーバーなど)で起用されるタイミングも異なります。

 一応、論理としては間違っていませんよね。

 かつて部活動、特にサッカーのような運動量が多いスポーツでも

 「水を飲むな」
 「着替えを持ってこい」

 と言う指示は無かったと記憶しています。

 体を労わると言う行為が欠けているわけですが、それより、欧州や南米ではストリートサッカーの地位が下がっても、選手から

 「厳しい練習」

 と言う声が聞こえてきません。

 僕の持論は

 「プロでもこんなに長時間練習しないのに、アマチュアが朝から晩まで汗を流す必要は何?」

 というもので、そんなことしているくらいなら、本でも読んだらよいのにと感じるのです。
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